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あるちゅはいま日記

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女将軍だったのか?

第九代将軍徳川家重、「惇信院 (じゅんしんいん)」は院号。女将軍だったのか?_b0126549_1633645.jpg1712年(正徳元年)、第八代将軍徳川吉宗の長男として江戸赤坂の紀州藩邸で生まれる。
母は側室お須磨(深徳院)の方。
1745年(延享2年)に家重は将軍に就任、1760年(宝暦10年)にその職を辞し、翌年には死去。
慣例により芝増上寺に埋葬された。女将軍だったのか?_b0126549_16423188.jpg
事の始まりは1938年(昭和33年)から始まった増上寺霊廟の改葬に伴う学術調査にあった。
増上寺隣接の2万7千坪に及ぶ広大な墓所を1950年(昭和25年)に徳川家より取得した堤康次郎氏はこの跡地にホテルの建設を計画したのであった。
「惇信院 (じゅんしんいん)」殿の霊廟からは保存状態の良い遺骨が出てきた。
家重の血液型は完璧主義者に多いA型であった。
歯の磨耗などから脳性麻痺という事実が裏付けられた。
家重は生来、虚弱体質のうえ「運動機能の発達が遅れる脳性麻痺」を患っていたと伝えられている。
そうした障害があったためか言語が不明瞭、彼の言葉を理解できるのは、正室に迎えた増子だけだった。
しかし増子は江戸にきて3年目に亡くなってしまった。
その後は側用人として身近に居た大岡忠光だけが理解できただけといわれている。
問題は、頭蓋骨や骨盤が女性のような形であった、と発表されたこと。
そして、骨盤の写真が他の将軍たちの写真と異なり、家重だけは正面から撮影されていない。
遺骨は膝を崩して正座し、両手を前に揃えた姿で葬られていた、これは女性の埋葬によくみられる姿だそうだ。
死因は尿路感染、尿毒症のためと推測されている、これは女性特有の病。
江戸城から上野の寛永寺まで行くのに仮設トイレを23か所作らせたといわれるほどの頻尿、男ならお供が小便筒を持ち、それで済ますのが普通、とのこと。
側近の大岡忠光しか声を聴けなかったのはか細い女性の声を悟られないための方策だった?
通説では障害や虚弱から大奥で酒浸りだったとされるが、その割には子供が二人だけと少ない。
もし、家重が女性だったら頭脳明晰と言われた子供、家治の子種はだれ?大岡忠光か、それとも吉宗か...
行政手腕の誉れ高い大岡忠光に万事を任せ、次期将軍職の家治に切れ者の田沼意次を重用せよと言い残して世を去った家重。
男でも女でもどちらにせよ、ただものならぬ将軍であったに違いない。
歴史っておもしろーい。
by hanaha09 | 2015-12-20 18:35 | 田舎暮らし | Comments(0)
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