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あるちゅはいま日記

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雲井の湯へ行った

久しぶりに休暇村の雲井の湯へ行った。
1時前に行ったら誰もいない、だれも入って来なかった。
温泉独り占めの”浮世風呂”だった。
この雲井の湯、ここからおよそ3kmほど登ったところの旧鹿沢温泉からの引き湯。
村の古老に言わせると「嬬恋一番のお湯だんべ」、と。
旧鹿沢温泉、大正7年の大火事までは温泉宿20数軒、共同浴場5軒を要する、信州からの湯治客で賑わう温泉場だった。
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共同浴場の一つであった「雲井の湯」、ここの源泉をそのまま引き湯してきてるのがこの源泉かけ流しの「雲井の湯」。
「ガラス窓にはお湯をかけないで!」なんて注意書きがある、カルシウムを多く含む湯なので窓にかけると湯跡で曇ってしまうのだそうだ。
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鹿沢温泉の発祥は日本武尊による東征時の際の伝説に遡る。
「山中で一頭の白鹿を見つけた日本武尊は、これをめがけて放った矢で白鹿を傷つけ、そのまま鹿は姿を消しましたが、その後を必死で追いますと、その谷間の湯気の立ち上る中で、鹿がじっと傷をいやしていたといいます。」
日本武尊が源頼朝になったりするが、その白鹿物語にちなんで名付けられたのが鹿沢温泉。
と、思ってたらこんな説も。
もともと嬬恋村側にあったこの温泉だが、真田一族の影響もあり信州祢津の支配であったと記されている。
今も東御市の麓にある”加沢”集落の地名がこの温泉の名前になったということだ。
いずれにしろ、ゆうに千年を超える年月をこんこんとわき続ける温泉だ。
今日は雪見の露天風呂でもまったり。
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帰り際の浅間山、かなり噴煙が登ってた。
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大地からみなぎる人の手には抗えない巨大パワーだ。






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# by hanaha09 | 2017-12-21 16:47 | 田舎暮らし | Comments(0)

防災の心がけ

昨日のニュースより...
「国の地震調査委員会は19日、北海道東部の沖合で「十勝沖」「根室沖」「色丹島及び択捉島沖」の3つのエリアが連動した『超巨大地震』が起きる可能性を指摘した。想定は東日本大震災と同じクラスで、マグニチュード8.8以上。30年以内に起きる可能性として出された確率は7~40%で、地震調査委員会は「巨大地震の発生が切迫している可能性が高い」としている。(中略)400年ほど前に起きた超巨大地震による津波の痕跡は最大で4キロ内陸まで及んだ。地震調査委員会の佐竹健治委員は「地震が起きてから津波が来るまで20分程度の時間はあるので、とにかく逃げることが重要」と話す。」
嬬恋村では今から234年前、浅間山の大噴火によって生じた土石なだれでおよそ600名弱の人々が生活を営んでいた鎌原村、丸ごと埋まってしまった。
この大災害の復旧、復興に力を注いだ一人に近在の大笹村名主黒岩長左衛門がいた。
まず、生き残った人々に緊急の炊き出し、食料の支給、寝泊りの場所の提供をおこなった。
その後、復旧工事の先頭に立ち、およそ半年後には道路の復旧、復興住宅の建設を終えた。
一方、家族を失くした人々にも新しい家族の構築を勧めるなどの思い切った手法も取った。
そして、私費で始めた温泉の引き湯工事だった。
浅間山から流れ出た熱い熔岩で湧水が温泉となった。
この湧水を6kmほど離れた長左衛門の住む大笹宿場まで樋を作って引き湯をするという壮大な工事だった。
1年とちょっとかかった工事にあたったのは被災した人々を含む近在の村人だった。
畑、家財を失い食料の調達にも苦労をした人々にとって、この工事にたずさわることによって得られる日々の稼ぎが命を繋いだのであった。
個人の知恵が生んだ救済工事だった。
この黒岩長左衛門は、その後悲惨な災害がまたもや起こらないとは限らない、将来の村人たちの戒めのための碑の建立を考えた。
江戸の狂歌のスーパースター蜀山人に揮毫をたのんだ。
そして、出来上がったのが「大笹駅浅間碑」。
残念ながら長左衛門はその碑を見ることなく去り、跡継ぎの同じく長左衛門がこの碑の除幕をすることとなった。
そこにはこう記されている。
「碑名
信濃なる浅間のたけにたつ烟(けむり)はふるき歌にもみえてをちこちのひとの
知る所なり、いにし天明三の年夏のはじめよりことになりはためきて
ほのふもえあがり烟は東の空にたなびきて灰砂をふらし泥水をふき出し
固き七月五日より八日にいたるまで夜昼にわかちもなくなりふもとの林
ことごとく焼け、泥水は五里ばかり隔たりたる吾妻川にあふれゆきて
凡二十里あまりの人家山林田圃はいふに及ばず人馬の流死せしもの
数をしらずしかるに有がたきおほんめぐみによりて
やうくもとの如くにたちかえるといえどもたつ烟はさらにやまず
いにし年この災をおそれて速にたちさりしものはからき命をたすかり
おくれもして止まれる者はことごとく死亡しせり、これより後にいたりて
叉も大きにやけ出んもはかりがたければ里人この碑をたて、後の戒めとなす事しかり

   冨士のねの烟はたたずなりぬれどあさまの山はとことはにもゆ

                    文化十三年 丙子 秋九月 蜀山人書
                                    黒岩大栄建」
ここにも危難の際には「早く逃げろ!」と明確にある。
200年以上も前からの先達たちの戒めである。
この碑、鬼押出し園の片隅にあり、刻まれた文字はもうほとんど読み取れない。
ほとんどの人が目もくれずに通り過ぎてしまう碑だ。





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# by hanaha09 | 2017-12-20 10:30 | 田舎暮らし | Comments(0)

サクラ、フジヤマ、ゲイシャ

ちょっと古いかもしれない。
外国人にとっての日本のイメージは”桜”、”富士山”そして”芸者”と言われている。
通訳案内士の試験にも必ずと言ってよいほど出題されるのが、このお題なのだそうだ。
例えば、「芸者を英語で説明しなさい」とか「芸者と舞子の違いを英語で説明しなさい」とか。
春一斉に咲くほころぶ桜に桜吹雪、頭に白い雪を乗せた富士山そして舞い落ちる落ち葉の下を足早に歩く芸者...
まさにJapanですねぇ。
時は遡り、大正5年に鉄道省とジャパンツーリストビューローで1枚のポスターが制作された。
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当時の新聞記事によると、「日本においでなさいと呼びかける鉄道のポスター、Beautiful Japan!!」。
鉄道省がたぶん外国人観光客誘致を目的にしたポスター、「大正の広重」とも呼ばれた吉田初三郎の作だ。
元禄文化の江戸時代を思わせるような浮世絵風。
ポスターは四六版全紙の極彩色、美人芸者が桜咲く中、籠から何かを語りかけているような様子、そしてその向こうに富士山。
約1万枚のBeautiful Japanがアメリカへ、イギリス、フランス、ドイツ、インドその他世界各国へ送られた。
特にアメリカ人の間の対日イメージが「サクラ、フジヤマ、ゲイシャ」と定着した、このポスターの大なる貢献があったとの説である。
そして、今もこのイメージ、大きくは変わってはいないそうだ。
サクラに変わって、フジヤマ、ゲイシャ、シンカンセンとかフジヤマ、ゲイシャ、スキヤキなどになるそうだ。



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# by hanaha09 | 2017-12-19 13:07 | 田舎暮らし | Comments(0)

春画を描かなかった写楽

永青文庫副館長の橋本麻里氏が語る。
その前に永青文庫とは...あの元総理大臣細川護熙氏が理事長を務める細川家代々の美術品を収蔵した美術館。
「東洲斎写楽は錦絵の時代、喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重らが次々登場した浮世絵黄金期に現れました...写楽の歌舞伎役者絵の作品は役者を美化、理想化するのではなく、キャラクターを掘り下げながら、ネガティブな部分さえ含んでしまったところにリアリティがありました...」
「写楽の正体については、現在「阿波候お抱えの能役者 斎藤十郎兵衛」でほぼ間違いないだろうと結論づけられています...今でいえば県の職員、当時の歌舞伎という芸能そのものが風紀を乱すいかがわしい仕事とみなされていました。万が一身分が明らかになれば、自分だけではなく、阿波候にも迷惑が掛かってしまうため、名前を出すことができなかったんでしょう...」
「北斎や歌麿をはじめとする、ほぼすべての浮世絵師が春画を描いていました...写楽は春画を一枚も描いていない。もし写楽の春画が発見されたら大ニュースですが、10か月の活動期間で140点余りの作品を発表するような忙しさでしたから、春画まで描くような時間が無かったんでしょう。」
「仮に写楽の春画が見つかったとしても、ぐっと来ないというか、あまり上手じゃなさそうな気がします。少なくとも美人画で有名な歌麿のようには行かないでしょう。名女形で有名であった瀬川菊之丞も、写楽の手にかかると、お世辞にも「美しい」とは言いにくい...」
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世界的にも評価された東洲斎写楽、「お笑い絵」にはちょっと縁のない、こんな一面もあったんだ。





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# by hanaha09 | 2017-12-18 11:52 | 田舎暮らし | Comments(0)

江戸時代のままごと

ご飯のことを、幼いころに「まんま」と呼んだ。

ままごと遊びは飯を食べるという意味の、「飯事(ままごと)」からきたもの。

炊事や食事のごっこ遊びで将来の予行演習をするもんだ。

しかし、幼いころにあれほどままごと遊びに熱中したのに...

大人になったら冷凍食品をチン、カップラーメンにお湯をかけてお終い、なんてことに。

江戸時代のままごと川柳を、

「まま事の亭主も客もぐわんぜなし」

がんぜないとは、幼稚、あどけないという意味だそうだ。

大人顔負けだったのか。

「まま事のかかさんになるおちゃっぴい」

早熟な女の子はいち早くお母さん役に。

「まま事の世帯崩しも泣き別れ」

やはり子供のままごと世界もいろいろ難しい。

「まま事のけんくわ家財を没収され」

最後は喧嘩でおもちゃも取り合いに。

ままごとどころか将来の生き方そのままだ、そして...

「まま事は蜆貝(しじみかい)にとうがらし」

当時の子供は下着も付けてない、大きくなれば「蜆貝」は「大赤貝」に「とうがらし」は「大魔羅」に。

江戸時代の遊び、なかなか意味深だ?

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# by hanaha09 | 2017-12-17 13:57 | 田舎暮らし | Comments(0)

神戸タワー

ニュースを見ていると懐かしい写真が載っていた。
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神戸は湊川公園に大正13年に建てられたという「神戸タワー」。
社会人第一歩を歩んだのが神戸、この湊川公園から北へ伸びていた神戸電鉄(当時は神有と呼んでいた)で20分程山に登った「鈴蘭台」というところに住んだ。
ちょうど、この下あたりの交差点の市バス停留所からバスに乗って会社まで通っていた。
このタワーはもうなかった、公園として整備されていた。
実はこのタワー、「東洋一の高さ三百尺(約91m)」東京・浅草の凌雲閣、大阪・新世界の通天閣(初代)とともに「日本三大望楼」と称されていたそうだ。
ある神戸の郷土史家が昭和43年の解体時の新聞報道を見つけた、そこには「高さ57メートル云々」と記されていたそうだ。
「(57メートルが)市電と写った写真からも台座を含めた実高なのは明白」「『海抜三百尺』は大幅な上げ底だった」ということになったそうだ。
まだまだある、通天閣も実は54メートルしかなかった。
東洋一はともかく、日本一の高さであった可能性は残るのだ。
というのが今日のニュース。
ということで、会社の帰りはこのあたりを通過することになる。
この交差点付近にはパチンコ屋が何軒もあった。
ほぼ毎日がパチンコ屋通い、いつぞかは終電を過ぎるまで頑張ったが一文無しになった。
タクシー代もないので、真っ暗な線路を鈴蘭台まで歩いて帰ったこともある。
途中に源平合戦で有名な鵯越えもある線路だ。
湊川公園を北に行くと商店街がある、ここには劇場、ピンク映画館が立ち並ぶ一大繁華街。
昔の田岡組長の地元だ。
そして、南側の新開地、その東側にはかの有名な福原遊郭跡。
狭い通りのなんともなまめかしいネオンは流行りの「浮世風呂」、ここには行ったことは無い。
当時でも珍しかった剣劇を見せるところもあった。
先輩に進められて行ってみた、「かじりつき」のようなテーブルでビールを飲みながら剣劇を見た。
田舎者にはすごく新鮮な感じでなぜか頭に残っている。
会社はその当時には珍しく土日が休みだった。
市バスの定期券を買うより回数券を買う方が安くついた。
この回数券、バス停の前でおばさんがかばんを持って一枚一枚乗客に売っていた。
11枚で10枚分の金額、その一枚分がおばさんの稼ぎだ。
年賀状の束の中から、この回数券が出てきた。
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18枚つづりで500円とある、普通の乗れば1回30円だったのだろうか?
もう半世紀前の出来事だ。




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# by hanaha09 | 2017-12-16 09:37 | 田舎暮らし | Comments(0)

草軽電鉄吾妻川橋台が見えた

大正15年に新軽井沢ー草津温泉間が全線開通、高原列車観光に、草津温泉湯治に、またまた嬬恋各地の硫黄鉱山の鉱石運搬に、活躍を続けていた草軽電鉄だったのだが...
戦後の道路網の整備に伴いその役目がだんだん薄くなっていってしまった。
何度も廃線の危機が迫っていた。
その大きな要因となったのが昭和34年の第7号台風であった。
吾妻川の洪水により、橋梁が流失してしまった。
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もともとは立派な橋梁だった。
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吾妻川左岸、上州三原駅側に崩れた橋脚がまだ川の中に沈んでいる、と言われていた。
冬場になって水量が減ってきてたんであろう、今日はよく見えた。
これが崩れた橋脚に間違いはなさそうだ。
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この橋梁は二度と再建はされないまま、昭和37年1月の廃線を迎えた。
草軽電鉄、怨念の橋脚だ。








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# by hanaha09 | 2017-12-15 22:35 | 田舎暮らし | Comments(0)

文鎮化

文鎮が二つにもなった。
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実はもう一つあった。
深圳まで送り返すと、新品が送られてきた、今ある文鎮はその一つだ。
いずれも10.1インチのデュアルOSタブレットだ。
androidとwindous10と両方が使える中華タブレットだ。
しかも画面の解像度が2k並みということで非常にきれい。
その上何よりも値段が安い。
もっぱら布団の中での映画鑑賞用だった。
文鎮とは、あの小学校の時の書道の際に使った重石のことだ。
OSが動かなくなった、もうこのタブレット重しにしかならない。
この状態を「文鎮化する」という。
誰が名付けたか?誠に当を得た表現だ。
と、いえども布団の中が寂しくなったので...
又夜中に深圳あてに注文を出してしまった。
今回は流行りの指紋認証タブレットにした、また文鎮かな。






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# by hanaha09 | 2017-12-14 17:01 | 田舎暮らし | Comments(0)

上州民話

今朝は寒かった、-10℃まで気温が下がった。
こんな時は家の中でまったり。
上州民話でも一つ...

「昔々、ある山奥に親子三人で暮らす一軒家があったんだと。

ある日、おっとうが油を買いに村へ降りてゆく途中、子供らに棒でたたかれている一匹のキツネにであったんだそうな。おっとうは、かわいそうにと子供らにいくらかの銭を渡して狐を逃がしてやったんだと。

その帰り道、急にあたりが暗くなり、華やかな嫁入り行列が現れ、おっとうは誘われるがまま結婚式に出席し、そのまま夜は花嫁の家に泊まる事になったんだと。

夜、花嫁は、「決してこの長持ちの箱の中を見ないで下さい」と念を押した。が、どうしても箱が気になったおっとうがこっそり箱を開けてみると中には鏡がありキツネの顔が写っていたんだそうな。

翌朝目を覚ますと自分の顔を見てびっくり、キツネの顔になってしまってた。おっとうはこれでは家に帰れないと、花嫁の家にしばらく置いてもらう事にした。花嫁はたいそう喜んで、毎日毎日たいそうなおもてなしをしてくれたんだと。

毎日を楽しく過ごし、三年が経った頃、おっとうは家に残したおっかあ、こどもが心配になり、泣いて引きとめる花嫁を後に家に帰ることにした。

キツネの顔になった顔を隠して家に帰ったおっとうは、キツネではなく人間の顔。三年と思っていた月日も実はたったの三日。

助けたキツネが花嫁に化け、おっとうに恩返をしたっていうお話だんべ。」

今朝はキツネもやってきた。

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# by hanaha09 | 2017-12-13 23:45 | 田舎暮らし | Comments(0)

時の鐘

時計を持ち歩かなくなってもう数年たつ。
家にいる時には、天気が良ければ日時計。
ウッドデッキの柵の影が90度の位置にあれば正午だ。
それに村の防災無線に「雪山賛歌」が流れて来る。車で外出してるときには車に時刻が出てくる。
このあたりの道路には信号がほとんどない、目的地までにたどり着く所要時間は変わりがない。
よって、時計なんてものはほとんど必要が無いのである。
江戸の時代はちょっと複雑だった。
不定時法と言うのが使われていた。
不定時法とは、一日を夜明けと日暮れを基準にして昼と夜に分けてそれぞれ6等分した。
その長さを一刻(いっとき)と呼んだ。
一日のうちでも昼と夜の一刻の長さは異なり、しかも季節によっても変わるため、常に一刻の長さが変化した複雑な時刻制度だった。
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江戸町民たちはどうしてその時刻を知ったか?「時の鐘」システムが江戸の町には整っていた。
当初は幕府管轄の下、その後は町方の手により、江戸城を囲む9か所に「時の鐘」が設置された。
①本石町(現在の日本橋小伝馬町)②上野寛永寺③市ヶ谷八幡④赤坂田町成瀬寺⑤芝増上寺⑥目白不動尊⑦浅草寺⑧本所横堀⑨四谷天龍寺で、この順番で前の鐘の音を聞いて順序よく鐘を鳴らしていった。
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本石町では和時計があり、これで鐘を突く時刻が決められた。
時報には「捨て鐘」と呼ばれる突き方があり、時刻を告げる時打ちの鐘を突く前に、先ず注意をひくために三度撞き鳴らしてた。
これは、一つ前の順番のお寺の「捨て鐘」を聞いたら、遅れることなく次のお寺で鐘が突けるようにするための知恵だった。
その後に、時の数だけ鐘が突き鳴らされた。
「捨て鐘」は最初に一つ、1分半後に第二の鐘、まもなく第三の鐘を突く。
1分半後に時の数を突く、その間隔は約15秒で、段々間隔は短くする、と決められていた。
一日12回の鐘の音で、江戸町民たちは規則正しい生活を行っていたのだった。
その代わり、この鐘を利用できる町民たちからは一月ごとに一文銭を徴収していたそうだ。
この時報システムは各地に伝わり、この時代としては画期的なものであったと言われている。
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日本の鉄道運行の時間がぴったりなのは江戸時代からの伝統文化なのかもわからない。

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# by hanaha09 | 2017-12-12 12:00 | 田舎暮らし