人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

あるちゅはいま日記

hanaha09.exblog.jp

忍法「とび六法」

吾妻の山々は古くから修験道者の修行の場として知られている。
四阿山はその修行場のメッカであった。
忍法「とび六法」_b0126549_12172260.jpg
修行場に集った修験道者たちが武田信玄などに請われて草の根、忍者になったともいわれている。
戦乱の時代、中之条にある岩櫃城の主、斎藤憲広の一族唐沢杢之助のもとに生まれたのが唐沢玄蕃。
忍法「とび六法」_b0126549_12184920.jpg
幼少のころは「於猿」と呼ばれ軽い身のこなしは生まれつきのようだった。
修験場で修行を積み、跳躍術、火薬術を身に着け「忍び名人」として育った。
武田軍に属していた真田昌幸は沼田方面への進出を試み中山城(今の高山村あたり)を攻めることとした。
忍法「とび六法」_b0126549_12192691.jpg
焼き落とす前に偵察にと、放ったのが唐沢玄蕃。
彼の跳躍力はすごかった。
助走もせずに六尺の高さに飛び上がることができた。
幅跳びは十二尺、左右と後方には九尺、四拾尺(清水寺の舞台ほどの高さ)を飛び降りた。
忍法「飛び六法」であった。
忍法「とび六法」_b0126549_13120322.jpg
堀の深い中山城であったが、彼にとってはやすやすと侵入。
城主中山安芸の守は酒宴の真っ最中、へたくそな鼓をたたいていたという。
警備の家来の息使いに合わせて呼吸をしながら奥の納戸に苦も無く潜入。
そこで見つけたのはなんと「金の馬鎧」、火薬で火をつける場内の混乱を招くこともなくその金の防具をまんまと盗みかえった。
この防具は北条方の関東官僚から下賜されたものだった、くみやすい敵とみなしたのであろう。
真田一族は吾妻地方の修験道者、忍者をうまく使って攻略していった。
武田信玄はこういった。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」。













by hanaha09 | 2019-09-21 13:14 | 田舎暮らし | Comments(0)
<< 偏西風 今日は「空の日」 >>