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あるちゅはいま日記

hanaha09.exblog.jp

2018年 01月 29日 ( 1 )

浅間嶽観音堂惣門

慶応4年の事、徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いで官軍に敗れ、上野の寛永寺に蟄居した。
これに不満を持った幕臣たちが集まり、「大義を彰(あきら)かにする」という意味の彰義隊を結成した。
旧幕府は新政府の抵抗勢力と見られるのを恐れ、彰義隊と治安改善を願う江戸住民に対する懐柔を兼ねて江戸市中取締を任じた。
これには町人や博徒や侠客までも参加し、隊が千名を越える規模になったという。
慶喜が水戸に退いたのちにも、本願寺より寛永寺へ拠点を移動、寛永寺貫主を兼ね同寺に在住する日光輪王寺門跡公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁して徳川家霊廟守護を名目に寛永寺を拠点として江戸に居残り続けた。
これに対して新政府軍は武力殲滅を叫び、5月15日宣戦布告。
午前7時に始まった戦いは西郷隆盛等の新政府軍が攻勢、午後5時には彰義隊はほぼ全滅、戦闘は終結した。
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『本能寺合戦の図』となっているが、実際には上野寛永寺の戦闘。
袴姿の兵(おもに画面左側)が彰義隊、洋装の兵(おもに画面右側)が官軍。
なお赤熊(しゃぐま。赤毛の長髪のかつら)は土佐藩兵。
浅間山麓、鬼押出し園にある、浅間嶽寛永寺惣門はもともと上野寛永寺山内に建立された勧学寮(学問所)の表門だった。
明治以降寛永寺の惣門として保存されていたものを昭和41年に改修移築された。
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そして、この傷。
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上野戦争当時の刀の切り傷跡なのだそうだ。








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by hanaha09 | 2018-01-29 22:20 | 田舎暮らし | Comments(0)