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あるちゅはいま日記

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昭和の常識は平成の非常識

昭和が過ぎて平成も1年ほどで終わるそうだ。
長く生きてきたもんだ。
この時代でやはり昭和は懐かしい。
平成の世の中から昭和の常識のランクつけがネットに載っていた。
順番は違う私の10傑。
*なんといっても家庭のだんらんの中心がテレビになった。
 放送時間は限られていたのでテレビ、もちろん白黒のスイッチを入れるとこの画面が良く出てきた。
 こんなまん丸では無かった、歪んでいた。
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 画面が斜めの横縞になる、テレビの箱の横を思い切り叩くと直ることがあった。
 チャンネルの切り替えはガチャガチャのダイアル式、映りが悪いと押したり引いたりした。
 屋根の上に取り付けたテレビのアンテナが台風でしょっちゅう倒れた。
 家にテレビがまだない時には隣に行って見せてもらってた、葡萄を出してくれたりして「プロレス」や「事件記者」を見てた。
*煙草はどこでも吸えた。
 電車の座席横には灰皿があった、JNRのマークが入ってた。
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 東京駅で新幹線の喫煙車に乗り込むと、向こうが見えないくらいに煙ってた。
 ホームの線路下にはポイ捨ての煙草(黄色い色のフィルーターのハイライトが主)の吸殻が敷き詰まっていた。
 飛行機の中でも煙草は吸えた、どんな灰皿だったかは忘れた。
 通りがかりの外人からは煙草を1本くれとよく言われた、外人は情けないなぁと思った。
*土曜日は半ドンだった。
 幸いにも雇ってくれた会社は最初から土曜日・日曜日と休みだった。
 共稼ぎの家内は出勤、土曜日には外へ出ないでと言われていた、失業と間違われたら困るからと。
*給料は現金支給であった。
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 今の福沢諭吉ではなく聖徳太子が3枚ほど入ってた。
 半端の小銭をポケットに入れて残りを家内に渡していた、これが小遣い。
 給料日の退社時間になると、会社の玄関前にキレイ処とやり手ママさんが待ち構えていた。
 飲み屋のツケの回収と今宵のお誘いだ。
*電車のトイレは直通だった、レールがのぞけるようなのもあった。
 よって、停車中に利用すると線路の横に山が出来た。
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 といって、走ってる最中に利用すればあたり一面に噴霧されることになる。
 上野駅に近い常磐線沿線では飛んできた女性の生理用品で怪我をした人もいるらしい。
*電話は黒電話。
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 会社の机4つくらいに一台がついていた、もちろん社内交換手が2人ほどいた。
 この交換手のお姉さんの機転のおかげで外でひっくり返ってけがをした家内の連絡が出張先に伝わった。
 市外電話をかけるのには上司の前の電話でしなければならなかった。
 あちこちの電話番号を覚えた、たいていの番号は電話帳を見なくてすんでいた。
 今は家の電話番号もまともに思い出せない。
 少し外れるが八百屋での買い物の際にはすべて暗算の後に支払った、商売人の家に育った家内はいつも正解。
*ウインナーは真っ赤だった。
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 早く言うとウインナーの色が汚くておいしく見えなかったので色素を入れておいしそうな赤にした、ということらしい。
 子供の頃の弁当にウインナーなんてものは入ってなかった。
 今でもあんまり好きではない食べ物の一つだ。
 *駅の伝言板。
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 携帯電話を誰もが持ってる時代ではなかった、お得意さんをお誘いする銀座のママさんか社長車の無線電話くらいだった。
 庶民はもっぱら伝言板を用いた、なんとももどかしいが駅に集まった人々をホットさせる小道具だった。

まだまだある昭和の常識で平成の非常識、もうこれくらいにしておこう。







 
 
 

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by hanaha09 | 2018-02-28 12:38 | 田舎暮らし | Comments(0)

世界のオートバイ、餃子文化も浅間から

ライラック号を誕生させた「丸正自動車販売」。
戦後間もなくの1948年(昭和23年)年、自動車のボディーを製作する「丸正商会」を本田宗一郎氏を師と仰ぐ伊藤正が浜松市内に設立した。
そして、エンジン技術者だった溝渕定の提案によりオートバイ製造に着手した、「丸正自動車製造」の出発点だった。
当時の2輪車の駆動はチェーン、昔の自転車のように外れやすい、切れやすい。
そこでベルト駆動によるオートバイを作ってみた、6台ほどの試作車が瞬く間に売れた。
これに気を良くした丸正は、今度はチェーンもベルトもないドイツ風のドライブシャフトを採用した新型オートバイを1951年(昭和26年)に開発した。
車名は、伊藤の「藤」から同じ季節に咲く花として連想された「ライラック」、ライラックML号の誕生だった。
その1年後には当時ホンダが先行開発を行っていたOHVエンジンの開発に成功、1955年の初めての本格的なレースとなった浅間耐久レースには満を持したライラックSY号を出場させた。
溝渕正を監督とするファクトリーチームを北軽井沢交差点付近の合宿所に送り込み有力メーカーに匹敵する勢いだった。
そして、ホンダ、スズキ、ヤマハを尻目に最も過酷で危険であったと言われるレースの優勝をかっさらった。
この成功で浜松の工場のオートバイは月産600台に登っていった。
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右肩上がりの業績を背景に1957年(昭和32年)には、東京都内に自社ビルを完成、東京に本社機能を移した。
その間にも女性を対象としたベビーライラック号を発表、タンクをヘッドライトと一体化、シフトチェンジはグリップ・チェンジ、軽量化のためブレーキは後輪だけと云うスクーターでもバイクでもないユニークでおしゃれなバイクとなった。
藤山一郎の「ライラックの歌」を全国の販売店に配布、さらに大相撲のラジオ中継スポンサーと、膨大な宣伝活動を展開した。
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しかし、二輪車メーカー毎の技術開発・生産能力と営業力に著しい格差が生じるようになり、膨大な数が存在していた零細のオートバイメーカーは淘汰されていった、丸正も例外ではなかった。
技術開発に突っ走るワンマン伊藤正は、幾多の変遷の末、廃業の道を選ばざるを得なかった。
しかし、ホンダと並んだと言われる技術、そのまま埋もれることは無かった。
エンジン技術者であった溝渕定はその後台湾でオートバイ産業で携わり、浜松に帰った後には超小型餃子製造機を開発、浜松の餃子ブームのきっかけをつくった。
また、丸正で設計、工務から企画まで携わった請井由夫は、そのものつくりスピリッツをそのまま受け継ぎ、設立した金型メーカーから餃子製造機の製造メーカーに転身、40年たった今日本の餃子文化を世界に広げようと浜松から発信を行っている。
世界に誇るオートバイ、それに餃子文化、いずれもそのきっかけはこの浅間高原にあった...
伊藤正は発祥の地浜松に「ライラック荘」というアパートを建て、晩年を過ごしたそうだ。
余程の思い入れがあったライラックだったのであろう。











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by hanaha09 | 2018-02-27 18:53 | 田舎暮らし | Comments(0)

ライラック号

昭和30年11月、北軽井沢から浅間牧場、鬼押出し園を駆け巡って北軽井沢までの公道を締め切って行われたのが、全国でも初めてといわれる2輪モーターサイクルレース。
当時の道路は舗装もない、熔岩の端くれがゴロゴロ転がり火山灰が巻きあがる文字とおりの1周19,1kmのダートコース。
しかも、標高が1,400m近くもある浅間高原だ。
モーターサイクルは250cc 級、このコース5 周を走破挑戦する選手27 名が満を持して、レーシングの爆音も高らかに勢揃いした。
午前9時に発送合図旗と共に30秒間隔で2台づつのスタートを切った。
浅間牧場入り口までのおよそ3km、ほぼ直線の国道でははや激しい競り合い。
牧場入り口からの登り坂は高い運転技術と高い走行能力のせめぎあいだ。
牧場を出ると鬼押し出しまでは狭くて曲がりくねった凸凹の激しい殺人コース、各車いたるところジャンプ、スリップ。
2週目の牧場付近ではホンダ勢がトップ、そのままゴールにすべりこむ勢いだ。
ホンダ勢は1台の前輪がパンク、選手は後ろの座席に移り重心を移してレース続行、もう1台はハンドル故障でフラフラ運転だがついにチェーンが切れて脱落。
周回遅れも出る最終5週目には選手はへとへと、故障続きのマシン、満身創痍を思わせる過酷なレースに様変わりしていた。
トップはホンダ車、これを追うのが若干16歳の伊藤史朗選手の乗る丸正自動車製造のライラック号。
出走27台のうち完走がかなったのがわずか12台、この中で250cc級で1位に輝いたのが浜松の小さな工場で生まれたほとんど無名のライラック号だった。
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ライラック号には秘策の技術が詰め込まれていた。
チェーンを使わないシャフトドライブとOHVエンジンだった、過酷な道路状況にも耐える構造だった。
ライラック号の優勝は高い技術力を証明するもので生産台数も増えていった。
しかし、丸正自動車は高い技術力に溺れ、経営判断に劣り、大手メーカーの中に埋没するように1961年に倒産に至ってしまった。
浅間記念館には起死回生をねらった女性向けベビーライラック号が展示されている。
そして、誰が植えたか記念館に通じる通路にはライラックの花が植えられている。











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by hanaha09 | 2018-02-26 22:45 | 田舎暮らし | Comments(0)

不殺生戒

江戸時代、八幡宮さんで放生会(ほうじょうかい)なるものが開かれていた。
放生、つまり捕らえた生き物、鳥や亀などを放してあげること。
放ち鳥、放ち亀といってこれらの動物を生かしてあげること。
これによって徳を得ることができる、という仏教の教えだ。
この為に生き物を捕まえ、それを客に売る商売が繁盛した。
中には、亀屋から客が買って川に放した亀を、亀屋が再び捕獲してまた新たな客に売るという商売が行われていた。
こんなことで徳が得られるのだろうか?
常夏の国、タイ王国でも同じような風習があった。
「タンブン」と呼ばれる。
タイでは放す生き物によりご利益が異なると信じられている。
鰻は金運、亀は長寿、小鳥は幸運・幸福が訪れるという。
買う人、売る人、放してもらう生き物の三方めでたしのおおらかな行事だ。
「放し亀 蚤も序(ついで)に とばす也」 小林一茶





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by hanaha09 | 2018-02-25 20:35 | 田舎暮らし | Comments(0)

五輪廃墟

ようやく冬のオリンピックが終わる。
何度も同じ場面が繰り返される毎日のテレビニュースがちょっとうざくなった。
平昌オリンピックの総予算が90億ドル(およそ1兆円)だそうだ。
さて、2020年の東京オリンピックの総予算は1兆8千億円、大会後の整備費用を含めると2兆円を大きく上回るのだそうだ。
実はこの2兆円が3兆円まで膨れ上がるという見方もある。
その経済効果はおよそ30兆円、捕らぬ狸の皮算用も含まれている机の上の計算らしい。
費用はまずは大会組織員会、そして東京都、政府が支出するということになる、ほとんどが国民の税金だ。
こんな記事がネットニュースに出ていた。
2008年開催の北京オリンピックバレーボール会場だそうだ。塗装も看板もめくれ上がった廃墟、もう危険物だ。
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2004年オリンピック発祥の地アテネで開かれた会場跡、今は落書きの会場だ。
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1984年サラエボ冬のオリンピックボブスレー会場跡、1992年ボスニア・ヘルツゴビナ紛争の際に金属部分が取り外され砲台の材料になったのだそうだ。
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2016年リオデジャネイロ夏のオリンピック水泳競技場に併設された練習用プール、たった1年ほどでゴミの浮くただの水たまり。
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こんなことにならないように東京都民だけではなく、すべての国民が注視しなければならない東京オリンピックだ。







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by hanaha09 | 2018-02-24 18:24 | 田舎暮らし

反本丸(へんぽんがん)

もう2,3年前にもなる。
わざわざ琵琶湖のほとりにある彦根まで近江牛と松茸すき焼き食べ放題に出かけたことがある。
食べ放題なんてのはいつも食べ過ぎで味はどこかへ飛んで行ってしまうのが普通。
案の定、食べ過ぎで胸はむかむか、口の中は脂脂、松茸なんて香りもへったくれもなかった。

江戸時代、牛は農作業に活躍する貴重な家畜、また仏教の殺生禁断思想により、牛肉なぞを食べてしまうことはあり得なかった。
しかし、彦根周辺では昔から密かに食べられ、それが日本各地に広がっていったのである。
もともと、彦根藩は幕府に陣太鼓に使う牛皮を毎年献上するのが慣例、公に牛の屠殺が認められていた特別の藩だった。
当然後に残った肉は食用に、といっても日本人の倫理観にはそぐわない。
今も昔も頭の良い人はいつもいるもので、三代藩主直澄時代の家臣花木伝衛門が中国の薬学本「本草網目」からヒントを得て、「反本丸」(へんぽんがん)という薬と称して世の中に流通させた。
それには「反本丸」の製法が次のように記されている。
「健康な黄牛(肩にこぶのある飴色の毛を持った農耕用の立派な牛)の筋を取り除き、切断した肉を洗ってから一晩浸し更に三回洗う。さらに酒と共に煮て…」結構複雑な製法が延々と書き綴られている。
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近江肉牛協会の解説によると、この養生薬「反本丸(へんぽんがん)」は味噌漬け、1687年に彦根藩により商品化されたらしい。
寛政年間以降、彦根藩から将軍家や諸大名へ牛肉を贈った記録が「御城使寄合留帳」として残されている。
この養生薬の効能はあらたか、いずれも相手方から所望に応じて贈ったものであるようだ。
赤穂浪士の大石内蔵助から、同士の堀部弥兵衛に宛てて、彦根産黄牛の味噌漬をおすそ分けすることを記した書状も残っている。
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老齢の弥兵衛には「其処には養老の効果重畳、倅主税などにまえらせ候かへってあしかるべし(年寄りには効果絶大、若者には効きすぎて害になる)」とある。
そんな効能を知ったか知らなかったか、十五代将軍徳川慶喜のおやじの水戸藩主徳川斉昭、この養生薬「反本丸」がいたってお気に入りだった。
斉昭は単に艶福家であったのみならず、女色に淫すること甚だしく...とあるように正室に加えて9人の側室、22男15女をもうけた精力家。
ところが彦根藩の井伊直弼が家督を継いでから、いつも送られてくる牛肉がすっかり送って来なくなった。
お楽しみの養生薬が恋しく、何度も井伊直弼に使者を出し送ってくれるよう懇願したが返事はけんもほろろ「絶対にお断り!」と。
ついに斉昭は「直弼の野郎……!」とつぶやいた。
これがあちこちから漏れ伝わった、井伊直弼(開港推進派)と徳川斉昭(攘夷派)の私怨の発端。
そして、起きたのが「桜田門外の変」、井伊直弼を襲撃、暗殺したのが水戸藩の浪士。
日本の歴史を書き換えたこの大事件、実は牛肉の恨み、欲しくてたまらない肉を送ってもらえないという、直弼に対する斉昭の恨み、すなわち「食い物の恨み」がそもそもの原因だった?
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ほんとうの話かなぁ...





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by hanaha09 | 2018-02-23 11:25 | 田舎暮らし | Comments(0)

平昌の荷物持ち

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群馬の地元新聞、上毛新聞に掲載されていた。
もう世界でも最も有名になった女子1,500mスピードスケートで銀メダルを勝ちとった高木美帆選手、その横にいるのがかつてのスピードスケートのスター選手であった黒岩彰氏、首にかかっているのがどう見ても高木美帆選手の名札。

世界スプリント選手権で2度の総合優勝、全国民の期待のかかった1984年のサラエボでの冬季オリンピックスピードスケート選手だ。
報道陣には常に「メダルメダル」の質問攻め、ふるさとの嬬恋村には十数台のテレビ中継車がやってきたそうだ。
サラエボの空港に着いた時、この世界一のスケーターはメダリストへの重圧で不安から恐怖に震えたこともあったそうだ。
10位に終わったサラエボからは一人だけの孤独な闘いが始まった。
練習から参加登録から遠征先へのチケットから滞在先まですべて一人、何でもやった。
次のカルガリーまでの4年間、自分ではやれることを100%やってきた。
この俺を抜く人がいたら、僕は心から祝福してあげたいと思って、スタートラインについたそうだ。
こんな大きな成長がメダルをもたらしたのだった。
「オリンピックは自分のやれる限りのことをやる、最高のポジションで、最高に自分を鍛えられる場所だと思う」と締めくくっていた。

黒岩彰氏の平昌オリンピックでの今の役目は総務担当、「何でも屋」だ。
選手たちの報道対応に、移動や食事の手配などと、幅広くて忙しい。
オランダ出身で、日本代表を指導するヨハン・デビット・コーチの憧れの存在でもある、といわれる。
日本選手の大活躍も、彼らを縁の下で支える素晴らしい裏方役が居てからのこととも思われる。
選手・コーチ・スタッフとして8回目の平昌オリンピック、「ようやく楽しみと感じるようになった」と、黒岩彰氏は語っている。











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by hanaha09 | 2018-02-22 11:43 | 田舎暮らし | Comments(0)

東日本大震災の残したもの

このところ火山活動が活発だ。
本白根山が水蒸気爆発を起こした。
蔵王山に著しい火山背地震、微動が観測されて警戒レベルが引き上げられた。
浅間山もこのところ1kmほどの浅い場所での火山性地震が頻発している。
そして、九州の霧島山周辺では火山性地震が頻発マグマの動きが活発化しいる様子がうかがえる。
ちょっと前には御嶽山の噴火もあった。
火山の噴火はどうして起こるか?
マグマの中に含まれる水蒸気、その他の火山ガスが何らかのトリガーで一挙にガス化、体積の急膨張でマグマと共に火口から噴き上げる。
そのトリガーとは何か?よくわからない。
マグマの上昇による減圧、地震による振動、微量の化学反応等...
今から7年ほど前の2011年3月11日、東日本大震災が起きた。
この超巨大地震は、太平洋プレートが日本海溝から沈み込むことで海溝の内側(西側)の地盤に溜まった歪みが一気に解放されたために起きた。
今はその反動で地震発生前には押し縮められていた日本列島の地殻が、発生後には引き伸ばされることになった。
群馬県あたりでは1年に2cmほど東方向に移動を続けているのがGPS測定で観測されている。
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地震発生後、引き伸ばされた地殻の圧力は下がり、マグマの中に溶け込んでいた水分や火山性ガスがガス化する。
何かのトリガーで、この挙動が連鎖的に生じるとその圧力は一挙に増大し火道からマグマが一挙に上昇、噴火になる。
震災後の黄色に塗り分けられた、引張応力のかかった地殻の地域を見ると不思議と活発化している火山に突き当たる。








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by hanaha09 | 2018-02-21 17:37 | 田舎暮らし | Comments(0)

破局噴火

カルデラ噴火は、火山活動で出来たカルデラにおいて「その窪地の面積ごとマグマが噴出する」という大規模な噴火のことだ。
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九州のおよそ50km南にある巨大カルデラ、鬼界カルデラを探査、研究を行ってきた神戸大学海洋底探査センターの発表によると...
この「鬼界海底カルデラ」内に、大規模な溶岩ドームの形成が確認された。
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その容量は32km3を超える世界でも最大級、およそ7,300万年前の巨大噴火の後に急速に形成されたものと考えられる。
活発な海底熱水活動の存在が予想される。
今も大規模、かつ活発なマグマ溜まりがあると想像される。
7,300年前の噴火は直径20kmの噴火口から一挙にマグマを吹きだすという巨大噴火だった。
噴煙柱は高度3万メートルまで達し、それが崩壊した火砕流は、四方の海面を走り、100 キロ離れた薩摩半島にまで達した。
「アカホヤ」と呼ばれる、鬼界カルデラ火山灰は、数メートルも降り積もって九州や四国の縄文人を死滅させた。

火山灰に覆われた面積は約200万km2、体積は約100km3にもなる。

偏西風に乗って東北地方にも到達した。

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2011年に浅間山の南麓石尊山付近のボーリング調査では、深さ4.3-4.6m の土壌からは約 7,300 年前のアカホヤと考えられるバブルウォール型 ガラスを持つ火山灰粒子が見つかった。
ちょうど仏岩活動期の終焉と前掛山の活動が始まったころだ。
縄文人にとっては「破局噴火」であった。
しかし、現代の九州、四国にも立派な文化が栄えている。
自然と共に生きた縄文人の頑張りの復活があった。
現代の人類は破局に立ち向かうことができるのか?





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by hanaha09 | 2018-02-20 13:52 | 田舎暮らし | Comments(0)

雨水

今日は雨水。
雨水(うすい)とは、二十四節気の一つ。
太陽黄経が330度のときで、この日から、次の節気の啓蟄前日までの期間も言う。
「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」、空から降るものが雪から雨に変わり、雪が溶け始めるころ。
春一番が吹き、鶯の鳴き声が聞こえ始める地域もある。
しかし、このあたりではとてもとても。
まだまだ、朝はー10℃の世界。
3月になっても4月になっても雪は降る。
でも、太陽の高度はどんどん高くなっているので、まぶしい。
雪景色の外から家に入ると、視界はしばらく真っ暗になる。
季節は何も言わずに進んでいるのがわかる。
シジュウカラやゴジュウガラ、ヤマガラなどが頻繁にえさを求めてやってくるようになる。
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そして、キツネも頻繁にやってくるのがこの季節だ。
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by hanaha09 | 2018-02-19 19:06 | 田舎暮らし | Comments(0)