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あるちゅはいま日記

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碓氷峠に登場した1000型電気機関車

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しなの鉄道軽井沢駅を入ると静態保存されている鉄道記念物のアプト式電気機関車10000型だ。
明治時代に入り、太平洋と日本海を結ぶ鉄道輸送が軍事・経済上に重要なポイントトなってきていた。
上野と碓氷峠の高崎側である横川まで1885年に、軽井沢と直江津間が1888年に開通を見た。
この碓氷峠、およそ10kmの間に横たわるのが標高差500mの急峻な勾配だ。
当時の日本の鉄道技術ではこの勾配を乗り切ることはできなかった。
明治政府はドイツにあった登山鉄道のアプト式を採用を決定、鉄道技師長のボナールがその指揮を執った。
そして1893年4月1日に66.7パーミルの急こう18の橋梁と26のトンネルを擁する官営鉄道碓氷線が着工1年9か月後に開通した。
しかし、当時のアプト式蒸気機関車でこの峠を越えるのは簡単ではなかった。
トンネルの連続による蒸気機関車の煤煙の問題から、乗務員の中には吐血や窒息する者も現れたそうだ。
いち早く電化の声が高まり、1911年に横川駅付近に火力発電所設けられて1912年には日本で最初の幹線電化がかなった。
その際に導入されたのがドイツのアルゲマイネ社(実は機械部分はアプト式蒸気機関車を制作したエスリンゲン社担当)で碓氷峠専用として製作・輸入されたこの10000型アプト式電気機関車だったのだ。
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良く見てみると面白い。
機関車重量は43ton、重すぎる。
当初に2軸設計だったものが3軸に変更されている、いい加減な設計だ。
たぶんエスリンゲン社のアプト機構が重量オーバーの原因かもわからない。
集電機構はトンネルの断面から第三軌条からなのだが、機関車の屋根にはポールがついている。
駅構内の分岐が多いと第三軌条は複雑かつ危険なので構内では架線からの集電としたようだ。
この電気機関車にはアプト式のラック駆動用のモーターが採用されていた。
ラック区間を過ぎるとこのモーターは負荷が無くなると過回転して壊れてしまう。
ラック区間を過ぎる地点に「打ち子」というバーを架線柱につけて置き、この「打ち子」が電気機関車の屋根に取り付けられたスイッチに触れアプト用のモーターが遮断されるような仕掛けがあった。
こんな仕掛けを秘かに学んだのが日本の技術者たち、1934年(昭和9年)の純国産電気機関車を完成させたのがED42型アプト式電気機関車だ。
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こちらは横川の碓氷峠鉄道むらの保存されている。
技術者たちの英知が超えた碓氷峠だった。









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# by hanaha09 | 2018-05-22 20:18 | 田舎暮らし | Comments(0)

暑かったり寒かったり、でも花は咲く

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レンゲツツジが咲いた。
裏山に実生苗があったので4年ほど前に庭に植えて置いた。
昨年から咲き始めた、なんともいとおしいもんだね。
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一面に咲くのはマイヅルソウ。
葉っぱが鶴の羽のように見える、のでこの名前がついた。
言われてみないと良くわからない。
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そして、ヤマオダマキ。
このあたりに自生するのは萼が黄色のキバナノヤマオダマキで花の咲くのはもう少し遅い夏休み。
初めて見るヤマオダマキだ、それにしてもちょっと咲くのが早いのでは?




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# by hanaha09 | 2018-05-21 17:09 | 田舎暮らし | Comments(0)

成田開港40年なのだそうだ

「成田空港は、5月20日に開港40周年を迎えました。これもひとえに皆さまからの長年にわたるご愛顧とご支援の賜物であり、心から感謝を申し上げます。」
本日の成田空港ホームページに掲げられた挨拶分文だ。
成田空港にはずいぶん世話になった。
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飛行機は嫌いではなかった。
千葉に住んでると成田空港は近かった。
JRで15分、京成電鉄も少し駅は遠かったが本数が多かった。
神戸に単身赴任の時は...
土曜日の朝5時頃、神戸駅から伊丹空港へ行って成田行きの飛行機に乗った。
朝9時前には家に帰ってビールを飲んでた。
帰りは日曜日の夜7時頃成田空港から関西空港行きの飛行機に乗った。
関西空港からは水中翼船で神戸へ一直線。
おまけにこの飛行機は国際線仕様でたいていがビジネスクラスの席だった。
席だけでサービスはジュースかお茶だけ。
海外への出張も快適だった。
たいていが昼過ぎの便で、昼前に印旛沼近くのうなぎ屋で...
まずザリガニのゆでたのを頼んでビールを一杯、その後は関西風の鰻かば焼きを食べて、おもむろに空港へ出かけて行った。
帰りは空港へ到着してから1時間以内には家で風呂に入ってた。
いい時代だったねぇ。
あれこれ言ってももう10数年前の話。
この前ANAのマイレージを見たら0マイルだった、期限切れ。
もう十数年来、飛行機なんてのは乗った事も無い田舎暮らし。
成田も遠くなったねぇ。





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# by hanaha09 | 2018-05-20 20:26 | 田舎暮らし | Comments(0)

小諸・山頭火の日

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種田山頭火はよっぽど温泉が好きだった。
小諸市にある中棚鉱泉にやってきたのが1936年(昭和11年)の5月19日のことだった。
「熱い湯に入れて 酒が飲めるのがいい」とご機嫌だった。
この中棚鉱泉が制定したのが「小諸・山頭火の日」だ。
山頭火は明治から昭和にかけて活躍した自由律俳句を代表する俳人、禅僧でもあった。
大正時代に俳句界に頭角を現したものの、家庭の不運にも見舞われ酒癖によって身を持ち崩した。
雲水姿で旅し、句作を行い、旅先から俳句誌に投稿を続けた。
その頃にはすでに無一文の乞食同然であったが、書き綴られた克明な日記が残されている。
山頭火は5月21日には小諸を出て、岩村田を経て御代田駅まで徒歩で行った。
その後、沓掛(現在の中軽井沢)まで汽車に乗り、下車後には山また山を長倉、峰の茶屋、浅間牧場と歩き続け草軽電鉄北軽井沢駅までやってきた。
「かつこう、うぐひす、からまつ、みづおと、そしてほととぎすがをりをり啼く、千ヶ滝の水もおいしかつた。峯の茶屋で昼飯。道は何だか荒涼たる六里ヶ原を横ぎる。北軽井沢駅、白樺が多い、歯朶の芽が興を引く、所有建札が眼に障る。」
5月晴れの浅間高原の自然がいたく気に入ったようだが、別荘地所有者の看板がお気に入りの様ではなかった。
そして、訪れた養狐園での稼ぎ様、と共に毒殺される狐にも憂えている様子がうかがえる。
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北軽井沢駅から草津よりの草軽電鉄吾妻駅から草津温泉駅まで草軽電鉄の電車に乗った、電車賃は高かったが嬬恋三原を過ぎたところの景色には、「眺めが良かった」とある。
泊銭七十銭、湯銭十二銭の草津温泉宿にはこんな記述が、
「同宿は病遍路、おとなしい老人、草津といふところは何となくうるさい、街も湯もきたならしい、よいとこでもなささうだ、お湯の中にはどんな花が咲くか解つたものぢやない! 熱い湯にはいつて二三杯ひつかけて、ライスカレーを食べて(これが宿の夕食だ、変な宿だ)ぐつすり寝た。夢は何?………… 」
こんな草津温泉に4泊したのち、5月25日には上り三里、下り一里の万座温泉までの徒歩旅行。
「まことにしづかな道だつた、かつこうもうぐひすもほうじろもよく啼いてくれたが、雪のあるところはすべるし、解けたところはぬかつてゐるし、はふたりころんだり、かなり苦しんだ。残雪をたべたり、見渡したり、雪解の水音を聴いたり、ぢつと考へこんだり。山、山、山、うつくしい山、好きな山、歩き慣れない雪の山路には弱つたが、江畔おくるところの杖で大いに助かつた、ありがたしありがたし。」
「やうやく一里あまり下ると、ぷんと谷底から湯の匂ひ、温泉宿らしい屋根が見える、着いたのは三時だつた、何と手間取つたことだらう、それだけ愉快だつた。とりつきの宿――日進館といふ、私にはよすぎる宿に泊る、一泊二飯で一円。
山頭火にとってはお気に入りの行程だったようだ。
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〝「徒歩禅」と称した通り山頭火にとって、歩くことこそ修行だった。ひたすら歩き続けることが生きることにつながった。それは同時に、自らの死に場所を求めることでもあった。〟
と弟子の若き北光は書き綴っている。
 


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# by hanaha09 | 2018-05-19 19:03 | 田舎暮らし | Comments(0)

スズランが咲いた

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スズランが咲いた。
このスズランちょっと厄介だ。
行者ニンニクを植えてあるんだが、この中にスズランが芽を出す。
芽が出る時期はスズランが少し遅い、でも姿恰好はほぼ同じ。
よく見れば葉の幅、形が少し違う。
一番良くわかるのが根元を見ることだ。
スズランは青い茎、行者ニンニクは赤くなっている。
さてさて、「幸福の再来」「意識しない美しさ」「純潔」などなど、最上のきれいな言葉が並ぶ、このスズランの毒とはいかなるものか。
毒の正体は強心配糖体という成分、コンバラトキシン、コンバラマリン、コンバロシド など、強烈に人体に作用する物質だ。
体重60kgの成人の場合たったの18mgほどの摂取、つまり、指先についた残りかすを少しなめたくらいで死に至る。
ちなみに青酸カリの致死量は体重60kgなら約264mg、青酸カリの15倍もの強烈さだ。
約2〜3時間(1時間程度という説も)で不整脈や頭痛、めまい、嘔吐、下痢、興奮状態といった症状が現れ、回復しない場合は昏睡、心不全、血圧低下、心臓マヒという順番で「さよなら」の時が訪れる。
全国17市町村でそれぞれ自治体の花として指定されている。
この近くには「スズラン坂」という地名が残され、今も交差点に名前が付けられている。
バス停のなまえにも。
昔には自生のスズランがこのあたりのあちこちに見られた、ということだ。
毒性植物の特産地でもあった。







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# by hanaha09 | 2018-05-18 12:06 | 田舎暮らし | Comments(0)

最後に咲くのは深山桜

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桜で一番遅く咲くのが深山桜。
葉が出て、花は上を向いて咲くので下からはちらほらしか見えない。
枝を引っ張りおろして写真を撮った。
清楚な花で姿良く...日本の桜だ。
気温はどんどん上がり、このあたりも新緑が一杯。
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今日は初めてハルゼミの鳴き声を聞いた。
カッコウも鳴きだした。
冬から春へ、そしてもう初夏だ。
季節の巡るのは早いね。








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# by hanaha09 | 2018-05-17 18:44 | 田舎暮らし | Comments(0)

鹿沢園地を散策した。

天気が良いので鹿沢園地の湯尻川淵遊歩道散策に出かけた。
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緑がきれいねぇ。
このあたりはミズナラが多い。
最近はやりのモルトウイスキーの樽の材料になる。
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沢淵にはイチリンソウ、足場が悪かったのでピンボケになった。
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カラマツの新緑も最高にきれいだ。
このあたりは植林地なのでまっすぐに伸びた樹が天に突き刺さるみたいだ。
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これはハウチワカエデの花だ。
ちょっとかわいいね。
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帰りにはいつもの雲井の湯、源頼朝が巻狩りの際に見つけて入ったという伝説の湯。
ちょろちょろ流れ出るかけ流しの湯はちょうど良い湯加減。
5kmちょっとのじいさん向けの散策道だ。









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# by hanaha09 | 2018-05-16 16:50 | 田舎暮らし | Comments(0)

鬼が押し出した熔岩

天気も良いので鬼押出し園へ行った。
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上野の寛永寺から移設された惣門をくぐると鬼押し出し園。
その向こうには寝観音像、右の三つ尾根(嬬恋の人の呼び名、信州の人は黒斑山と呼ぶ、今はこれが普通)が上を向いた観音様の頭。
真ん中の前掛山がおなか、おなかの真ん中あたりにちょこっと出てるへそが昭和25年の大噴火の際に火口から飛び出て、引っかかった千トン岩。
68年間落っこちそうで落っこちない、ありがたい御利益を約束してくれそうな千トン岩だ。
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上野の寛永寺別院、観音堂。
そして、徳川家各将軍の霊廟に奉納された石灯籠。
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見晴らし台から見る四阿山、熔岩の中の三つ葉ツツジがきれいね。
風もさわやか、もう冷たいお茶が旨かった。









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# by hanaha09 | 2018-05-15 19:28 | 田舎暮らし | Comments(0)

ヤマシャクヤクが咲いた

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この春先に芽を出していたヤマラノオロチ、八個のヤマシャクヤクの花が開いた。
黄色がかった花はちょっと珍しい。
環境省のレッドリストの準絶滅危惧種に指定されている。
これは実生で育てた苗をいただいたもの。
根は生薬で山芍薬(やましゃくやく)といい、鎮痛薬とされるのだそうだ。
これが盗掘の要因、そして絶滅への原因か?
実は一昨年このヤマシャクヤクから採種した種を植えておいた。
この春になってなんと芽が出た。
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これがうまく育って、花をつけるのはおそらく4、5年先の事。
どんな花が咲くのか見てみたいねぇ、長生きしてみたいねぇ。




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# by hanaha09 | 2018-05-14 17:22 | 田舎暮らし | Comments(0)

ジャガタラ薯の続き

ジャガタラ薯は春になると芽を出してしまうんで、しまってはおけなかったんだと。
天保十年、松本源吉ちゅう人が薯の団子が出来ねえかと思って、薯をつぶして丸めて焼いたりゆでたりしたがうまくいかなかったんだと。
色々考えて薯をおろして桶に沈めて、沈んだ下の良い所を水でさらして天日で干すと薯の粉ができることを発明したんだと。
この仕事は冬の寒ざらしでねえと腐るんで、田代の衆は冬が来ると村中で薯の寒ざらしをして粉をつくったんだと。
この粉にお湯を入れてかき混ぜたいも熱湯や蕎麦粉と混ぜて焼いたせんべえが近郷近在で評判になり、買いに来る商人や他の村の人が増えてきたんだと。
この粉は片栗の根っこと色も味も似ているから片栗粉(別の話では加太久利粉とも書かれた)と名付けて、上田や小諸で売り出したんだと。
繁盛して天保十九年には二十六も売れたんだと。
二百匁を袋にして銀四匁ちゅうから今なら二千五百円くれえになったんだと。
田代村の衆は片栗粉を売って、米や魚や着物を買ったんだと。
天保の飢饉、明治の飢饉のときもこの薯のおかげで生き延びられたんだと。
ジャガタラ薯は田代村にとって本当の命の糧として今も作られ、片栗粉も昔ながらのやり方で作り継がれているんだと。
今日はイワカガミの花も咲いただんべ。
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# by hanaha09 | 2018-05-13 12:37 | 田舎暮らし | Comments(0)