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あるちゅはいま日記

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東京駅の日

大正三年(1914年)の今日の日、東京駅が完工した。
開業百年と4年になる。
いまや日本の鉄道の上り下りの起点、へその緒だ。
明治二十二年(1889年)には東海道線が新橋神戸間、明治二十四年(1891年)には東北本線が上野から青森まで開通。
中央停車場としての役割を担う駅が計画された、それが現在の東京駅となった。
皇居の正面から延びる行幸道路に直結し、駅舎の中央には皇室口が設けられるなど、まさに「国家の中心、天皇の駅」であった。
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向こうにかすむのが東京駅、手前は皇居のお堀か?
開業当初の駅前には雑木林が広がり、列車の本数も数えるほど。
大正八年(1919年)には東北本線が乗り入れ、大正十四年(1925年)には中央線が開通した。
出入り口の無かった駅東側に八重洲口が出来たのは昭和四年(1929年)になってからだ。
当時を代表する建築家、辰野金吾によって設計された赤レンガ造りの三階建て、南北にドーム型の屋根があしらわれた。
一説にはアムステルダム中央駅の建物がモデルとなったと言われていたが、現実には様式が異なる。
大正十二年(1923年)の関東大震災にもびくともしなかった駅舎も昭和二十年(1945年)の米軍の空襲によりドーム屋根と三階部分を焼失してしまう。
戦後の仮復旧工事のまま、平成の時代を迎えた。
そして、開業百周年に際しほぼ当時の姿に取り戻す復元工事が完成した。
東京駅の日_b0126549_15362432.jpg
この復元工事の際、駅舎の下を堀進んだところ、1万本にのぼる松丸太の基礎杭が掘り出された。
東京駅の日_b0126549_15481342.jpg
100年にわたり駅舎を支えてきた松杭の切り口は当時そのままのものであったという。
この松杭には「嬬恋村から切り出されたカラマツの木が利用されたのでは???」とのまことしとやかな話が聞かれることがあった。
ちょっと半信半疑だった、というのがその前に丸の内のビル群の建て替えの際に同じく松杭が大量に使用されているのが発見されたがこれはアカマツだった。
そして、ある報告書にはこうあった。
「東京駅丸の内駅舎の復元工事の際に撤去された松杭の状況、地質、地下水位を調べた。その結果、杭頭部から約500mmの範囲を除いて、長期間、木杭が地下水位以浅にあっても、地表部に粘性土層があり、一定の含水比を有する砂質土に打設されていれば著しい腐朽が発生しなかた点が確認された。また、東京駅丸の内駅舎に使用された木杭の樹種、産地について、当時の建設記録や考察から「甲地松(かっちまつ)」である可能性が高いことを突き止めた。」土木学会論文集「東京駅丸の内駅舎に使用された木杭の耐久性」より
「甲地松」とは青森県に産する優良な松材、青森県横沢甲地松植物群落として母樹林が現在も保存と自然推移の観察が行われているそうだ。
嬬恋村自慢にとってはちょっと残念。
しかし、巨大建築物の基礎杭としてこの「甲地松」を選択した当時の知恵には感心してしまうところだ。











by hanaha09 | 2018-12-18 16:16 | 田舎暮らし | Comments(0)
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