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あるちゅはいま日記

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江戸ホテル

世界1周の旅を経て帰国した小栗上野介、勘定奉行の命を受けた。
幕府の財政再建を担うこととなった。
彼の見た米国・欧州の景色は日本が歩まなければならない道だと確信したに違いない。
江戸の町人を集めてこう説いた。
「今度江戸に外国人が住むことになる。ついてはホテルが必要だが、幕府は金がない。土地をタダで貸すから、誰かホテル組合を作って町人から資金を集めてホテルを建設し、出来上がった後は利用賃で運営し、それ以上の利益が出たら資本を出したもので分配してよい。やる者はいないか?」
今でいうPFI(プライベート・ファイナンス・イニシアチブ)、簡単に言ってしまうと民活だ。
早速手を挙げたのが清水建設の二代目清水嘉助、上野介の描いていたホテルとは彼がワシントンで泊まったと言う「ウイラードホテル」水洗トイレ付、各部屋には電信機、地下では蒸気機関で動く洗濯機があったそうだ。
そして、建設運営はパナマ鉄道建設に使われた民活方式そのものだった。
清水嘉助は早速出資者を募った。
「一口百両、年百両の配当だ!」との触れ込み、山師が飛びついたに違いない。
かくして慶応4年江戸の築地「築地ホテル館」が華やかに開業した。
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完成したホテルは2階建て一部3階、延べ1619坪、間口40,5間、奥行34間、客室は102室、もちろん水洗トイレ付、シャワー室からビリヤード、バー迄備えられていた。
江戸湾に浮かぶ黒船、富士山から房総までの眺め、エキゾチックな江戸の町並迄一望、外国人には「江戸ホテル」とまで呼ばれた。
ちょうど今ある旧築地市場の立体駐車場のあたりだ。
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ただ、江戸から明治になると街の治安は悪くなるばかり、江戸の築地で小金持ちの大名たちを相手に商売をたくらんでいた外国人も相手の大名が四散、どこかㇸ消えてしまった。
築地明石町のあたりに作られた外国人居留地も酒やアヘンの巣窟となり、まるで上海のような様相であった。
で、外国人たちは結構栄えていた横浜の地に移っていってしまった。
次第にホテルの経営に行き詰まった清水嘉助は明治三年にはその地位を退き、ホテルは海軍の手に渡った。
間もない明治5年に発生した銀座の大火で類焼、消滅した。
ほんのわずかの繁栄の一幕であった。
出資者からのクレームは記録に無い、年百両の配当は本物だったかもわからない。
築地一帯のワシントンDC化はならなかったが、外国人たちの居留地であった現在の聖路加病院あたりは文化、学問、技術伝道の最先端地ともなり、日本の近代化の大きな力ともなった。
小栗上野介はこの近代化ホテルの完成をも見ずして首を打ち取られた。
激動の時代だった。











by hanaha09 | 2019-03-15 19:20 | 田舎暮らし | Comments(0)
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