日本に再度やって来たペリー、嘉永七年(1854年)の1月16日(旧暦)のことだった。
浦賀を経て武蔵小柴沖(現在の八景島沖あたり?)に投錨したのが軍艦9隻もの大部隊であった。
2月10日にはペリー提督の一行300名が横浜応接所に案内された。
日本側によるペリー饗応の宴が開かれた、鮑をぜいたくに使った儀式膳に始まり二汁五菜、鯛の吸い物、豚の煮もの、平目の刺身、鮑や貝のなますなどぜいたくな50種類の魚を使った「本膳料理」が供された。
参加合計500人分、1500両(現在の価値で1億5千万円?)をかけたこの饗宴料理、ペリー一行は刺身には手は付けず味の濃いものしかが食されなかったようだ。
日本酒、焼酎、味醂酒が用意されたがなぜか味醂酒ばかり飲んでたのは乗組員たち、ただただ上品に盛り付けられた料理の量がご不満だったようだ。
想像するにそれよりも一番の不満が女性によるご接待が無かったことかも...
そして、ペリーはこの返礼として、条約締結の前日に旗艦パターン号の甲板上で日本側の役人を呼んでの晩餐会を開いた。
日本側からは70名が西洋風の宴席についたという。
艦内で飼育されていた牛肉、羊肉、鶏肉、さらにハム、牛舌、魚、野菜果物などの料理が供された。
その量は少なくとも日本側の本膳料理の20倍であったとも記されている。
当時の夕刊フジである「藤岡屋日記」によると、幕府の役人たちは大いなる好奇心でもってすべての料理を食し、残ったものは懐紙に包み広い袖の中に入れて持ち帰ったという、特に牛舌を「これは絶品也 第一の馳走」と書き残している。
こんなおまけ話も書かれている、代表団の一人松崎満太郎が酔っ払ってペリーの首に抱きつき「Nippon and America all the same heart」と繰り返したという。
ペリーは「松崎が条約に署名をするならキスさせても良い」と上機嫌であったらしい。
旨い酒と料理は人の心を和やかにし、また思わぬ譲歩も引き出すものに違いない。
そういえば、ニュースで話題にになる官官接待に、特定業者の接待には豪華料理と高価な酒がつきものらしい。
これも江戸時代より現代まで日本人が大事に引き継いだものの一つかもわからない。