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あるちゅはいま日記

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武士の門限

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「銭のない非番は窓へ顔を出し」
休みでも金がない、遊びに出られず、ただただ外を眺めるだけ。
そんな武士の様子を詠んだ、今でいうサラリーマン川柳だ。
もともと「侍は本来戦いをする」という大きな使命があった。
江戸時代に入り、長き戦乱の時代は終焉を迎え、武士はすることが無くなった。
ある紀州藩士の登城勤務日誌がある。
6月は6日、7月は0日、8月は11日、9月が11日...小学校の夏休みのようなものだ。
そして、たいていは午前中だけの勤務、昼からは家に帰って一休み、二休み。
江戸は物価が高い、する事も無い、ただただ窓辺で過ごすことになる。
とはいえ、武士には24時間体制で非常時に備えなければならないという大変な役目があった。
泰平の世の中でそんな臨戦態勢を取る必要があったのかどうかは別にして、これが武士の建前であった。
江戸の武士には、例え妾の家でも、吉原での外泊もままならず。
午後6時までに帰らないと門は閉ざされた。
庶民の間には大旅行ブームがやってきた。
お伊勢参りだの、草津温泉巡りだの...色々楽しんだ。
武士にはたまの息抜きの一泊温泉旅行さえかなわなかった。
「武士は食わねど高楊枝」にも見える武士の建前。
特権階級とは考えられたが、結構大変窮屈な武士という職業であったようだ。

今日もサンデー毎日の暇を持てあまし、雪景色を窓から眺める武士でも何でもないジイさんだ。



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# by hanaha09 | 2018-03-24 21:09 | 田舎暮らし | Comments(0)

浅間山はまた雪

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浅間山がまた真っ白になった。
こんな感じで畑仕事を始めるサインとなる「逆さ馬」の模様が見えてきてたのに。
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このところの浅間山は結構静かになってきた。
火山ガス(二酸化硫黄)の排出量は200t/dと少なくなってきた。
噴煙の高さは観測できないくらいになった。
と、いって安心はできないのだ。
まだ、火山性地震の回数は100回近く、南麓の塩野山付近の地殻の膨張は以前進んだままだ。
噴火の際の噴出物の熱による」融雪なだれも心配だ。
六里ヶ原に融雪なだれ被害防止の砂防ダムが出来上がりつつあるが...
我が家の方面には全く防災施設はない。
般若心経を唱えて祈るのみ。
が、般若心経も最後まで覚えてない、これは困ったことになりそうだ。










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# by hanaha09 | 2018-03-23 17:07 | 田舎暮らし | Comments(0)

さんごの滝

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いつの時代かわからない。
ある時、大蛇が鎌原の村の下に来て、人畜を悩まし人々はおそろしさにふるえあがっていたそうな。
鎌原の殿様の家の下男、三五郎がこの大蛇を追い詰め、見事に仕留めた。
その鱗のあまりにも美しさにひかれ、数個の鱗を持ち帰ったという。
後に、松代にある鎌原家へ持参し、今も松代に伝わっているという。
松代では真田家三代に仕えた鎌原桐山(かんばらとうざん)が主席家老として勤めていた。
門人の一人に佐久間象山が居た。
三五郎の大蛇を仕留めた場所には滝があった。
鎌原の村人たちはこの滝をさんご(三五郎)の滝と呼んでいる。



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# by hanaha09 | 2018-03-22 23:16 | 田舎暮らし | Comments(0)

春の雪

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毎年、この時期に雪が降る。
昨年は3月22日、2016年は3月24日、2015年は3月24日、2014年は3月11日、2013年は3月25日に雪ではなくあられが降った。
いずれも南岸低気圧の影響だ。
べた雪で気温も高めなのですぐ融ける雪だ。
この雪が終わると、凍結した地面も溶け出し泥沼になる。
一年で一番大変な季節になる、と同時に春の勢いが加速度を増す季節だ。
また、冬も終わった。
齢も一つ重なった。




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# by hanaha09 | 2018-03-21 16:19 | 田舎暮らし | Comments(0)

塩の道

昔は塩は八百屋さんでは売ってなかった。
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こんな看板のかかってる普通の店の玄関で売ってた。
大きな木の箱があって粗塩をはかり売りで買ってた。
政府の専売制度がしかれていた、無くてはならない消費財の利益独占が行われていたのである。

江戸時代には塩産業が発達、主産地は瀬戸内地方だった。
この塩は北前船、菱垣廻船で日本各地に運ばれた。
沿岸から山の奥までには「塩の道」ができた。
最も有名なのが糸魚川より松本の塩尻(塩の道の終点)までの千国(ちくに)街道、松本藩が塩を運ばせた主要な街道だった。
また、直江津に荷揚げされた塩が高田宿の扱いで北国街道を通り上田まで「塩の道」で運ばれた、上田市内には塩尻の町名が残されている。
その途中、善光寺から仁礼街道を抜け、嬬恋村を通り上野の国に至るルートもあった。
その瀬戸内海から江戸に荷揚げされた塩も塩尻に上って来た。
江戸川、利根川を高瀬舟で高崎の倉賀野宿までやってきた塩は、陸揚げされ碓氷峠を越え、和田峠を越えて諏訪や岡谷まで運ばれたという。 
まさに中山道を通ったわけである。
陸上の運搬には馬や牛が使われたが牛を用いることが多かったそうだ。
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牛は歩みはのろいが、力が強く、野宿も出来、道端の草を食べれば済むなどの利点が多かった。
中山道のように大きな街道には草が生えて無いので牛が腹をすかせると並行する草のある細い側道を通っていった。
そして、馬は宿場ごとに取り替えなければならなかったが、牛は「通し」ができたから手間がかからなかった。 
牛の背に二俵の塩を積み、一人が五頭ないし六頭を連れて移動した、陸船(おかふね)と呼んだそうだ。
海から遠い地方に住む人々には大変貴重な塩、命を運ぶ「塩の道」だった。





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# by hanaha09 | 2018-03-20 17:26 | 田舎暮らし

飯綱山の天狗が食べた麦飯

いつの事だろうか、長野県の飯縄山もしくは飯綱山(いいづなやま)には飯縄三郎という天狗が住んでいたことになっている。
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「日本八天狗」にうちの一狗(天狗は一狗二狗と数える)、その3番目の格を持つ天狗だ。
平安時代初期からの天狗ということで天狗仲間では大した大物であったらしい。
多くの者に富を分け与え、万病を取り除き、長寿を全うさせ、火難・盗難を除き、強敵を降服させるなど、数多くの霊験を施したという。
かつて、日本全土を襲った凶作の折りには、「天狗の麦飯」と呼ばれる飯綱山頂に無限にある砂を日本全国を飛びまわって配り、多くの庶民の命を救ったといわれる。
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飯綱山は、古くから信仰の山として知られ、各地から大勢の修験者が修行に訪れた。
「管狐(くだぎつね)」という人には見えない小動物を使って、人の過去や未来を告げさせる飯縄邪法なるものも産んだ。
山にこもって穀食を断ち千日間(3年間に近い)の修行が行われ、新たな天狗も登場した。
穀食を断ったといっても、何も食べないわけにはいかない。
そこで栄養分にしたのが、「天狗の麦飯」といわれる飯砂(いいずな)だった。
江戸時代末期に佐久臼田の井出道貞のまとめた信濃地誌「信濃奇勝録」にその記述がある。
「…此道筋峯より北へ十四丁下りて方十歩はかりの間湿地あり。此所渾(すべ)て粟飯の如く大麦の割飯に似たり。俗に餓鬼(がき)の飯という。手に掬(きく)して喫するに味ひ麦飯に替る事なし。誠に珍奇の物なり。これによりて飯砂山(飯綱山)と号(なつく)といふ…」と「麦飯」の存在について記している。

長野の信濃町に晩年を過ごした小林一茶も、
~ 涼しさや飯を掘り出す飯縄山 ~  一茶
~ 粟飯(天狗の麦飯)や爰(ここ)にありやと女郎花 ~  一茶
なる句も残している。
ひょっとするとかの性豪の一茶もその効能に魅かれたのかもわからない。

この珍奇の物の正体はずっと謎に包まれていた。
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それを徐々に解き明かしているのが京都大学で教鞭をとる宮下英明教授だ。
この麦飯とは、現時点ではバクテリアの塊、10種類ほどのバクテリアが相互依存、無害のようだが栄養価は全くない、どのように増えるかまた条件などは全くわからない...今後5年の目標でDNA鑑定などの手法を用いて解明したい、と。
そして、教授曰く、「こんな地味な研究を行う学生が居なくて...、研究費もつかなくて...、私もじつは本職の藻類研究の片手間...、しかし明らかにしなければならない最大に面白くて興味ある課題だ。」
最後に「実は飯縄山にも、天然記念物指定の小諸にも、もうこの麦飯は無い。唯一現存が確認できてるのは世界でも嬬恋村の山中だけになっているのだ。」










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# by hanaha09 | 2018-03-19 18:21 | 田舎暮らし | Comments(0)

浅間真景

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1859年から1861年にかけて発行されたという浮世絵「諸国名所百景」。
二代目広重によって描かれた浅間山の風景だ。
山の上には熔岩とおぼしき大量の岩塊、裾野まで飛び散った火山弾、山肌には緑のかけらもない。
人が足早に行き交う街道筋、ここにも熔岩と思われるような黒い岩、北麓の鬼押し出しのような光景だ。
山の様子からは、軽井沢から御代田にかけての中山道界隈の図のようだ。
このあたりかも?
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しかし、この「諸国名所百景」の発行されたころの浅間山噴火記録を見ると、めだった噴火は無い。
浅間山南麓方面にはこんな大きな熔岩は流れてこなかった。
やはり、少し前の1783年天明の大噴火が世間の注目をあびていた。
二代目広重もこの噴火による大きな爪跡が頭の中をよぎっていたのでは...








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# by hanaha09 | 2018-03-18 18:53 | 田舎暮らし | Comments(0)

脇往還騒動記

関ヶ原の戦いで覇権を握った徳川家康は、幕府の政治支配力を強めるために、道路制度の改革と整備に乗り出した。
江戸へと続く五街道は、参勤交代などの公用のために整備された道、参勤交代によって宿場をはじめとする街道筋に大きな経済効果をもたらした。
各宿場には荷継に必要な公用人馬の徴用が義務付けられた、その代わりとして諸税の減免、宿内における旅籠、茶店などの営業権利を認められた。
この特権的な宿場は江戸初期における人、商品の移動が少なかった時代にはそれ相応の仕組みととらえられていた。
ところが元禄、享保に入り、全国的な高度成長経済を遂げ、大量の商品、旅人の移動が激しくなってきた。
北信州から高崎を通って江戸に達する街道には、五街道に次ぐ重要街道であった北国街道(参勤交代に始まり、佐渡金銀の輸送、越後の米、北信州産の菜種油等々の輸送路)に引き続く中山道、その脇街道として善光寺から仁礼、鳥居峠、大笹村を通過する大笹街道とそれに続く高崎の倉賀野までの信州街道があった。
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この脇道往還は私的な商品貨物輸送にとって経済的でしかも迅速な輸送路となってきていた。
本街道に比べて大笹街道は菅平越えの険しい道なのだが、距離が短く宿場が少ないために、荷がいたまない、経費を抑えられる、公用荷物によって遅滞する事が無い、という利点があった、よって本街道と同じくらいの商用荷物がこの脇街道を利用した。
当然幕府の命により特権的な利益を得ていた本街道の宿場との争いが生じた。
かくして、慶安3年(1650年)、北国街道の宿々が、大笹街道のせいで駄賃荷物が本街道を通らなくなった、稼ぎが減ってしまった、と幕府に訴えを起こした。
幕府の裁定は「松代より西の者は北国街道を、松代より東の者は大笹街道を通るように、松代より東の者でも北国街道を通りたい者は心まかせに往来するように」との裁定が下った、大笹・信州街道を幕府により街道として公認したものでもあった。
しかし、この裁定で落ち着くことは無かった。
実は信州からの荷物は大笹村にいったん降ろされた。
その後は、大戸を経て高崎に至る信州街道か、もしくは浅間山の麓、六里ヶ原を通って中山道の沓掛宿(今の中軽井沢)から高崎へと経る本街道があった。
大笹宿の問屋は利潤の高い沓掛への経路を選んで荷物を通した。
帰りの馬には浅間高原の薪や牧草を積んで帰った、経済効果の高い沓掛街道だった。
大笹宿は北信州の各藩の米蔵、様々な商品の市場、まるでシルクロードの中継点のような繁栄を見せた。
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これにまた、大戸宿などの信州街道連合が物言いをつけた。
元禄11年(1698年)には大戸通り六か村から代官所への訴えがある。
「江戸送りの商人荷物は商人の望みで大戸を通ったり、沓掛を通ったりできるのに大笹宿では自分勝手に儲けの多い沓掛宿ばかりに送っているのは憤慨ものだ」と訴えている。
大笹宿の問屋としては、何の特産物もない山の一村として駄賃稼ぎ、交易が唯一の稼ぎと考えたのだった。
その訴えのせいか、荷物は従来とおりの信州街道大戸経由が主となり、沓掛宿の勢いはなくなっていった。
まだまだ、これでおさまるわけはない。
中馬稼ぎという新たな商売が現れた、いわばドアツ-ドアの宿場で荷継をやらない今でいう宅急便だ。
これにも代官所に訴えた大戸通りの宿場連合は、幕府より中馬の宿場町の素通りを禁ずる裁定をもらったが...
その内、この大笹街道、信州街道をも通らない、毛無峠からの最短の山越えルートができた。
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これには大笹村も合わせて猛反対、幕府によってこの道は通行禁止にされたものの、その経済効果から抜け道を利用するものは後を絶たず。
何人もの密輸者が大笹村から訴えられている。
そして、明治に入ると「坂の上の雲」を目指した超近代化の波が押し寄せる。
街道は廃止となり、鉄道が輸送の主体となった。
長年争った宿場、街道筋はもう誰も通ることは無かった。
嬬恋村はつい最近まで日本のチベットだ!なんて言われてた。
諸行無常、栄枯盛衰、習わしのとおりだった。
でも、今の素晴らしい自然があるのもこの世の習わしかもわからない。













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# by hanaha09 | 2018-03-17 21:24 | 田舎暮らし | Comments(0)

十六団子

3月16日は田の神おろしと言われ、山と里を行き来する神様が、山から種子を持ってやってくる日と言われていた。

里に住む人々は、 その神様をもてなすために16個の団子を用意するのだ。

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田の神様は臼と杵で粉をつく音を聞いて里にやってくる。

1年の五穀豊穣、子孫繁栄を願うのだ。

山は神秘的な世界であり、そこに神霊の存在を信じてきた農民にとって、 その代表が「山の神」であった。

春には里で田の神となり、秋の収穫後には再び山に帰って山の神となる。

帰る際の山の神にも十六団子をお供えする。

この粉食文化は縄文時代に始まったと言われる。

石皿や石棒が遺跡から見つかる。

どんぐりやとちの実、それに球根や種子を粉にして食料とした。

これによって煮炊きが簡単になり、また消化が良くなった(子供の成育に役たった)。

それにも増して、どんぐりや栃の実に含まれるタンニン成分の除去(このタンニンは大量に摂取すると便秘になる)が素早く行えるようになった。

石皿や石棒、時代を経ると臼や杵でぺったんぺったん。

子孫繁栄の象徴でもあった。






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# by hanaha09 | 2018-03-16 21:57 | 田舎暮らし | Comments(0)

上野三碑-多胡碑

日本列島東部の古代上野国[こうずけのくに](現在の群馬県[ぐんまけん])に存在する三つの石碑、「上野三碑[こうずけさんぴ]」は、日本に18例しか現存しない古代(7~11世紀)の石碑のなかで最古の石碑群であり、人々によって大切に守られてきた。
夏のような天気の日、群馬県立歴史博物館に見に行った。
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本物に限りなく近いレプリカで思わず「これ本物?」なんて叫んじゃった、お恥ずかしい限り。
昨年の10月終わりに「世界記憶遺産」に登録されたばっかりだ。
多胡碑は、奈良時代初めの和銅[わどう]4(711)年に上野国の14番目の郡として、多胡郡(高崎市)が建郡されたことを記念して建てられた石碑だ。
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「現代語訳」
朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四(七一一)年三月九日甲寅。左中弁正五位下多治比真人による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣正二位藤原(不比等[ふひと])尊

この碑文、一部漢文を含むものの日本語の語順で読める。
この地の人々は独自の豊かな文字文化を持っていたことを示すのだ。
多胡郡とは今の高崎市吉井地域と南八幡地区、藤岡市の一部。
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「多胡」は胡人=渡来人が多いことを表すのだそうだ。
日本書紀には百済、高句麗、新羅から大勢の移民がやってきたこと、武蔵の国のあちこちに住まわせたことが書かれている。
この地域には瓦を焼いた窯跡、糸を紡ぐ紡錘車が大量に出土した遺跡などがある。
渡来人がもたらした最先端技術でものづくりを行う当時のハイテク産業都市であったのだ。
また、朝廷が東北地方を平定するための最前線であったとされ、多胡郡が、重要な拠点機能を持っていたとも推察される。
そして、碑文にある「羊に支配を任せる」?何のことだろうか。
これはどうも人の名なのだそうだ。
羊年の羊の日の羊の刻に生まれた多胡のヒーローが「羊太夫伝説」としてこの地に語り継がれている。
この土地の人々の中には「多胡碑」は実は「羊太夫」の墓と信じ「おひつじさま」とも呼ぶそうだ。
その多胡碑は終戦直後の昭和20年9月ごろ、進駐軍の接収から守ろうと、文部省(当時)の指令で吉井町(同)が多胡碑から56メートル東方の畑地に埋めた。
よく21年には掘り返され、現在の場所に再建された。
今年になって、多胡碑の現在の場所から約60メートル東の民家の庭先で埋設溝が発見された。
多胡の人々が必至で守ろうとした古代のハイテク産業都市の証だったのだ。
多胡郡はいわば当時、つくば学園都市と京浜工業地帯と横浜港と霞が関を一緒にしたような都市であったに違いないという人もいる。
古代ロマンの里だ。






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# by hanaha09 | 2018-03-15 20:43 | 田舎暮らし | Comments(0)