1549年(天文18年)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した。
1568年(永禄11年)には上洛し、政治の実権を握った織田信長のキリスト教布教の保護を受けたザビエルは、京都や安土に教会や「セミナリオ」と呼ばれる西洋学校が開いた。
宣教師たちは、スペインやポルトガルなど「南蛮貿易窓口」でもあった、鉄砲や火薬などを手にしようと、キリシタン大名と呼ばれる戦国大名も九州各地を中心に現れた、その一人が島原半島に領地に有する有馬晴信であった、晴信は、島原藩の藩庁でもあった日野原城下に「セミナリオ」を開設した。
「セミナリオ」は、キリシタン大名やその縁者の子どもだけが入学を許される学校、生徒は全員カトリックの洗礼を受け、外国人教師の下でラテン語や天文学、西洋楽器の演奏など、最先端の学問を学ぶエリートであった。
こうした状況のなか、九州を訪れた宣教師ヴァリニャーノは、日本での布教活動をさらに進めようと、キリスト教の本山があるローマへの日本使節派遣を目論んだ。
日本の若者にヨーロッパの素晴らしさを見せ、帰国後には布教活動にあたらせる、また日本での布教の成果を教皇や貴族らにアピールし、活動資金を調達することが目的であった。
1582年(天正10年)、日野原城下の「セミナリオ」の生徒であった少年が選ばれ、長崎からローマを目指して旅立った。
少年たちはまだ13歳から14歳、伊東マンショ・原マルティノ・中浦ジュリアン・千々石ミゲルの4人であった。
彼らは2年半の航海を経てリスボンに到着、スペイン国王に拝謁した、その後ローマではローマ教皇グレゴリウス13世との謁見を果し、西欧の人々に日本を紹介した、また、陸路立ち寄った様々な街では絶大な歓迎を受けた。
この使節団のもう一つの功績は、西洋の技術や文化を日本にもたらしたこと。
印刷機・楽器・観測器・海図など、さまざまな近代的な機械などを持ち帰った、その中で特に有名なものが「グーテンベルク印刷機」だった。
この印刷機は長崎にもたらされ、その後20年にわたって宗教関係の印刷物などに利用されたという。
西欧社会で絶賛を浴びた少年使節団であるが、1590年(天正18年)に長崎に帰国した際には、日本でのキリスト教を取り巻く環境は一変してしまっていた。
信長の後継者である豊臣秀吉はキリスト教を敵視、1587年(天正15年)には「伴天連(ばてれん)追放令」を出し、宣教師たちに国外退去を迫った。
その後、この国策は徳川家康に引き継がれ禁教令となり、1873年(明治6年)まで継承された。
少年使節団の伊東マンショ・中浦ジュリアンの3人は帰国後に司祭となり布教活動を続けるが、マンショは若くして病死、ジュリアンは潜伏しているところを捕らえられ、処刑されてしまった。
原マルティノは、布教以外にも翻訳や出版の分野でも活躍したが、禁教令が出た後はマカオに移住し、二度と日本の地を踏むことは無かった。
西欧の奴隷制度を見て(日本から連れ去られた奴隷が西洋人に虐げられているのを目のあたりにしたと、「天正遣欧使節記」に記されている)、キリスト教やイエズス会に不信感を持ったと言われる千々石ミゲルは棄教して「千々石清左衛門」と名乗り、大村藩に仕えた、が、裏切り者としてキリシタンから命を狙われたり、仏教徒から異端者扱いされたりと世捨て人のように寂しい生涯を過ごしたらしい。
幼少の頃から、キリスト教を唯一無二として育てられ高みへ祭り上げられたかの使節団の少年たちにとっては、この落差はまさに地獄としか思えなかったのではないだろうか。
ガザ、イスラエル、ウクライナ、ロシアの大人の思想に翻弄される子供たちを想うといかに自由で平和な環境が大切かと思い悩んでしまう、物忘れの激しいボケまじかの老人だ。