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あるちゅはいま日記

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山田長政って

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今から4百年ほど前に遡る。
徳川家康が征夷大将軍に任じられてしばらくたった1612年、駿河の国の六尺(駕籠かき)の一人が朱印船に乗って台湾を経由、シャム王国(現在のタイ王国)の王都アユタヤまでたどり着いた。
幼少の頃に「少年倶楽部」かなんかのマンガで読んだ山田長政だ。
国元で仕えていたのが大久保家、「家絶えれば封地二万石収公せられる...」と、幕府により取り潰されてしまう。
末端の武士である駕籠かきはまず行き場を失ってしまった。
そこで暗躍したのが、当時東アジアに植民地を拡大しようと画策していたスケベなオランダ人。
高度に訓練、鍛えられた日本の武士は彼らの傭兵としては引く手あまた、おまけに長政の出かけた前後は家康がメキシコに通称交渉団を派遣したり、伊達政宗が支倉常長をヨーロッパに送り込んだりした、ちょっとした海外ブーム。
長政もこんなウエーブに武士の一人として生き残りを賭けた海外渡航、ということだったに違いない。
日本からの傭兵隊は大阪の陣などで敗れた武士なども集め、200人とも800人とも言われ、長政はこのリーダー格となっていった。
このアユタヤは当時人口は15万人、40か国の人々が住む国際交易都市だった。
日本では主として鉄砲の玉になる鉛、茶の湯などに使われる伽羅などの香木、刀の柄などに巻くサメガワと呼ばれたエイの皮などを求めた。
日本からの傭兵たちは、常日頃はこれらの貿易に携わる商人としてもその才能を発揮、後に長政も貿易船をも仕立てるようになった。
そして、このアユタヤの繁栄を見た当時の大国スペインが二度にわたって攻撃をかけてきた。
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丸坊主の兵隊たちが侍傭兵たち。
この侵略を阻止した長政と日本の侍は一躍アユタヤ王朝の信頼を受け、シャム王国の王女を嫁にもらい日本人町の長として活躍した。
そして、その後タイ南部のリゴール城に移ることになるが、アユタヤ王朝に反発していたバタニ王国と交戦で負傷。
何者かによってその傷に毒を盛られあっけなく死亡した、41歳だった。
長政の死亡により、彼と一緒だった侍傭兵たちはシャムでも使い捨てられ居場所を失くした。
その後、日本の徳川幕府は鎖国令を発令、海外への扉を閉ざしてしまった。
忘れられたアユタヤの日本人たちの歴史がよみがえるのは昭和の時代に入ってからだった。
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以前の名残りも一つもない、ただの広場にちっぽけな資料館のある「兵どもの夢の跡」日本人町跡であった。











by hanaha09 | 2019-01-08 15:26 | 田舎暮らし | Comments(0)
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