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あるちゅはいま日記

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人間魚雷「回天」

ブログをおしまいにしてちょうど1年、またまたつまらぬブログをボチボチと書き綴ることにした。
意味は何にもない、ただ気まぐれなだけ。

本日は終戦記念日だ。

昔々、小学生であった私を母は映画に連れて行った、「人間魚雷回天」。
海の上に漂う小さな潜水艦魚雷の白黒のシーンがよみがえってくるが、内容は全く覚えていない。
時は第二次大戦さなか、日本帝国海軍はミッドウエー海戦以降敗北を重ねていた。
必死必殺戦法で戦局を打開するほかはなかった、それは特攻作戦だった。
そして昭和19年2月には「人間を乗せた魚雷」の開発に踏み切った。
当時世界でも最強であった海軍の「純酸素魚雷」に通常の3倍の爆弾を搭載し、中央部に操縦席を設けた一人乗り特攻「回天」が完成された。
といっても、上層部からの指示にあった乗員の緊急脱出装置は完成に至らなかった。
潜望鏡で見つけた敵艦まで到達するには方向を図るコンパスと時間を図る時計だけだった。
発進後、エンジンが停止すると再起動ができない、後進はできずに前進あるのみ。
人ひとりが入ることのできる操縦室では40分もすると呼吸に必要な酸素が欠乏、毒性の排ガスも充満した。
敵陣地で浮上することはできずに取りうる方法は一つ、自爆することだけ。
実戦前に16名もの若者の命が消えてしまった。
全国から志願した数百名の命の犠牲を前提とした「人間魚雷」の誕生であった。
昭和19年、レイテ沖海戦から2週間後の12月8日、南太平洋のウルシーに初の回天隊が出撃した。
回天の突入で激しく炎上する給油艦「ミシシネワ」、9人の命と引き換えに挙げた戦果は、この一隻だけだった。
その後も同様の奇襲作戦が行われたが、戦果はほとんど挙がらなかった。
終戦までの作戦開始からの9ヶ月、撃沈した敵艦は確認されているだけで3隻、戦艦・空母をねらった起死回生には程遠い結果にすぎなかった。
この「人間魚雷回天」で命を落とした若者は104名にものぼる。
この作戦を推し進めた一人が仁科関夫少佐、佐久の出身だ。
佐久市の臼田地区にある貞祥寺にはこの「回天」の模型とともに「回天之碑」が建てられている。
人間魚雷「回天」_b0126549_19534683.jpg

人間魚雷「回天」_b0126549_19542392.jpg
終戦を迎え進駐軍により残存した「回天」はことごとく海の底に沈められた。
生き残った特攻要員の一人は、
「戦争の再現は望まないし美化もしないし命も粗末に考えない、日本のためどんなものでも行くという思いで殉じた若者がいたことを正しく歴史に刻みこんでほしい」、
と。
こんなむなしさの残らない平和な日本国であってほしいものです。
by hanaha09 | 2014-08-15 18:01 | 田舎暮らし | Comments(0)
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