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あるちゅはいま日記

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イミュニテカルイザワは伝説?

このブログでも何度か紹介してきた「イミュニテ カルイザワ」。
終戦直前に連合軍との終戦を模索する日本国の意向を受けて、中立国であったスイスが仲介の労を取ろうとした。
日本にとって戦争を続けられるわけではなくいかに国体護持、ひいては天皇制護持が大きな問題であった。
その際に用いられた電信暗号が「イミュニテ カルイザワ(軽井沢を爆撃しないで)」、これは「天皇制護持」を意味したのではないか、と言われている。
その交渉の場になったのが当時外務省の軽井沢事務所でもあった三笠ホテルと通りを挟んであったスイス公館だった。b0126549_23191062.jpg
スイス特命全権公使カミーユ・ゴルジェは夫人と共に軽井沢に疎開、毎日のように三笠ホテルを訪れていたという。
6月にはゴルジェによる公電がある、それには、「そろそろ『イミュニテ カルイザワ』を働きかけるべきです」、とある。
そして、8月10日の御前会議によるポッダム宣言受諾の一報を軽井沢の公使館から打電、連合国側に伝えたという。
終戦の大舞台が軽井沢の地にあった。
ところが昭和61年春、当時の外務省軽井沢事務所の所長として赴任していた90歳を迎えた大久保利隆がこの話を聞き付け、「こんな間違いが後世に残っては大変だ!」と軽井沢町の関係者をはじめ数名に語ったのだ。
イミュニテカルイザワは伝説?_b0126549_21160990.jpg
話はこうだ。
「当時、軽井沢から海外へ電報を打つことはできなかった。国内あての電報も松本まで出かけなければならず機密は守られなかった。」
確かに電報局の関係の方もこのように書いている。
「ここにおいてポツダム宣言の受諾をいかにして連合国に通告するかということになるのだが、その方法は対外無線電信回線を利用する以外に道はない。当時東京中電の対外無線は、ジュネーブ1回線がようやく命脈を保っているにすぎなかった。
このジュネーブ回線が確保されていた一事実は、敗戦日本にとって僥倖といわねばならない。終戦の裁可はくだされたとはいえ、正式の受諾を通告しない間は、米空軍は1日1都市の割合で來襲し、通告が遅れればそれだけ無用の損害を被らなければならなかった。したがって、ジュネーブ回線が健在したことがいかに重要な意味を持っていたかを裏書きできる。」
スイス公使は松本から国内電報で東京を経由してスイス本国と連絡を取ったのであろうか?
軽井沢駅前に拠点を設けていた日本軍の憲兵隊の目をかすめて行動できたのだろうか?
しかし、昭和63年に刊行された『軽井沢町誌』には、次のように記されている。
「戦局が悪化し、日本が不利な立場の中で、軽井沢事務所からスイス公使を通してアメリカ・イギリス・フランスなどへの外交交渉が行われた。三笠ホテルの一角が終戦や平和への重大な舞台となったときであった。暗号電報がスイスのベルンにあった公使の許へと飛び、ポッダム宣言受諾となって八月十五日を迎えたのである。」、と。
終戦を知った軽井沢の外国人たちは毎晩のようにパーティーを開いたという話もあるし、そのパーティーに関与した軽井沢の住民たちもいち早い終戦の報に胸を撫でおろしたとも伝えられている。
果たしてこれは単なる伝説に過ぎないのだろうか、それとも...
大久保利隆の打ち明け話はどういう意図があったのだろうか。
テープに録音されたという、今でも残っているのだろうか?
謎は深まるばかりだ。












by hanaha09 | 2018-08-10 20:19 | 田舎暮らし | Comments(0)
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