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あるちゅはいま日記

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また雪が降った

南岸低気圧が3個も続けて、通っていった。
雪が立て続けに降って、結構な量が積もった、30㎝くらいかな。
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病院の予約があったので軽井沢まで降りていった、万山望を通過する国道は毎度の如く朝の雪かきが出来ていない。
四駆でもカーブの雪たまりでずるっと滑る、危ない、危ないと思っていたら...
案の定、おっちゃんの運転する乗用車がカーブで左側の溝に突っ込んでいた、たぶんハンドルを切った状態でブレーキを踏んで滑ったに違いない。
雪道はとにかくスピードを出しちゃイカン、後ろからアオられてもスピードを上げたり、道の横によけて譲ったりしてはイカン。
軽井沢も積雪、歩道が雪でいっぱいなのでハルニレテラスに行く旅行バックを引っ張る観光客が列を作って車道を歩く、とても危ない、ちょっとスリップをすれば人ごみに突っ込んでしまう、クワバラクワバラだ。
離山も、今日は真っ白け。
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もう2月も終わり、地球温暖化はどうなった?
我が家では薪ストーブを24時間焚きっぱなしなのに炭酸ガスの温暖化効果は全く見られない、誰か説明をして欲しい。




# by hanaha09 | 2024-02-28 08:36 | 田舎暮らし | Comments(0)

海外移住の変遷

江戸幕府は鎖国、というより限られた国、限られた国内の港でのみの海外との交流を行政策をとった、もちろん日本人の海外への渡航は禁じられていた。
開国を終え、幕府政治の終焉と共に一転海外との交流、日本国民の海外渡航を認めた。
ハワイへの移民第一陣が明治政府の承認を取ることなく横浜を出港したのが明治元年の事だった。
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大海の向こうに広がる、夢見る未知の世界に向け期待を巡らしたことだろう。
そうこうして、日本は一大移住時代を迎えることとなった。
明治41年には、日本政府の移住政策に応じた大規模移民第一陣781人がプラジルのサントスに旅だった。
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以降、昭和の大戦終了時までに移住した人は北米20万人、ハワイ20万人、中南米20万人、樺太28万人、中国27万人。
低賃金の過酷な労働、また荒地の農園開拓に、辛苦を重ねたことは容易に想像できる、苦難の道を乗り越えてきたのは日本国民のパイオニア魂と不屈の精神の賜物であったに違いない。
戦後復興を成し遂げた現代の移住ブームが巻き起こったのが1990年頃のバブル期、円高と好景気を背景に「海外で豪華な生活を」という掛け声で、オーストラリアのゴールドコースト、スペインのコスタデルソルなどの高級リゾート地には海外生活を謳歌しようと日本人が押し寄せた
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そして、2001年ごろからの移住ブーム、銀行の「不良債権」などが原因となって不況時代に突入、バブル時代から一転、「物価の安い国で節約生活を」といったものに変貌していった。
2011年以降、東日本大震災による放射能からの避難、経済の不透明さなどから、お母さんたちを中心に海外生活を目指す、海外へ資産を移す富裕層の人たち、若者層の国境なき就職活動も加速した。
そして、日本経済の低落による円安環境で、海外事情は全く変わって来てしまった。
タイで日本の年金暮らしを過ごす退職者たち、3割も生活が苦しくなってしまう、といって日本飲食店、日本食材スーパーは国内でいうと超高級クラス、といってもタイ国内での収入を求めても働き口なんてものは皆無に近い。
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長年暮らした日本の習慣はそう簡単に海外生活にはなじめない、望郷の念で夜も眠られなくなる。
海外移住残酷物語が延々と続くこととなる、日本に生まれたからには日の本が一番だ!



# by hanaha09 | 2024-02-27 09:53 | 田舎暮らし | Comments(0)

よくわからん二・二六事件

1936年2月26日と言えば、88年前の今日の日だ、東京にも雪が降った。
陸軍の青年将校等が兵約1,500名を率い大規模なクーデターを断行した、いわゆる「二・二六事件」だ。
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首相経験者を含む重臣4名、警察官5名が犠牲者となった。
反乱軍は永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、29日にかけて青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除き投降したことで収束した。
いったい何かよくわからんクーデターであったようにも思える。
事件の6年前に遡ると、世界恐慌により日本は深刻な不景気、昭和恐慌に見舞われた。
企業は次々と倒産、都市部は失業者であふれ、農村では農作物価格が下落し農民の生活も大変苦しいものとなった。
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ところが、当時の政府はこの深刻な事態に対しては無策、また政界内での汚職事件が続発、国民の信頼は著しく低下していた。
こういった背景に、満州・大陸へと勢力を広げる陸軍に淡い期待をいだいた国民に支持勢力が広がっていった。
一部の青年将校たちが天皇を中心とした新しい政治体制を築き、政治家と財閥の癒着の解消や不況の打破などを主張する「昭和維新」を掲げて決起した。
このクーデターは天皇の支持も得られず失敗に終わった。
しかし、彼ら青年将校の意にかかわらず、新たに発足した政府に対する軍部上層者たちの力は益々強まっていった。
この事件がきっかけとなり、軍部の暴走ともされる第二次大戦へと突き進んでいくこととなった。
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何事にも力でもって解決しようというのはアカン、という歴史の教訓なのであろうか...






# by hanaha09 | 2024-02-26 08:53 | 田舎暮らし | Comments(0)

天正遣欧使節が帰国を果たした日

1549年(天文18年)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した。
1568年(永禄11年)には上洛し、政治の実権を握った織田信長のキリスト教布教の保護を受けたザビエルは、京都や安土に教会や「セミナリオ」と呼ばれる西洋学校が開いた。
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宣教師たちは、スペインやポルトガルなど「南蛮貿易窓口」でもあった、鉄砲や火薬などを手にしようと、キリシタン大名と呼ばれる戦国大名も九州各地を中心に現れた、その一人が島原半島に領地に有する有馬晴信であった、晴信は、島原藩の藩庁でもあった日野原城下に「セミナリオ」を開設した。
「セミナリオ」は、キリシタン大名やその縁者の子どもだけが入学を許される学校、生徒は全員カトリックの洗礼を受け、外国人教師の下でラテン語や天文学、西洋楽器の演奏など、最先端の学問を学ぶエリートであった。
こうした状況のなか、九州を訪れた宣教師ヴァリニャーノは、日本での布教活動をさらに進めようと、キリスト教の本山があるローマへの日本使節派遣を目論んだ。
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日本の若者にヨーロッパの素晴らしさを見せ、帰国後には布教活動にあたらせる、また日本での布教の成果を教皇や貴族らにアピールし、活動資金を調達することが目的であった。
1582年(天正10年)、日野原城下の「セミナリオ」の生徒であった少年が選ばれ、長崎からローマを目指して旅立った。
少年たちはまだ13歳から14歳、伊東マンショ・原マルティノ・中浦ジュリアン・千々石ミゲルの4人であった。
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彼らは2年半の航海を経てリスボンに到着、スペイン国王に拝謁した、その後ローマではローマ教皇グレゴリウス13世との謁見を果し、西欧の人々に日本を紹介した、また、陸路立ち寄った様々な街では絶大な歓迎を受けた。
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この使節団のもう一つの功績は、西洋の技術や文化を日本にもたらしたこと。
印刷機・楽器・観測器・海図など、さまざまな近代的な機械などを持ち帰った、その中で特に有名なものが「グーテンベルク印刷機」だった。
この印刷機は長崎にもたらされ、その後20年にわたって宗教関係の印刷物などに利用されたという。
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西欧社会で絶賛を浴びた少年使節団であるが、1590年(天正18年)に長崎に帰国した際には、日本でのキリスト教を取り巻く環境は一変してしまっていた。
信長の後継者である豊臣秀吉はキリスト教を敵視、1587年(天正15年)には「伴天連(ばてれん)追放令」を出し、宣教師たちに国外退去を迫った。
その後、この国策は徳川家康に引き継がれ禁教令となり、1873年(明治6年)まで継承された。
少年使節団の伊東マンショ・中浦ジュリアンの3人は帰国後に司祭となり布教活動を続けるが、マンショは若くして病死、ジュリアンは潜伏しているところを捕らえられ、処刑されてしまった。
原マルティノは、布教以外にも翻訳や出版の分野でも活躍したが、禁教令が出た後はマカオに移住し、二度と日本の地を踏むことは無かった。
西欧の奴隷制度を見て(日本から連れ去られた奴隷が西洋人に虐げられているのを目のあたりにしたと、「天正遣欧使節記」に記されている)、キリスト教やイエズス会に不信感を持ったと言われる千々石ミゲルは棄教して「千々石清左衛門」と名乗り、大村藩に仕えた、が、裏切り者としてキリシタンから命を狙われたり、仏教徒から異端者扱いされたりと世捨て人のように寂しい生涯を過ごしたらしい。
幼少の頃から、キリスト教を唯一無二として育てられ高みへ祭り上げられたかの使節団の少年たちにとっては、この落差はまさに地獄としか思えなかったのではないだろうか。
ガザ、イスラエル、ウクライナ、ロシアの大人の思想に翻弄される子供たちを想うといかに自由で平和な環境が大切かと思い悩んでしまう、物忘れの激しいボケまじかの老人だ。
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# by hanaha09 | 2024-02-25 08:20 | 田舎暮らし | Comments(0)

エストニアという国

バルト海に面する国、エストニア共和国。
総面積は九州より少し大きい程度、人口は140万人足らず、首都タリンは超有名な中世の面影を残す古都、多くの観光客が訪れる。
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1991年の2月24日、旧ソ連邦から独立を果たした、この国の歴史をたどるとなんともすごい。
古代のバルト海沿岸内陸部は、寒冷で土地も肥沃ではないため農耕はすこぶる困難であった、ゲルマン人、スラブ人そしてその後にエストニア人などが定住していた。
中世期後半となり人々はバルト海沿岸の海上ルートを開拓、北欧との貿易を繰り広げた、首都タリンはロシア、ドイツ・スカンジナビア間を結ぶ港湾都市として栄えていった。
13世紀初頭、デンマークが十字軍を率いて占領、その後ドイツ人と共にハンザ同盟を結成した、タリンは「デンマーク人の城」という意味だ。
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重要な港湾都市としてのタリンは、バルト海の海産物、内陸の穀物、材木や毛皮などを仕入れて、オランダ、ドイツ、イングランドなどに持ち込み、毛織物などの製品との交易によって、富を蓄積していった。
14世紀半ば、デンマークはドイツ騎士団にこの地をドイツ騎士団に売却、引き上げた。
16世紀入り、この地を巡ってロシアとの戦いになり、エストニアはスエーデンと同盟を結び勝利、だがロシア・スエーデン国間でエストニアはスエーデン領となった。
そして、17世紀になるとスエーデンの覇権を危惧したロシアが侵攻、ロシア支配下となったが、ロシア革命の際に独立を勝ち取る。
1940年に勃発した第二次世界大戦最中にスターリンの野望によりまたまたロシア(ソ連)により強制的に占領されることとなった。
第二次大戦終了後にはソ連はエストニアを併合、農村集団農場化政策などが推進され、反体制派とされた人間が強制連行されシベリアに追放されると共に、ロシア人などが他の共和国から多数エストニアに流入した。
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1991年ソ連のペレストロイカ、ベルリンの壁事件などで国内に民主化の波が押し寄せた、ついに1991年、ソ連からの解放を勝ち取った。
エストニアの歴史博物館には「世界で最も抑圧された民族の博物館」とある。
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この時には外の世界への独立した唯一のつながりは、外務大臣の庭に隠されていたフィンランド製の携帯電話だけであったという。
このソ連時代の脆弱なインフラは、政治が全くの白紙から始まったことを意味した、時の首相は天然資源のない小国にとって頼りになるのは大規模な技術革新とインターネット経済であると確信したという。
国の若い大臣たちは、従来の技術に縛り付けられることなく、独自のデジタルシステムを構築し、国を動かしていった。
その結果、教育システムに、商取引に、医療に、行政に、電子政府にと、世界一のIT国家となった、日本の他各国もそのセキュリティも含めたシステムを参考とすることとなった。
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押し寄せる大国につい最近まで翻弄され、痛めつけられた小国である、エストニアの前首相は「エストニアの成功は、"従来の技術"を単に捨てることよりも、"従来の考え方"を取り除いたことである」と語っている。
落日を見るような日本国の政治家、また経済界にとっても、心すべき言葉ではなかろうか。
この前通った眼科ではもう一月にもなるがマイナカード読み取り機はいまだ「調整中」の張り紙が、今年の秋にはカードではなく紙の保険証が特別に発行されるとか、なんともはや...




# by hanaha09 | 2024-02-24 08:31 | 田舎暮らし | Comments(0)