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あるちゅはいま日記

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大給 恒

長野の偉人伝より。
大給恒(おぎゅう ゆずる)は、奥殿藩主・松平乗利の次男として江戸麻布龍土(東京都港区六本木7付近)の藩邸に生まれる。
早くから蘭学・フランス語も学び、書画詩作にも優れ、砲術にも明るかった。
嘉永5年(1852)3月8日、父の隠居により家督を継いで奥殿藩の第8代藩主松平乗謨(のりかた)となのる。
文久3年(1863)三河奥殿から信濃田野口(奥殿藩大給松平家は三河に4,000、信州佐久に12,000石を与えられていた)に移り、箱館と同じ洋風の五稜郭城の建設に着工し、3年後に完成した。
乗謨は、「村々の木をむやみに切るな、農家に立ち入るな、田畑をあらすな・・・。」など、七つの規則を定めて藩士をいましめ、学問や武芸を勧めはげました。
道路や用水を開き、植林や養蚕もさかんにさせたので、領民は喜んで仕事にはげんだ。
慶応2年(1866)には、老中格となり、陸軍総裁も兼ねた。
この際に、その老中格に見合う加増を辞退し、職務に専念したという。
明治元年に姓を大給に、翌年に名を恒と改めている。
明治10年(1877)の西南戦争に際して、負傷者の救済を思い立った大給恒は、彼我の区別なく負傷者救済を考えていた佐野常民と協力し、外国の赤十字社にならい博愛社を創設した。
当初は、賊軍をも救うという発想が理解されなかったが、大給恒や佐野常民らの尽力で設立された博愛社はその後日本赤十字社と改称され、赤十字活動を日本に根付かせたのである。
しばらくぶりに訪れた佐久田野の五稜郭跡の前に顕彰碑が建てられている。
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星形に構築された掘割には散り初めの桜吹雪が曼荼羅模様を見せていました。
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気骨のある明治の偉人たちの話を聞くにつれ、平成の国、地方の政治家は...と考え込んでしまいますね。
by hanaha09 | 2012-05-03 17:17 | 田舎暮らし | Comments(0)
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