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あるちゅはいま日記

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小布施の北斎画

信州小布施には晩年の北斎「画狂老人」の五大遺作が残されている。
これらはみな特有の油絵具で描かれているのだ。
当時、日本では油絵具を用いて大作を描く画家はほとんどいなく、その油質絵具は品質色彩の劣ったものだった。
水で膠を溶かし、顔料を混ぜて使用した日本画は紙にはよくなじむが板などに描くとひびが入ったり、湿気で剥落したりした。
北斎は欧米の油絵の耐久性に深く心を動かされていた。
小布施の北斎画_b0126549_11492358.jpg
岩松院の「八方睨み鳳凰図」(写真撮影は禁止のはずだがネットに転がっていた)、完成を見た嘉永元年からすでに170年を経た現在でも鮮やかな色は当時そのままだそうだ。
なぜか?
信濃国高井郡小布施村で酒屋を手広く商いをしていた豪農商のもとに生まれた高井鴻山が居た。
若くして高井家11代の当主でもあり、儒学者でもあり、蘭学者でもあり、浮世絵師として北斎の弟子でもあった。
この高井家に代々受け継がれている高さ60から70cmほどの陶器の壺がある。
そして、北斎の娘応為が書き記した1通の手紙が残されている。
油質絵具の製法として、「荏の油に鉛の鉄砲玉の削り粉をいれ、密封して土中に60から70日埋める方法」が伝授されているのだそうだ。
まさに、黒色に輝く陶器の壺が小布施の高井家の庭に埋もっていたに違いない。
「荏の油」とは荏胡麻から搾り取られた希少な油、油絵具としては乾燥の早い最良のものと北斎は考えた。
当時、上州などで栽培されていた(嬬恋村にはサトイモですべって胡麻で眼をついてけがをする、と言われてサトイモの代わりにジャガイモ、胡麻の代わりに荏胡麻を栽培するのだ、という言い伝えがある)。
「荏の油」はもともとは中国伝来の貴重な漢方薬、大きな陶器の壺をいっぱいに満たすには輸入品だけでは心もとない。
高井鴻山は自ら荏胡麻を自家栽培、大量の「荏の油」を調達したのではないかと見られている。
そして、この「荏の油」の中で鉛の粉は酸化鉛となり、油絵具の乾燥をより促進する役目を果たした。
そして顔料は朱・鉛丹・石黄・岩緑青・花紺青・べろ藍・藍、それに4千4百枚の金箔。
特に鳳凰の頭部分の深い赤色には日本古来の古代朱、支那輸入の紅、朝鮮の最純の辰砂、南洋よりやってきた珊瑚、支那四川省の鶏地石、これらの贅を尽くした貴重な顔料が陶器の壺で熟成された最純の「荏の油」で融解されて用いられたとみられる。
絵具材料が150両(江戸後期の物価から推定すると1,000万円前後)にも登ったと言われている。
高井鴻山の財力と絵画芸術に対する高い思慮、そして、「画狂老人」たる北斎の執念、それに加えて北斎の娘応為の隠れたる影なる援助、これが最高度に融和した小布施の傑作文化財だ。
それに北信州の豊かな自然、真っ赤に染まる紅葉が彼らの永遠なる色彩を残す動機になったとも言われている。








by hanaha09 | 2018-04-08 16:21 | 田舎暮らし | Comments(0)
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