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あるちゅはいま日記

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スケートと嬬恋村

嬬恋村出身のスピードスケートオリンピック出場選手、黒岩彰氏のインタビュー記事より。
「小学校の校庭にスケートリンクがあったり、自分の家の田んぼに水を入れてリンクを作ったりしてましてね、嬬恋村では、スケートが冬の娯楽の一部でした。みんなすいすいと滑ってるでしょう、自分もと思ったんですが全然滑れない。母親がね、スケート靴が高いものだから、6年生まではけるように21cmの足に24.5cmの靴を買ってくれてたんでね、滑れるわけがないんですよね。買い替えてもらってそれから多少は滑れたけれども、小学校6年間に女の子に勝てない唯一のスポーツはスケートだったんですよ...」
「中学校へ入ってスケート部に入ったんですよ。目標は同級生の女の子に勝つことでしょ。そして、群馬県の中学校記録を作りました。高校2年の時にはインターハイで優勝したのかな...」
「大学に入って、2年のころからドーンと記録が出て、3年には世界チャンピオンになった。ヨーロッパやアメリカなどのトレーニング方法を真似ていたのでは絶対に追い抜けない、と自分でトレーニング法を考えてやったんですよ。それで、サラエボがやってきた。」
「これが世界チャンピオンのトレーニングなんだ、サラエボではメダルが取れる、新たな挑戦はしなかった、これが今思えば大失敗。」
大きな期待のかかったサラエボオリンピックにはマスコミが押し掛けた。
嬬恋村には数十台の中継用のテレビカメラがあった。
現地でのインタビューはメダルのことばかりだった、答えはいつも「金メダル!」。
マスコミ関係者が移動するたびにぞろぞろついてくる、会場には嬬恋村からの応援団の大きな応援幕。
22歳の青年選手は次第に自分を見失っていった。
世界一と言われていたコーナーテクニックは不発に終わり、結果は十位。
その直後に出場した、宿舎で体を横たえ休んでいた無名の北沢欣浩選手が銀メダル、日本スケート界初の五輪メダリストになった。
「サラエボでは技術的にも体力面でもやるべきことはやってきたと思ったんですよ。足りなかったのは自己コントロールできる精神的な部分だということなんでしょう。」
社会に出て4年後のオリンピック、カルガリーを目指した。
トレーニング、海外遠征、飛行機もホテルの手配も、なんでも自分でやった。
「カルガリーの前には、もう自分で100%やった。この俺を抜く人がいたら、ぼくは心から祝福してあげたいと思ってスタートラインについた。今でも自分で滑っている30数秒をスローモーション的に覚えてますよ。」
カルガリーの銅メダル選手は引退後、西武ライオンズ球団などで様々な事件に出くわしたりし、現在は富士急行スケート部の監督。
最後に、
「負けて帰ってきたオリンピック選手が”自分なりに楽しんできました”なんていうのはちょっと違うんじゃないかと思う。オリンピックは最高のポジションで、最高に自分を鍛えられる場所だと思うから...」
ことしも青葉湖にある嬬恋高校専用スケートリンクが準備できたようだ。
オリンピックを目指す若者たちがここから出てくるのかな...
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by hanaha09 | 2015-12-03 12:13 | 田舎暮らし | Comments(0)
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