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あるちゅはいま日記

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盆おどり

全国各地で盆おどり。
b0126549_21344970.jpg「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン...」と叫びながら踊るのは日本三大盆踊りにランクされる阿波踊り。
「ねー、見てるだけの阿呆さん、人生なんてあっという間に終わってしまう。同じ短じかい人生、楽しく踊って過ごさなきゃ損なのだ!」
という人生哲学論。
笠で覆った顔かたち、髪を掻き上げた白いうなじ、ピンクのけだし、高く上げた足から覗く白い大腿部、帯できつく締めあげられた胴のくびれ...そしてしなやかに動く手足。
色気たっぷりの盆踊りだ。
盆踊りはもともとは仏教行事、死者の供養の意味合いを持っていた。
鎌倉時代に一遍上人が長野県佐久市の西方寺で始めた盆踊りのルーツともいえるのが「踊り念仏」。
一遍や同行の尼僧らは念仏で救済される喜びに衣服もはだけ激しく踊り狂い、法悦境へと庶民を巻き込んで全国大ブームを引き起こしたのだそうだ。
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この盆踊り、江戸時代には連日連夜、夏の間を踊り続けるというような絶頂期に入った。
次第に盆踊りは性の解放のエネルギーと結びついていく。
その勢か、江戸時代、また明治時代に入っても当局の風紀取り締まり対象に何度もなったそうだ。
「やる好き者に見る好き者、同じ好き者ならやらなきゃ損々!」、こんな珍解釈もまんざらでたらめでもなさそう。
阿波踊りの本拠地では春先に生まれる子供も多い???
俺は9月生まれだ。
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# by hanaha09 | 2017-08-16 22:30 | 田舎暮らし | Comments(0)

終戦の詔勅

1945年(昭和20年)8月14日、日本は御前会議において鈴木貫太郎首相が昭和天皇の判断を仰ぎ、ポツダム宣言の受諾を最終決定した。
ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(第13条)などを定めていたため、その受諾は太平洋戦争において、日本が降伏することを意味した。
昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)が社団法人NHKにより15日正午より放送された、これが玉音放送と言われる。
通常の出力10kwを60kwに増力し、昼間送電の無い地域には特別送電を行い、さらに短波により東亜放送を通じて中国占領地、満州、朝鮮、台湾、南方諸地域にも放送された。
頭に残っているのは「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ...」だけかもしらない。
およそ5分間の詔勅、現代語訳全文を見てみよう。
『余は、深く世界の大勢と、帝国の現状をかえりみて、非常措置をもって事態を 収拾しようと欲し、ここに忠実にして善良なる汝ら臣民に告げる。

余は帝国政府に、米英中ソの四国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通告させた。

そもそも、帝国臣民の安寧をはかり、万国が共存共栄して楽しみをともにすることは、天照大御神からはじまる歴代天皇・皇室が遺訓として代々伝えてき たもので、余はそれをつねづね心がけてきた。先に米英の二国に宣戦した理由も、 実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときは、もとより余の志すところではない。しかるに、交戦状態はすでに四年を過ぎ、余の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、余のすべての官僚役人の精勤と励行、余の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善をつくしたのにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の大勢もまたわが国にとって有利とはいえない。

そればかりか、敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。この上、なお交戦を続 けるであろうか。ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文 明そのものを破滅させるにちがいない。そのようになったならば、余は何をもって 億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。以上が、余が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由である。

余は、帝国とともに終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同 盟国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した 者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、およびその遺族に思いを致すとき、 余の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりである。かつ、戦傷を負い、戦争の災禍をこうむり、家も土地も職場も失った者たちの健康と生活の保証にいたっては、余の心より深く憂うるところである。思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、もとより尋常なものではない。汝ら臣民の真情も、余はそれをよく知っている。しかし、ここは時勢のおもむくところに従い、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、太平の世への一歩を踏み出したいと思う。

余はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実 とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化 させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、余のもっとも戒めるところである。

そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の 進む道におくれを取らぬよう心がけよ。汝ら臣民、以上のことを余が意志として体せよ。』
政治の大切さをしみじみと感じてしまう。
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# by hanaha09 | 2017-08-15 16:58 | 田舎暮らし | Comments(0)

8月14日の空襲

終戦を迎えようとしていた1945年、国鉄城東線(今のJR環状線)の京橋駅へ学徒動員され、改札・出札・駅名連呼などに携わっていた女性の話。
「昭和20年8月14日(終戦の詔勅の前日)も、いつものように京橋駅のホームで仕事をしていました。B29というアメリカ軍の飛行機が、たくさん飛んできたのです。防空壕に入って間もなく、ドドーンという爆弾の音がひっきりなしに続き、防空壕の中は大きい地震のように揺れました。防空壕の中で、1時間くらい爆音と振動が続いたと思います。その後、防空壕の外には、見渡すばかり一面に死体が横たわっていました。近くの砲兵工廠を破壊するための大型爆弾が落ちてきたと聞きました。(中略)空襲がやんでしばらくして、アメリカ軍機が飛んできて、「空襲は今日で終わりです」と書かれた紙を壊滅した京橋駅の上空からバラまきました。きれいな毛筆で、白い短冊のような紙に書かれていました。」
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前にもあったように、軽井沢に疎開していたスイス公館より日本のポッダム宣言受諾宣言を通知したのが8月10日、外国公館の関係者たちが毎晩のように終戦を祝うパーティを開いた時だ。
8月14日の米軍空襲は大阪だけでは無かった。
14日から15日未明にかけて全国10か所以上の各地に空襲があり、2,300人以上の犠牲者を出した。
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なぜ?
降伏が決まっていても、戦闘中止命令は出ていなかった。
1945年8月15日朝にも「沖縄への特別攻撃隊出撃命令」が海軍・陸軍からでて戦闘機が飛び立っている。
終戦の詔勅後の8月18日、ソ連軍が千島列島占守島の北部の竹田浜に上陸し、日本軍と戦闘に突入、ソ連兵2,000人の犠牲を出した。
終戦にさいしての混乱期と言え、なんとも言えない出来事だ。
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# by hanaha09 | 2017-08-14 18:31 | 田舎暮らし | Comments(0)

ビキニ

1946年7月1日、マーシャル諸島のビキニ環礁で米国によって、第二次世界大戦後初の原爆実験(クロスロード作戦)が行われた。
この実験の直後の1946年7月5日にフランスの母親が経営してた下着会社に勤めてたルイ・レアールが、その小ささと周囲に与える破壊的威力を原爆にたとえ、ビキニと命名して水着を発表した。
"like the bomb, the bikini is small and devastating"と述べた。b0126549_1775275.jpg
発表当時から肌の露出度がかなり高い水着であり、あまりの大胆さから当初はほとんど着用されなかったのだそうだ。
スケベ大国の日本には1950年に上陸したのだが、日の目を見たのは1970年になってから。
中国人とハワイ人の血を引くモデルのアグネスラムがこのビキニ姿で登場、一度にビキニブームが広がった。
おやじ連中、大いに鼻の下を長くしたもんだが...
日本にとってはビキニ環礁の水爆実験被ばくによる悲劇も起こった。
第五福竜丸事件だ。
乗組員が無くなり、大量の被ばくマグロが各地で処分された。
話題の築地市場地下にもいまだ埋もれている被ばくマグロ。
豊洲のベンゼンどころではない放射線汚染の疑いもある。
小さくても大きな影響を与え、残す、面倒なビキニだ。
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# by hanaha09 | 2017-08-13 14:54 | 田舎暮らし | Comments(0)

サファリ

信州上田まで買い物に出かけた。
昼過ぎの気温が35.5℃、これはもうバンコクの熱さだね。
と、いうことでケニアではない、バンコクのサファリを思い出した、もう10年も前の事。
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暑い暑いサファリの光景。
嬬恋村まで帰ると、気温は22℃、極楽極楽...
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# by hanaha09 | 2017-08-12 20:49 | 田舎暮らし | Comments(0)

きのふはけふの物語

江戸初期に書かれたとされる小噺集「きのふはけふの物語」。b0126549_947090.jpg
様々な形で庶民に浸透し、楽しまれたそうだ。
当時の庶民の笑いの感覚がしのばれる。

(拾遺)6 ある比丘尼(注:びくに=尼僧)、寄合ひて、色々の物がたりをしてあそばれたる所へ、わやくなる者(注:腕白者)行て、戸の節穴より、わたくし物を、いかにも見事にしたてゝ、によつと出す。
主の比丘尼是を見つめて、「やれやれ、こゝへ何やら知らぬ、蟲めが出た。そこな金火箸を、焼いておこさい。取りて捨てふ」といふ。
金火箸のくる音を聞て、かの物をひきければ、比丘尼うろたへて、「今までこゝにあつたまら(注:魔羅=もと僧の隠語)がない」といはれた。
(拾遺)7 
又ある比丘尼、三人つれて、通りけるが、道ばたに、馬めが、かの物をおやして(注:勃起のこと)をりけるを、比丘尼共しりめ(注:横目)にかけて、さらぬ顔にて通りけるが、さきなる比丘尼こらへかね申けるは、「今の物は、さても見事や。いざめんいざめん(注:めいめい)に、名をつけう」と申。
あとなる二人の比丘尼申けるは、「さてさて、よく御心がついた。先々さきより名をつけさせられよ」といふ。
「さらば我ら、申出した事じやほどに、つけ申さうが、よからうかしらぬ」とて、「九こん(注:九魂)」と付られた。
「其いはれば」ととへば、「酒は晝飲みても夜飲みても、飲みさへすれば、心がいさみて、面白ひ。其上、酒は三三九度とて、獻數(注:飲む盃の数)はさだまりて、九度が本(注:正式)じや。それより上は、あなたのきこん(注:気魂=意気込み)次第じや。是ほどよい名はあるまい」といふた。
中なる比丘尼申けるは、「梅法師」と付る。
「其謂は」と問へば、「見る度ごとに、つがひかるゝ(注:つばがたまります)」といふ。
あとなる比丘尼、「鼻毛抜」と付る。
「なぜに」といへば、「ぬく度に、涙落つる」といふた。
(拾遺)18 
ある者、晝一儀をくわだてんと思へども、子供二人ありければ、ならず候程に、なにとかして、子供を使にやり候はんと、分別して申やうは、「此鐵輪を、兄弟して、中擔ふて、川へゆきて洗へ」と申ければ、「心得候」とて、洗ひに行。
くはだてゝ、しみたる最中に、子供二人ながら歸りた。
親どもうろたへて申やう、「何とて鐵輪をば洗ひ候はで、歸りたるぞ」と、叱りければ、兄むすこ申けるは、「よそにも、晝つびがはやるやら、川に、鐵輪洗がつかへて(注:いっぱいでふさがって)、洗はれぬほどに、歸りた」といふた。
(拾遺)19 
ある女房、十ばかりなる子を、抱いて寝た。
さて、子が寝入りたるかと思ふて、男の所へ行きた。男いふやうは、「かめ女が、眼があかうが、なにとしてきた」といひければ、「そつとぬけてきた」といふ。
さて一儀をくはだてゝ、しみたる最中に、かめ女、そばへよりければ、母親申けるは、「われはなにとてきた」といひければ、かめ女申けるは、「おれもそつとぬけてきた」といふた。

盆がまじかというのに閑ですなぁ。
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# by hanaha09 | 2017-08-11 11:10 | 田舎暮らし | Comments(0)

ゴミあれこれ

子供たちが避暑と称してやってくる。
ほんとうは夏休みの子供の時間つぶし、食べ盛りの子供の食費節約、ホテルや旅館に泊まるとお金がいっぱいいる、近所には軽井沢に行ってくる、といい恰好...
人口が倍増して大変なのはトイレットペーパー、すぐなくなる。
米ビつが底をつく、なんといってもお菓子の袋や紙切れやら生ゴミでゴミが倍増どころか3倍増。
毎日のゴミ捨てが必要、嬬恋村の指定ゴミ袋は結構高い、これだけでも大変。
子供の頃は生ごみは畑の横に積み上げたい肥に、八百屋の包み紙は古新聞、肉屋の包み紙は竹の皮、アイスの棒は木製で何でも燃やせた。
缶詰の空き缶はおっちゃんが自転車で集めに来てた、ジュースの瓶はまた店に返せばよかった。
けれども、街のあちこちにはごみの投げ捨てがどこでも見られた。
ひどかったのは駅のホーム下の線路、煙草の吸殻で埋もれていた。
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生活の向上と共に心も豊かになり、路上のゴミはあちこちに設置されたゴミ箱に捨てられるようになり、街は一挙にきれいになった。
そして、その後の爆弾騒ぎでこのごみ箱はほとんどが無くなった。
それでも街にゴミ、線路に煙草の吸殻はほとんど見当たらない。
このあたりの登山道にもゴミはひとつも無い、監視員の方は小さな飴の包み紙の端切を拾っていってる。
別荘建築が一巡した現在では道端のコーヒー缶もほとんど捨てられていない。
なんとも素晴らしい日本国。
イギリスにはパブなる飲み屋がある、ここではビールのつまみのピーナツの皮を床に放り出す、汚い。
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イギリスの植民地であったシンガポールではあまりに街のゴミが多いので法律によってゴミのポイ捨てには重罰金が課せられる、何を言ってもシンガポール人は効き目が無いからだと聞いたことがある。
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中国の汽車の中もゴミだらけ、おまけに大勢の乗客が携帯で一気にがなり立てる。
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日本人に生まれてよかったと、またつくづく思ってしまう。
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# by hanaha09 | 2017-08-10 09:35 | 田舎暮らし | Comments(0)

今日は長崎

ポルトガル船マードレ・デ・デウス号が当時のカピタンモール(マカオ臨時総督の権限も持っていた)、アンドレ・ペッソアを乗せてやってきたのが一六〇九年六月のこと。
時は徳川家康の時代、なんとも複雑で、よくわからない事件が起こった。
今の長崎県庁の地はその真下まで海に迫った小高い岬だった。
そこには、イエズス会の教会がそびえていた。
集まったのは長崎奉行長谷川左兵衛藤広、長崎地方地方支配代官村山等安アントニオ、そして肥前有馬日野江の城主ジョアン・プロタシオ有馬晴信。
長崎奉行と代官は、かねてより一方的であったマカオと長崎間貿易の主導権を、ぜひ彼らの手に握りたいと考えていた。
有馬晴信はキリシタン大名の一人、徳川家康の遠縁にもあたる。
地味に乏しい雲仙岳山麓を抱え、御朱印の元、広く南蛮貿易に手を広げ利益を上げていた。
嵐を避けて立ち寄ったマカオで、彼の御朱印船乗組員が騒動を起こして殺され、その上積み荷の家康所望の香木の伽羅まで没収されてしまった。
晴信は怒り狂う家康からデウス号捕獲の許可を取り付けていたのである。
大航海時代以降、世界をまたにかけて覇権を拡大していたマカオの総督はそう簡単に日本の役人たちの言いなりになるわけはない。
まさに戦の火ぶたが切って落とされようとなった時、マカオ総督ベッソは逃走をはかった。
が、晴信の手配した6隻の軍船と30数隻の小舟、千七百の兵でもって激しい戦闘の結果、3日後にマードレ・デ・デウス号は自爆、33尋の海底に真っ二つになって沈んでいった。
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デウス号の大砲。
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この事件、一体何だったんだろう?
生糸などの輸入品を一手に取り扱ったポルトガル商人たちの権益保持・拡大、そして南蛮貿易の利益と引き換えのキリスト教布教の常套化、その果てには植民地化の考えがポルトガル人の頭にあった。
徳川幕府にとってはキリスト教布教による弊害を改めて防御、それにポルトガル商人、布教者、キリシタン大名による人身売買の悲惨さも目のあたりにしたようだ。
彼らの世界地図で見るとファーイーストのちっぽけな国日本、大国に対してもいうことは言う、やることはやる。
今の日本人も彼らのルーツが受け継がれてるはずだ。
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# by hanaha09 | 2017-08-09 11:35 | 田舎暮らし | Comments(0)

電気自動車

フランス国の若き大統領が高らかに宣言したのが「2040年ころまでにガソリン車とディーゼル車の国内販売を禁止する」という政策。
オランダも2025年から段階的にガソリンとディーゼル車の販売禁止を検討。
ボルボは2019年以降にエンジンのみを搭載した車の生産を終了と発表。
ヨーロッパは電気自動車一色、と思っていたらインドでも2030年までに 電気自動車のみにするとしているそうだ。
再生可能発電設備を用いれば環境負荷が大きく下げられることになる。
現在の電気自動車の不便性は充電時間の問題、走行距離を確保するための大容量のバッテリー、自動車の価格が高くなる。
パリにはすでに電気自動車のカーシェアリングシステムがある。
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このシステムは2008年にパリ市長が公約した政策を実現したもの。
貸し出し返却兼充電ステーションは、パリ市内に約700カ所、200~300メートルおきにある。
登録者は約4万5,000人、貸し出し用EVは1,750台、基本料金を払って利用登録し、利用時間に応じた従量料金を支払うのだそうだ。
これだけの充電設備があれば電気自動車のバッテリーは小容量で充分、安全で安上がりだ。
実は嬬恋村にも立派な電気自動車用充電装置がある。
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村役場の駐車場に一昨年あたりにできた、ここの他にはまだ見たことが無い。
この浅間高原の将来環境を保つためにも、この地区のエンジン付き自動車の乗り入れ禁止、電気自動車のための環境整備をうたう為政者の方、現われないかなぁ。
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# by hanaha09 | 2017-08-08 09:33 | 田舎暮らし | Comments(0)

水戸黄門は諸国を漫遊したのか

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テレビの落とし子「水戸黄門漫遊記」。
昔はかじりついて見たもんだ。
実在の水戸藩主である徳川光圀、権中納言(宣旨を敷奏し、参議に待問する役職、よくわからん)を名乗っていたことから「徳川光圀」と直言することを避けるため、藩名である「水戸」と、中納言の唐名である「黄門」をとって広く用いられていた別称なのだそうだ。
名君として評され、庶民の間でも知名度は高く、亡くなった時には、
「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」
と詠われた狂歌が流行った。
江戸と国元の往復や領内巡検をしているのが語られているだけで、諸国を漫遊したという史実は一切無いそうだ。
ただし、国史編纂のために儒学者らを日本各地へ派遣して史料蒐集を行っている。
これらを大げさに取り上げたのが、どうも明治になって、大阪の講釈師玉田玉知が家臣の佐々木助三郎(介三郎、助さん)と渥美格之進(格さん)とする話に膨らませて人気となった。
明治の幕藩体制の批判にも関わらず人気となったのが、水戸藩で唱えられた水戸学が尊王論や天皇制・南朝正閏論に多大な影響を及ぼし、明治政府の意図と重なったということらしい。
明治末期からは娯楽として始まった時代劇映画の題材に、また戦後には庶民の娯楽へと発展していった。
現代の水戸黄門活劇は優しく、そして時には厳しく、決める時には決める。
こんな現代おやじにはできないような恰好良さがるようだ。
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# by hanaha09 | 2017-08-07 07:44 | 田舎暮らし | Comments(0)