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あるちゅはいま日記

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江戸の吾嬬


江戸の秋の名所の一つ、「吾嬬の森連理の梓」。江戸の吾嬬_b0126549_10484360.jpg
今の墨田区立花1丁目1番地、吾嬬(あずま)神社にその面影があるそうなのだ。
このあたりは江戸に時代には吾嬬の森、以前は浮州の森と呼ばれ、樹が生い茂っていた場所。この連理の樹、梓とあるのは楠の木のことであるらしい。
連理とは2本の樹、あるいは1本の樹がいったん別れたものが1本に結合したもので、契りの深い男女・夫婦をたとえて言うのだそうだ。
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『抑当社御神木楠は昔時日本武命尊東夷征伐の御時、相模の國に御進向上の國に到り給はんと御船に召されたる海中にて暴風しきりに起り来て、御船危ふかしりて、御后橘媛命、海神の心を知りて、御身を海底に沈め給ひしかば忽海上おだやかに成りぬれ共御船を着くべき方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思儀にも西の方に一つの嶋忽然と現到る御船をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひて、あー吾妻戀しと宣ひしに俄かに東風吹来りて橘媛命の御召物海上に浮び、磯辺にただ寄らせ給ひしかば尊大きに喜ばせ給ひ、橘媛命の御召物を則此浮洲に納め、築山をきづき瑞離を結び御廟となし、此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ。海上船中の守護神たり尊神ここに食し給ひし楠の御箸を以て末代天下平安ならんには此箸二本ともに栄ふべしと宣ひて御手自ら御廟の東の方にささせ給ひしに、此御箸忽ち根枝を生じし処葉茂り相生の男木女木となれり神代より今に至りて梢えの色変らぬ萬代をこめし事宛然神業なり。其後民家の人々疫にあたり死する者多かりしに時の宮僧此御神木の葉を与えしに病苦を払ひ平癒せしより、諸人挙って貴び敬ひぬ。今こそ此御神木楠の葉を以って護符となして裁服するに如何なる難病にても奇瑞現れぬと云ふ事なし。凡二千有余年の星霜おし移ると云へ共神徳の変らざる事を伝ふべし共猶諸人の助けとならんと略してしるす也』
要約すれば...
「日本武尊が東征の途中、相模の国にて暴風雨となり、それを鎮めるために最愛のお妃であった弟橘姫が自ら海に身を投げた。すると海は穏やかになり、西の方に島が現れその磯部にたどり着いた、そこは浮須というところだった。日本武尊は”あー我が嬬恋し」と叫ぶと東風が吹き弟橘姫のお召し物が海の上に浮かんだ。この遺品を浮須に築山をこしらえ御廟に納め浮洲吾嬬大権現(今の吾嬬神社)として祀った。その際に日本武尊が食した楠の箸を自ら御廟の東の地に挿したところ、根を出し、芽を出し二つの大きな幹(男木・女木)が育ち、神代より今に至り梢の色の変わらぬ名樹となった。後に人々が疫病にかかり死んでしまう者が出たがその際にこの樹の葉を与えると疫病が治癒した、という。今もこの楠の葉をお守りとするといかなる難病も直ることであろう。」と、吾嬬神社縁起にある。
実は、この連理の樹、大正時代にはすでに枯れていたらしく、戦時中の空襲のせいか焦げ目も見つかる。。
そもそも、地盤沈下も激しくなかった江戸時代にはこの築山の森が江戸湾からの目標となり、また東風が吹けばこの地に流される日本武尊伝説もあり、漁業関係者からも崇敬を集めていた、とのことだ。
江戸の吾嬬_b0126549_17013212.jpg
我が村、嬬恋村と共になんともロマンの樹でもあり、言い伝えである。
一度訪ねてみたいところだ。







by hanaha09 | 2018-10-25 17:58 | 田舎暮らし | Comments(0)
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