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あるちゅはいま日記

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湯道の百体観音

昔々、猟師が白鹿をめがけて矢を放ったところ傷ついた鹿はそのまま姿を消してしまった。
その後を猟師が必死で追うと、その谷間の湯気の立ち上る中で、傷ついた白鹿がじっと傷をいやしていたといわれている。
この谷間が鹿沢温泉呼ばれることとなった、とさ。
この猟師は源頼朝になったり、さては日本武尊になったりする。
いずれにしても鹿沢温泉は1,000年を超える歴史を持つ名湯であり、武田信玄をはじめ真田一族、そして、各地で戦功をあげた真田十勇士、忍びの者などもこの温泉を利用したと言い伝えられている。
江戸時代も終焉を迎えるころ、観音巡りブームもあり、鹿沢温泉と信州新張村の発願で新張村から鹿沢温泉までのおよそ3里の湯道の安全を祈願して百体観音が1町(109m)ごとに建立されることとなった。
はるばる伊那の高遠から石工が訪れ、この作業にたずさわった。
新張村、嬬恋村だけでなく、小県郡や佐久郡の近隣だけでなく、長野市や伊那市、さらには群馬県の各所からの協力により完成、開眼祝いが行われたのが11年後の明治7年。
最後の百番観音には鹿沢温泉にやってきた湯治客500人もの寄進があったと言われている。
今も新張ー嬬恋間の県道わきに遺る観音像を訪ねてみた。
昔の国境、今の県境である地蔵峠に遺る80番の十一面観音像、おまけのお地蔵さんも。
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そして、
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84番の千手観音像、夫婦円満などの現世ご利益をかなえてくれるそうだ。
お参りをして、今日はこれで充分。
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# by hanaha09 | 2017-06-15 21:07 | 田舎暮らし | Comments(0)

ミヤマクワガタ

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今年初めてやってきたミヤマクワガタだ。
生まれたばっかりだろうか、繊毛が金色に光ってる。
この繊毛、霧や雨で湿ると黒くなり木の幹に擬態した保護色になる。
この他に熱線吸収率を調整する役目もあるそうだ。
そして、このクワガタ元気が良い。
頭のハサミで指に噛みつこうとする。
結構立派なヤツだ。
ミヤマクワガタは酷暑と乾燥に弱い、それで温暖化と共に激減してきてるそうだ。
もう一つの原因はノコギリクワガタにあるらしい。
史上最強と言われるミヤマクワガタもノコギリクワガタにケンカ負けする。
ノコギリクワガタは、大あごで相­手を背中側から挟む「上手投げ」と、腹側から挟む「下手投げ」の2種類の技を使い分け­るが、ミヤマクワガタは上手投げしか使えないのだそうだ。
子供たちの間ではカブト虫20匹とこのミヤマクワガタ1匹が交換レートとなっているのだそうだ。
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# by hanaha09 | 2017-06-14 17:59 | 田舎暮らし | Comments(0)

田んぼとおたまじゃくし

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芦生田で見かけた田んぼだ。
田植えをしてそんなに時間がたってなさそうだ。
おたまじゃくしがいっぱいいる。
お米をうまく育てるのに一番重要なのは水の管理なのだそうだ。
田植え直後は水を浅く張る、水温を出来るだけ上げて稲の分けつを促進するのだそうだ。
田植えの1週間後くらいには除草剤を撒くので水を深く張る、そしてそのままにする。
その後は草をはやさないように、深く水を張ったままにする。
状況に応じては、水を浅くして稲の生育を促すこともある。
そして稲が成長すると、「中干し」をする、水を一度抜いてしまう。
土壌中に酸素を送って根を健全に保つ。
また、稲の根の一部を水根から畑根に変えたり、土を固くして、稲を倒れにくくする。
この時にまだ田んぼの中におたまじゃくしのままだと日干しになって死んでしまう。
かえるにまで成長してると肺呼吸ができて死ぬことは無い。
おたまじゃくしとお百姓の生存競争だ。
除草剤は正しく使用してる限りおたまじゃくしは死ぬことは無い。
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# by hanaha09 | 2017-06-13 18:38 | 田舎暮らし | Comments(0)

寝観音

今朝の気温は8.5℃。
初夏とは思えない気候だ。
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鬼押出し園からの朝の浅間山風景だ。
右から黒斑山、そして浅間山と続く。
右に観音様の頭とお顔、鼻のようなものが見えたり、唇の様なものに見えたり...
首があって、おなかがぽこんと膨れて、おへそのような千トン岩。
そして、足までは見えない。
観音様はいつも立ってるわけではない、寝てても下々の苦悩、煩悩を見つけて悟りを開いてくれる。
こんな尊いお姿に見えますかね?
見えない人は修業が足りない!
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# by hanaha09 | 2017-06-12 22:20 | 田舎暮らし | Comments(0)

袖の下

江戸時代の経済は年貢米から発する米本位制が基本となっていた。
江戸も半ばを過ぎたころには、より自由な貨幣経済が発展してきた。
この機に登場したのが老中田沼意次、一気に重商主義に突っ走った。
米では出来得ない大判小判を用いた賄賂、「袖の下」が横行したのだ。
さてさて、その「袖の下」の正しい渡し方とは...
「袖の下」を渡すと言うことは、オープンで爽やかな渡し方は厳禁。
交換条件を突きつけてのビジネスライクでもダメ。
具体的なお願いは不要、以心伝心でなければならい。
「お代官様のお好きなお菓子でございます」
「少々重たいお菓子にございます」と。
渡し際に目と目で合図し合う事が肝心なのだそうだ。
上目遣いと、口元のニヤリがポイント。
事を察したお代官様からは「心の言葉」が聞こえてくるはず。
「ちと重い菓子じゃのぉー」
と、同時にお代官様口元がニヤリ…そこで決め台詞!
「お主も、なかなかの悪よのぉぉぉう…」
「いえいえ、お代官様ほどでは…」
「ふふはははは…」
見事に商談成立となる。
田沼意次の出身地、静岡県牧之原市で売られている現代の賄賂最中、粒あんだ。
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# by hanaha09 | 2017-06-11 20:19 | 田舎暮らし | Comments(0)

献残屋(けんざんや)

江戸時代は言わば贈物社会だった。
賄賂と言うと聞こえが悪いのだが、今でも人の家に挨拶に行く時に手ぶらはどうかな、と思う人も多いだろう。
江戸時代は、何かと言うとお互いに挨拶に行ったようなので、贈物社会になるのは至極当然であった。
全国の大名は参勤交代で江戸に来るとき、将軍、その他の役付きの面々に土産品を贈った。
また、年始には、大名たちは太刀を将軍に献上した。
「上がり太刀」と呼ばれる木刀に黒漆を塗り、真鍮の飾りをつけたもの。
儀式に用いるものなのだが、実用にもならず他に使い道がない。
でも献上物としては再利用できる。
そこで登場したのが献残屋(けんざんや)、この「上がり太刀」を引き取ってはまた別の大名の御用達係に売りつけた。
また、武家同士でも、互いに贈り物を交わし、何かあればお取り立てを、とか、あの件はよろしく、なんてひそひそ話をして帰る。
町人たちも、出入り先の武家や役所につけ届けをしにやってくる。
多くの進物、贈答品がやりとりされると受け取る側でも何かと重複したり、必要のないものまで貯まることになる。
この献残屋が扱った主な品物は次のようなものだったらしい。
沽魚(ひもの)、干貝、塩鳥(しおどり)、昆布、葛粉(くずこ)、片栗粉、水餅、金海鼠(きんなまこ/きんこ)、干鮑(ほしあわび)、くるみ、唐墨(からすみ)、海鼠腸(このわた)、雲丹(うに)、熨斗鮑(のしあわび)、檜台(ひのきだい)、折櫃(おりびつ)、筥(はこ)、樽
食品では日持ちのする高級干物、高級乾物、そして一度使えば用の無い儀式につかわれる道具類。
こんな川柳も、「献残屋 諸国の義理を 並べたて」。
究極のリサイクル社会であったと言われる江戸の町。
「メルカリ(現代のオンラインフリマ)」も顔負けの献残屋だ。
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# by hanaha09 | 2017-06-10 22:40 | 田舎暮らし | Comments(0)

江戸時間

江戸時代は省エネ時代、季節と共に夜明けの時間、日暮れの時間が変わっていった。
人々は夜明けとともに仕事をはじめ、日暮れと共に仕事を終わった、現代のような居残り残業もなかった。
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便利な表があった。
時間の表現には、二種類あった。
子、丑、寅、卯…の十二支をあてた「子の刻(ねのこく)」「丑の刻(うしのこく)」…という、武士などが用いた。
「九つ(ここのつ)」「八つ(やっつ)」と呼ぶ、庶民が使った。
当時は日の出を「明六つ(あけむっつ)」、日没を「暮六つ(くれむっつ)」と決めた。
それぞれの間を六等分、一日を十二の刻で呼ぶ。
頭に、明、朝、昼、暮、夜、暁を置いて使い分けもした。
一年を通じて昼夜の長さが違う。

夏は昼が長いので、昼の一刻は長く、当然夜の一刻は短くなる。
冬はその逆だ。
江戸時代は、時間が伸びたり縮んだりしていたのだ。
自然の法則のなかで暮らした。
誰も不便でなかったし、合理的で健康的であった。
一分一秒を争うようなことは、この時代にはかった。
大ざっぱにゆっくりと時間が流れていた。
もう時計を持たなくなってかれこれ6-7年、別に不便でも何でもない。
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# by hanaha09 | 2017-06-09 11:53 | 田舎暮らし | Comments(0)

アサギマダラが飛んでいた。

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バラギ湖畔の湯の前にアサギマダラが飛んでいた。
飛び方がふわふわ、2匹(2頭が正しい?)ふわふわ。
このアサギマダラ、8月か9月になると旅に出る。
まず、ヨツバヒヨドリなどの花の蜜を吸う。
それまでは、ひたすら栄養補給をして脂肪を腹部に蓄える。
密に含まれるアルカロイド系の毒に自ら染まる、長い旅の途中に外敵に襲われないようにするんだ、と言われている。
どこまで飛ぶのか?
海を越えてひたすら南下する。
本州から沖縄県の南大東島へ、小笠原諸島の父島へ。
2000キロの旅をする蝶、2日間で740キロもの海上移動する。
この蝶は、時期、空間、植物の状況に柔軟に対応して飛んでおり、台風を活用して移動したり、雨が降る前に一気に移動したりと気象を読む能力に優れているのだそうだ。
小さな体でどうやって飛ぶ方向を決め、海を渡って長い旅をするのかも、謎のまま。
アサギマダラの寿命は羽化後4〜5カ月(?)。
与えられたその生涯時間内で二千キロを移動するのだが、彼らがどこで死んだかは特定しにくいらしい。
アサギマダラの一生はただただ飛び続ける運命なのだろうか。
想像を絶する蝶、アサギマダラだ。
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# by hanaha09 | 2017-06-08 09:54 | 田舎暮らし | Comments(0)

ジョン万次郎の英語

私を含めて日本人の英語の発音はへたくそだ。
その理由は、そもそもカタカナ英語に毒されているというものらしい。
「水」は今の日本では一般的に「ウォーター」とカタカナ表記されるのだが、本当の発音は「ワラ」に近いのだ。
b0126549_16555564.jpg天保12年(1841年)の事、土佐中濵村より手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島鳥島に漂着し、143日間生活したのがジョン万次郎。
そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。
船長ホイットフィールドに気に入られ、一人アメリカ本土にわたる。
ホイットフィールドの養子になった万次郎はオックスフォード学校、バーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学び、熱心に勉強した結果首席となった。
民主主義や男女平等など、日本人には新鮮な概念に触れる一方、人種差別も経験したのだ。
その後、帰国した万次郎は江戸時代末期(幕末)から明治にかけ、日米和親条約の締結に尽力し、その後通訳・教師などとして活躍した
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万次郎が後に記述した英語辞典の発音法の一例を挙げる、「コール」=cool・「ワラ」=water・「サンレィ」=Sunday・「ニュウヨゥ」=New York・「チャパン」=Japan・「ゲエル」=girl 
・「メアン」=man・「レーロー」=railroad・「レバ」=river・「ヤロ」=yellowなどなど
英語の発音を良くするには、「お腹から声を出す(腹式呼吸する)こと」「リズム・強弱に気をつけること」「あごを大きく動かして話す」。
そして、万次郎のかな表記を学べば良いのだそうだ。
ある日本人がニューヨーク行きの切符を買おうとして、窓口で「To NewYork」と言った。
すると切符が2枚出てきた。
言い間違えたと思い今度は「For NewYork」と言った。
すると今度は4枚出てきた。
「えーと…」と悩んでいると、8枚出てきた。
笑い話とは思えない話だ。
 
 
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# by hanaha09 | 2017-06-07 17:01 | 田舎暮らし | Comments(0)

異国船牟岐浦漂着事件

1829年12月20日、漂流する異国船が発見され、やがて船は牟岐出羽島近くに碇を降ろした。
ペリーが浦賀に来航するのが1853年、それよりも24年も前に阿波藩の田舎の漁師町近くにやってきた異国船だ。
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そして、12月23日、阿波藩は幕府の異国船打払令に従い砲撃を開始、異国船は立ち去っていった。
この際に異国船の様子を探るため、漁民になりすまして偵察に出たのが阿波藩士浜口巻太だ。
浜口巻太が記した見聞録『異国船舶来話并図』やこれを解読した資料『異国船牟岐浦漂着』を地元の人の協力を得つつ翻訳を進めていったのが、日本で英会話教師をしている歴史愛好家のニック・ラッセル氏。
外国人の船乗りは長く尖った鼻をしており、敵意は持っておらず、水と薪を身ぶり手振りで所望してきたらしい。これを拒絶されると、1人は泣き出し、祈り始めたという。
船長は緋色のウールコートに、袖口は金の刺繍入り、ボタンは銀箔という服装で、非常に美しいが華美にすぎると評されている。
彼は敬意を示すためと思われるが、部下に対して帽子を脱ぐよう命じた。
彼らのほとんどはハゲ頭だったと記されている。b0126549_1785466.jpg船員は贈り物を寄越したという。
資料に描かれている絵には、ブーメランらしきものがある。
また船員の1人は浜口に向かって胸をはだけ、上半身に彫られた美しい女性のタトゥーを見せたという。
郡代、山内忠太郎は立ち去るならば水と薪を与えると申し出るが、船は動かなかった。
報告に戻った浜口の絵に描かれていた旗から船がイギリス船であるらしいことが判明すると、阿波藩はついに砲撃を開始、被弾した船は風を待って出航する旨を通知し、やがて出航した。
いったいこの異国船はなんだったんだろう。
当のラッセル氏は、『キプロス号を盗んだ男(The Man Who Stole the Cyprus)』という歴史書のたどり着いた。
1829年、英国の囚人収容所があったオーストラリアのタスマニア島ホバートからマクアリー港へ向かうキプロス号が、護送中の囚人の反乱によって乗っ取られた事件が記載されていた。
オーストラリアではすでにキプロス号が日本に漂着したという話が伝わっていた。
この本に記載されていた船の大きさやマストの高さ、船員の服装や人数、漂着した時期までがほぼ一致していた。
この船はマカオや香港に辿り着いたという確かな証拠があるらしいが、結局タスマニアに送還されたのだそうだ。
くだんの船長は乗っ取り犯人の首謀者ウィリアム・スワローであるらしい。
オーストラリア植民地時代の出来事、大変な冒険航海であったに違いない。
それにしても紳士であった英吉利人乗っ取り犯人たちだ。
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# by hanaha09 | 2017-06-06 17:34 | 田舎暮らし | Comments(0)