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あるちゅはいま日記

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キャベツの出荷量は一位

群馬県は昨年2016年に生産したキャベツの出荷量が全国1位になったと発表した。
出荷量は前年比9%増の過去最高の24万2800トン。
もちろん群馬県のキャベツ主産地は嬬恋村だ。
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昭和45年と平成元年に始まる2度にわたる国営農地開発事業による1,000haに近い新たなキャベツ畑を含め、およそ3,000haに作付けされている。
夏から秋へかけて収穫される夏秋(かしゅうと発音される)キャベツだ。
このナンバーワンの影にもいろんな問題がある。
農産物の価格低迷、設備投資の負担、労働力の欠如、連作障害、鳥獣被害。
大規模経営を目指すに従って経営リスクも大きくなる。
父ちゃん、母ちゃん経営はむつかしくなる。
法人化による専門経営が求められてくるのであろう、農産物自由化ももうすぐ目の前だ。
その中で土着の地域農業形態が守られていくのか難しい問題だ。
もっと重要な問題が軽く論じられているところがある。
キャベツ畑の表土流出問題だ。
樹林の無くなった平坦なキャベツ畑に大雨が降れば、当然のように表土は下流へ下流へと流れて行ってしまう。
嬬恋村キャベツ畑のかけがえの無い財産である、表土ークロボク土がなくなってしまうという大きな問題だ。
クロボク土とは長年かけて降り積もった浅間山の火山灰土に枯葉、枯れ木などの腐敗有機物が混在した豊かな土壌だ。
自然の落ち葉による腐葉土の堆積は10年間で1cmほどと言われている。
キャベツ畑の50cmとか100cmの厚みのクロボク土はゆうに500年1000年かけて作り上げられた宝物なのだ。
これをわずか十数年の作付で失っているのである。
勝って兜の紐を締めなおす。
政治の主導が試されるところだ。
明日は衆議院の総選挙投票日だ。
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# by hanaha09 | 2017-10-21 17:58 | 田舎暮らし | Comments(0)

暮坂峠の牧水像

なにはともあれ良かった。
昨年に足首から切られて売り飛ばされた、牧水の銅像だったが...
今日、あらためて石像として復活されたそうだ。
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石像は前の銅像と同じく
トレードマークの帽子とマントを身に着け、傘を持った旅姿だ。
県内外の400超の個人、団体からの寄付金計約300万円を制作費に充てた。
銅像と違って石像は持ってかないだろう...と地元の人達。
牧水が弟子たちと共に暮坂峠を歩いて越したのが10月20日だった。
その前々日には草軽電鉄で軽井沢から嬬恋にやってきた。
当時あった芦生田の嬬恋駅前の旅籠が一晩の宿だった。
山に行けば、「幾山河(いくやまかわ)越えさり行(ゆ)かば寂しさの終(は)てなむ(ん)国ぞ今日も旅ゆく」。
独り酒を嗜んでいる時は、「白玉(しらたま)の歯にしみとほ(お)る秋の夜の酒はしづ(ず)かに飲むべかりけり」。
生涯、旅と酒を愛し、またこよなく人を愛した牧水だった。
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# by hanaha09 | 2017-10-20 11:35 | 田舎暮らし | Comments(0)

ヒロポン

国連加盟各国が北朝鮮に対する経済制裁を進める決議がなされた。
核爆弾、大陸間誘導弾の開発、実験の中断を迫る一つの手段だ。
北朝鮮の輸出品目は石炭及び鉱物資源をはじめとして繊維製品、鉄鋼・金属製品が主要品目として挙げられている。
テレビインタビューを受けた北朝鮮の一般市民とおぼしき人物が、「輸出禁止の制裁をされたら国内消費すればいいだけさ」と述べたのだそうだ。
その通りだ、と言えどもそれで良いわけはない。
統計に表れない主要な輸出品と言われるのが「アイス」、日本語でいえば「覚醒剤」。
これが北朝鮮国内の政治・軍部から一般市民まで蔓延しているのだそうだ。
金日成の時代、稼働していた化学工場で原料の調達ができなくなり、操業が止まってしまった。
国を維持するためと、手っ取り早くに考えられたのは覚醒剤の製造であった。
選れた輸出製品でもあった。
しかし、労働者たちは秘かにこれを市中に持ち出した。
その後、海外・市中の需要に対して極貧の一般市民が覚醒剤の製造に手を染め始めたのだ。
飢え死にしないために「アイス」を作り、「アイス」を売り、「アイス」中毒となり、麻薬の都市=地獄の都市となってしまっているのだそうだ。
日本でも第二次大戦中からこの覚醒剤、当時は「ヒロポン」という商品名で軍部から一般まで広く使用されていた過去がある。
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「ヒロポン」の語源は「疲労がポンと取れる」との説も。
軍隊では「突撃錠」、中島飛行機の製作所では夜中まで働く女子挺身隊に軍から「ヒロポン」が支給されていたとの話もある。
「ヒロポン」の中毒性に気付いた日本国政府は昭和24年に覚醒剤としての製造中止を決めた。
現在に至っては、医療・研究用を除いて使用・所持が禁止されている。
北朝鮮にも亡国の前に世界各国が何らかの救済の手を差し伸べなければないのでは...
実はこの「ヒロポン」、主成分のメンフェタミンは明治の半ば日本の薬学者により初めて合成された。
この薬学者の生誕地は、わが幼少の折、がき大将に連れられ走り回ったところだった。
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# by hanaha09 | 2017-10-19 19:47 | 田舎暮らし | Comments(0)

マタタビ体験記

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このあたりにはなかった。
しかし、裏山には夏ごろからは、葉が白っぽくなったりしてたので蔓があるのはわかってた。
今日見てみると、マタタビの実がたくさん出来ていた。
これがその熟した実だ、一粒採ってきた。
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「ネコにマタタビ」、ネコ科の動物はマタタビに含まれる揮発性のマタタビラクトンと称される物質に反応し、恍惚状態、いわゆるハイになる。
中には、性的興奮により、目を細め、よだれを流して、踊ったりするのもいるそうだ。
採ってきたマタタビの香りをかいでみると、恍惚とするような香りではない、熟したフルーツの香りだ。
一粒食べてみた。
味は、サルナシの味を半分にしたような味だった。
マタタビもサルナシも同じキイウイフルーツの仲間なのだそうだ。
しばらくすると、舌がピリピリしてきた。
これは効いてきたかな、と思へど下(シモ)の方はなんの変化もない。
その内、夕食の時間となって鍋料理にビールを飲んだ。
恍惚感にはほど遠い、いつもの酔っ払いでしかなかった。
マタタビの語源にはいくつもの説があるがその一つ、
「疲れた旅人がマタタビの実を食べたところ、再び旅を続けることが出来るように元気になった」ことから「又(また)旅」と名づけられたという。
今夜は、昔のように元気に過ごせるのだろうか???
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# by hanaha09 | 2017-10-18 20:41 | 田舎暮らし | Comments(0)

江戸の紅葉狩り

b0126549_21402621.jpg♪~ あれ見やしゃんせ 海晏寺(かいあんじ)
       真間(まま)や高雄(たかお)や竜田(たった)でも
         及ぶまいぞえ 紅葉狩り ~♪
秋の行楽は、やはり紅葉狩り。
江戸には紅葉の名所もあり、紅葉狩りの見物客で賑わった。
江戸の紅葉といえば、品川鮫洲にある「海晏寺(かいあんじ)」
この端唄のある「真間」は下総の「弘法寺」、「高雄」は京都の「高雄山」、「竜田」は奈良の「竜田川」、いずれも紅葉で知れ渡った場所。
この端歌は“世に名の通った紅葉はいっぱいあるけれど、海晏寺の紅葉こそ最高だ”と詠っている。
この海晏寺が人気を集めたのは、紅葉の素晴らしさの他にも理由があった。
近くには品川遊廓があり、紅葉狩りは、男たちのいい口実でもあった。
紅葉狩りの後は、飯盛茶屋に上がり込んではきれいなお姉さんと盃を重ねたに違いない。
こんな川柳も残されている。
「海晏寺真っ赤な嘘のつきどころ」
「紅葉狩り例年行けどもいまだ見ず」
かの性豪、小林一茶も足跡を残している。
この海晏寺の紅葉、明治初期になぜか伐採されてしまった。
このあたりの今、面影もないそうだ。
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# by hanaha09 | 2017-10-17 21:45 | 田舎暮らし | Comments(0)

秋の俳句

スケベおやじ垂涎のまとのタレント、壇蜜さん。
四国の松山市で開かれた「俳句が行く」テレビ番組でその腕を競い合った。
俳句のお題は「(正岡)子規、(夏目)漱石の散歩道」。
詠まれた句は、
「寄り合えば 酢飯の香(か)濃く 秋湿り」
子規は漱石が松山中学の英語教師のころ、同居して過ごした仲間。
子規が「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」と詠った最後の旅にも漱石は同行した。
松山出身の子規はいたって食いしん坊、特に母が作る「松山寿司」(四国では普通のバラ寿司、使う酢に小魚の焼いた身とか干しエビを漬け込んでおく、酢で〆た瀬戸内の魚、アナゴを混ぜ込む。)が好物だったそうだ。
季語は『秋湿り』、秋に降る雨に草木が濡れている様子が出たらいいなと思いました、との壇蜜コメント。
句会に、グルメに、酒に明け暮れる二人、結核を患った子規に寄り添うような漱石、瀬戸内の潮の香りのするバラ寿司を前に、ものさびしげな秋のただよい。
しっぽりとするような壇蜜色気が漂ってくる、なかなかの雰囲気だ。
もう一句、
「秋霖の むこふにかすむ やまもみじ」、もう寒々とした小雨に煙る紅葉のヤマモミジが感じられたらいいなぁ。
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これは私の作、誠に恥ずかしいお粗末なものでした。

   
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# by hanaha09 | 2017-10-16 11:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

ふ号兵器

b0126549_2223012.jpgどこかの野望を抱いた国ではICBM(大陸間弾道弾)の開発にやっきになってるそうだ。
第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長の兵器が日本軍によって開発されていた。
史上初めて大陸間を跨いで使用された、まさにICBMに匹敵する驚異の兵器だった。
秘匿名称は「ふ号兵器」、ふうせんの「ふ」から名付けられた。
兵器材料としては1基につき600枚のコウゾで漉かれた和紙が用意された。
コウゾの繊維が縦、横になるよう5層の網目構造になるよう張り合わされた。
接着剤が用意された。
乾燥させた後は表面にカセイソーダ液が塗布され一層強固なものとなり、これで直径10mほどの風船が出来上がった。
作業にあたって動員されたのは女子学生であった、中には戦争で閑になった芸者までも動員されたという話もある。b0126549_22283961.jpg総重量は200kg、風船の中に入れられた水素ガスで浮上した。
兵装は15kg爆弾1発と5kg焼夷弾2発。
気圧計とバラスト投下装置が連動する自動高度維持装置が搭載された。
発射されると風船からは徐々に水素ガスが抜け気球の高度は低下してしまう。
高度が低下すると気圧の変化で自動的に電熱線に電流が流れる。
バラストを吊している麻紐が焼き切られ、気球は軽くなりふたたび高度を上げる。
上空のジェット気流に乗って、バラストが無くなるおよそ50時間でアメリカ大陸に到達、高度が5,000mになると風船が爆発、爆弾が投下された。
完成した「ふ号兵器」は昭和19年11月3日未明に千葉の一ノ宮海岸、茨城の大津海岸、福島の勿来海岸の3か所から打ち上げられた。
昭和20年の春までに9,300発の「ふ号兵器」が放たれ、900個が7,700km離れたアメリカ大陸に到達、うち300個が敵国に被害を与えた。
脅威を感じたアメリカは「ふ号兵器」の発射基地を特定して先制攻撃を加えようとした。
まず、バラスト中に残っていた「砂」を分析した、その結果「日本の太平洋側海岸の砂」と同定された。
そして、日本軍にとって致命的だったのが風船の和紙の中に成田山や上総一ノ宮の玉前神社のお札が貼ってあったことだ。
そのせいか、上総一ノ宮上空は終戦のその日まで、米艦載機と茂原から飛び立った日本のゼロ戦との間で壮絶な空中戦が展開されることとなった。
アメリカの研究者たちにも、最後まで分からなかったのが風船の接着剤だった。
群馬の下仁田で大量に生産されたこんにゃく芋からできた糊だった。
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# by hanaha09 | 2017-10-15 23:10 | 田舎暮らし | Comments(0)

征露丸

つい最近までの家庭の常備薬、正露丸。
子供の頃には2粒ほど飲まされた、虫歯にも詰めた、結構痛みも消えた覚えがある。
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もともとは「征露丸」と名付けられた、チフスや赤痢に対する水あたり、消化器系伝染病の予防薬だ。
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この有名な家庭薬は、明治36年に陸軍軍医学校の戸塚機知と白岩六郎の研究によって生み出された。
当初は「クレオソート丸」という名前が与えられた。
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主成分がブナ属の植物からタールを蒸留して抽出した油状のクレオソートと呼ばれる成分だった。
当時、日露戦争も終局を迎えた奉天会戦の真っただ中。
下痢に悩まされていた帝国陸軍兵士達にクレオソート丸の服用を命じ、その偉大なる効果が満州軍総司令部にて報告された。
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明治天皇陛下のおぼしめしの薬(御神薬)として絶対的信頼を得ることとなった。
この戦時中に700万缶・5億60000万粒ものクレオソート丸が製造された。
日露戦争の戦勝記念には「戦友丸」と名付けた記念薬もできた。
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日露戦争後その神薬、霊薬としての神秘的効果が世間一般にも知れわたり戦役後陸軍はパテントを民間に分け与え、民間でも数十社で製造、販売されるようになる。
陸軍においてはケ(クではない)レオソート丸、民間では露西亜を征伐した「征露丸」の名称で広く普及した。
しかし、第二次大戦後「征露丸」の名称は敗戦国となった故の後ろめたさからか「正露丸」と改姓された。
今でも30数種類の「正露丸」が製造販売され、中には「征露丸」と名乗る製品も。
また、有名なラッパ印の「正露丸」、2007年には防衛省の装備品にも選ばれネパールへ派遣される自衛隊員の配給装備品となった。
いまや、アメリカをはじめ東南アジア諸国の家庭常備薬として世界を征服することとなった。
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# by hanaha09 | 2017-10-14 19:22 | 田舎暮らし | Comments(0)

養生七不可

江戸時代の平均寿命は50歳くらい、と言われている。
江戸時代には医療技術が十分でなかったこともあり、生まれて間もない子どもの死亡率がとても高かかった。
庶民より圧倒的に恵まれた環境の将軍家でも、生まれた子どもの半分は5歳までに死亡していた。
12代将軍・徳川家慶は男女合わせて27人もの子どもがいたのだが、成人まで生き残ったのはただ1人、後の13代将軍徳川家定のみだった。
今の平均寿命計算をすれば30~40歳になるのかも?
しかし、長寿を全うした人たちもかなりいる。
葛飾北斎は90才、良寛74才、伊能忠敬74才、徳川光圀73才、近松門左衛門72才、貝原益軒85才...
そしてかの「ターヘル・アナトミア」を和訳し解体新書として刊行し将軍家に献上した杉田玄白85才。
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玄白古希を迎えた時に「養生七不可」をまとめ、長寿の秘訣として友人に配ったといわれている。
七つのしてはいけないことなのだ。
1. 昨日の非は悔恨すべからず。(昨日の失敗は後悔しない)
2. 明日の是は慮念すべからず。(明日のことは心配しない)
3. 飲と食とは度を過ごすべからず。(飲むのも食べるのも度を過ぎない)
4. 正物に非(あら)ざれば、いやしくも食すべからず。(変わった食べものは食べない)
5. 事なき時は薬を服すべからず。(何でもないのにむやみに薬を飲まない)
6. 壮実を頼んで房をすごすべからず。(元気だからといって房事(性生活のこと)にふけることはしない)
7. 動作を勧めて、安を好むべからず。(楽をせず適当に運動をし、怠けないこと)

玄白はこの「養生七不可」を出した翌年には次の句を詠んだ。
【過ぎし世も 来る世も同じ夢なれば けふの今こそ 楽しかりけれ】
63歳で子供を作るほどお元気な方だったようだ。
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# by hanaha09 | 2017-10-13 13:41 | 田舎暮らし | Comments(0)

コロンブスの功罪

今日は1492年10月12日にコロンブスによるアメリカ大陸への発見および到着を祝う日だ。
アメリカ合衆国ではほとんどの公共施設、学校や企業も、アメリカ海兵隊もお休みの日だ。
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コロンブスは西欧世界にジャガイモ・トウモロコシ・トマト・タバコなどを持ち帰った。
西欧世界での主食料となり、人口増加の要因ともなった。
残念ながらジパングの国と間違えたコロンブスにはゴールドの獲物は無かった、その代わり奴隷を連れ帰った。
一方、北米のインディアンには小麦などの穀物、鉄器・銃、ウイスキーなどを持ち込んだ。
これはインディアン同士の争い、今でも続くアル中の引き金となった。
ニール・ドグラース・タイソン宇宙物理学博士がこの「コロンブス米上陸は人類史上最大の事件」と説く。
「我々の先祖はアフリカから始まった。ある者はヨーロッパに移動し、ある者は南の海岸を目指し、ある者はアジアを目指した。そして氷河期が訪れる。ベーリング海峡もベーリング地峡となって、アジアが北アメリカと繋がった。この氷河期に人類はアジアから北アメリカに移動した。これが1万年前。やがて氷河期が終わる。氷河が解け、海に水が満ち、大陸と大陸を結んでいた陸路は海に沈んで途絶えた。こうなると人類はもう移動できない。こうして南北アメリカに芽吹いた人類の種は南北アメリカに閉ざされたんだ。1万年間ね。人類の種には2通りの枝がある。ひとつはヨーロッパ・アジア・アフリカ。もうひとつは北アメリカ・南アメリカ。それが互いに互いの存在を知らぬまま1万年過ごしてしまったんだね。コロンブスのアメリカ上陸で1万年離れ離れだったふたつの種はまたひとつに繋がった。文化だけじゃない。生物も融合した。北アメリカには初めて天然痘が現れ、ヨーロッパに初めて梅毒が現れた。まあ、コロンブスもここで何度もセックスしたんだろうからね。」
この病気をイギリス人は「フランス病」、フランス人は「ナポリ病」、イタリア人とオランダ人は「スペイン病」、ポルトガル人は「カスチリア病」、ロシア人は「ポーランド病」、ポーランド人は「ロシア病」と呼んだ。
日本では「琉球病」と呼び、琉球では「南蛮病」と呼んだそうだ。
スペイン人だけが黙して語らない。
アメリカではなんと呼ぶんだろう。
1493年スペインで大流行したこの病気、なぜか1495年のフランス・イタリア戦争でイタリア人に感染(イタリアに進駐したフランス軍の中にスペイン人の傭兵がいたらしい)。
その後は、瞬く間に全ヨーロッパへと広がった。
1498年のバスコ・ダ・ガマのインド航路発見によって、東南アジア、中国へ伝播。
1512年には鉄砲の伝来より早く大坂に上陸したそうだ。
わずか20年足らずで世界を駆け巡った。
コロンブスが新大陸に残した天然痘はインディアンの多くが犠牲になった。
グローバル社会の出現だった。
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# by hanaha09 | 2017-10-12 20:05 | 田舎暮らし | Comments(0)