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あるちゅはいま日記

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かの高名な植物学者、牧野富太郎氏によると、
「花は、率直にいえば生殖器である。有名な蘭学者の宇田川榕庵(うだがわようあん)先生は、彼の著『植学啓源(けいげん)』に、「花は動物の陰処の如し、生産蕃息(はんそく)の資りて始まる所なり」と書いておられる。すなわち花は誠に美麗で、且かつ趣味に富んだ生殖器であって、動物の醜にくい生殖器とは雲泥の差があり、とても比べものにはならない。そして見たところなんの醜悪なところは一点もこれなく、まったく美点に充ち満ちている。まず花弁の色がわが眼を惹きつける、花香がわが鼻を撲つ。なお子細に注意すると、花の形でも萼でも、注意に値ぬものはほとんどない。」、と。
シラヒゲソウ。
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レンゲショウマ。
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フシグロセンノウ。
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なまめかしいのぅ。
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# by hanaha09 | 2017-08-26 10:12 | Comments(0)

安藤百福

1958年、日清食品が世界初の即席ラーメン「チキンラーメン」を発売したのが今日の日、8月25日なのだそうだ。
昔々、角を曲がった二軒先の魚屋の棚の上に置いて売ってたのがこの「チキンラーメン」。
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小学校の高学年と言えば食べ盛り。
親は共働きで夕食は夜遅く、帰校後に腹が減れば食べるのはこの「チキンラーメン」、袋を破ってどんぶりに入れ、沸かしたお湯を注ぎ、別の皿で蓋をする。
3分間じっと待つのだぞー。
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こんなに卵の白身だけが旨く固まることは無い。
チキンの味なんてするわけがない。
旨かった、というよりこんなに味のラーメンがあったのか...とても不思議な食べ物だった。
しかし、このラーメンのおかげでまともに育ったといっても大きな間違いはない。
この偉大なる日本食を発明したのが安藤百福氏。
戦後まもなく「食こそが、人間が生きていく上で、いちばん大切なものである」と確信し、おくさんの料理するてんぷらをヒントに「チキンラーメン」の開発に没頭した。
完成までには1年の期間を要したのだそうだ。
その後、この「チキンラーメン」はカップラーメンに進化し、世界中の食べ物に育っていった。
ユングフラウヨッホの山頂にあるレストランでは東南アジアの団体観光客が「辛ラーメン」のカップを手に「お湯、お湯」と叫ぶ光景がなんとも言えなかった。
そして、事業の成功を成し遂げた頃、時代は豊かな経済のもとに食も満たされる一方、青少年たちの心はすさみ始め、大きな社会問題ともなっていた。
このことに、胸を痛めた安藤百福は、「食とスポーツは健康を支える両輪である」子供たちの心身の健全な育成のためには、スポーツによって溢れるエネルギーを発散させるべきであると考えた。
「チキンラーメン」製造販売の日清食品が創業25周年を迎えた年に、私財を提供して「安藤スポーツ・食文化振興財団」を設立した。
この活動の一つが安藤百福の生誕百年記念事業、自然体験活動の指導者を育てる日本初の専門施設として開設された「安藤百福記念 自然体験活動指導者養成センター」だ。
長野県小諸市の雄大な浅間連峰を望む地にあるこのセンター、年に数回利用させてもらう施設だ。
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# by hanaha09 | 2017-08-25 23:10 | 田舎暮らし | Comments(0)

瀧廉太郎

才能あふれる天才だ。
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15歳の頃、最年少で東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に合格し入学。
学生時代に作曲した今や日本人誰もが歌う『荒城の月』がコンクールで受賞。
明治34年(1901)、瀧廉太郎は、ドイツのライプツィヒ王立音楽院(メンデルスゾーン設立)に留学するのだが、今も歌われる多くの名曲がドイツへ旅立つ直前の1年~2年間に生まれたものばかりなのだそうだ。
そして、留学先で発病した廃結核が悪化、帰国後療養で過ごした父の故郷である大分市、彼の自宅で亡くなった。
満23歳であった。
春高楼の~「荒城の月」、竹田の岡城をイメージして作曲されたものだそうだ、ベルギーでは賛美歌になっているのだそうだ。
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中学生唱歌の懸賞募集で「箱根八里」と共に入賞したものだ。
春のうららーの~「花」、組曲「四季」の第一曲目にあたる二部合唱曲、廉太郎21歳の作。
「お正月」、「鳩ポッポ」などの幼稚園唱歌。
日本人による西洋音楽、日本人の心を真にとらえた天才音楽家に違いない。
人生は短し、音楽は長し。
瀧廉太郎の遺作はピアノ曲「憾(うらみ)」なのだそうだ。
8月24日は瀧廉太郎の生誕日だ。
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# by hanaha09 | 2017-08-24 15:38 | 田舎暮らし | Comments(0)

インバウンド

この夏は海外からの観光客で日本はいっぱいだそうだ。
この嬬恋村にもお隣の国の観光客が良く目につく。
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先日は鎌原観音堂までやってきてた、大声でしゃべりながら漬物を食べてた。
これらの方々を最近の言葉では「インバウンド」と呼ぶそうだ。
あるニュース、ケニアのマサイ族にも「インバウンド」って言葉が重要ワードになってきたそうだ。
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マサイの村を訪れる「インバウンド」のベスト5が発表されたそうだ。
1位 中国人
2位 日本人(1位と2位の数の間には越えられない壁があるそうだ。)
3位 アメリカ人
4位 ドイツ人
5位 イタリア人
ほとんどの観光客が中国人、チャイナマネーが半端ではない、ということなのだそうだ。
マサイ族は語る。
「現実問題、中国人観光客のチャイナマネーに、かなり助けられたりしているワケなのよ。
もしもこの先、中国人観光客が激減したら……と考えると、ちょっと怖いものがあったりするんだよなぁ。
オレたちの村(ケニア・アンボセリ)に、どれだけ観光客が来るのかってことも教えておこうかな。月平均で10人……かな。
今月(8月)は少なくて、まだ6人しか来ていない。
マサイ族の収入もキビシー状況にあるんだなぁ。」
一度「アウトバウンド」で行ってみたくなってきたケニアのアンボセリ村だ。
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# by hanaha09 | 2017-08-23 18:34 | 田舎暮らし | Comments(0)

夏が終わった?

久しぶりの太陽が出てきた。
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ハルニレの木はもう黄葉。
広葉樹は用の済んだ葉を落としてしまう。
その前に葉に供給する水、栄養を断ってしまう。
葉にあり栄養製造工場でもある葉緑素がその使命を終え消えていくと緑の色素が無くなっていくのだ。
葉にもともとあったカロチノイドの黄色い色素が見えて来る、これが黄葉だ。
なぜ、広葉樹は葉を落としてしまうのか?
葉緑素を維持するには栄養が必要、葉緑素が作り出す栄養の量が維持に必要とする栄養をしたまわれば、葉緑素を維持する必要はないのだ。
そのまま放っておくと木が退化していくだけだ。
維持費ばかりかかる古い効率の悪い製造機械は捨て去るわけである。
そして、葉緑素が栄養を合成する際に生じる老廃物を葉と共に木から落としてしまうのだ。
おまけに冬に入ると太陽の高度は低く、栄養合成のエネルギーが不足する、ますます製造効率の悪い季節となる。
冬場の低い気温は水分を吸い上げる根の活動も弱める、冬は葉が無い方が良い。
広葉樹の葉は一般的に薄く出来ている、いわば夏場だけの使用に耐える安上がりの生産設備ともいえるのである。
なんとも合理的で、経済の原則にのっとった樹木のふるまいだ。
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# by hanaha09 | 2017-08-22 10:09 | 田舎暮らし | Comments(0)

いートラック

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ニュースを見てたらこんなのが出てた。
前々から頭の中に描いていたやつだ、先を越された。
「ドイツ企業シーメンスがドイツのアウトバーンの一部に、eハイウェイシステムを構築すると発表した。2018年の終わりまでに設置を完了させるという。」
「道路上に架線を設置し、ここからハイブリッドトラックに対して電力を供給する。
トラックはルーフに設置されたパンタグラフを伸ばして電力を受け取り、モーターで走行するという仕組み」なのだそうだ。
上り坂と平坦地に架線を引けばよい。
その間に搭載バッテリーに蓄電をすれば良い。
下り坂では架線は要らない、回生モーターでまた蓄電すれば良い。
バッテリーの蓄電量が無くなれば小馬力エンジンで発電すれば良い。
一緒に電気自動車にもパンタグラフを貸し出して、走行しながら蓄電すれば良い。
電気自動車はパリのような乗り捨てレンタルにすればよい。
レンタル自動車の回送移動は自動運転システムだ。
環境にも最適だ。
発電はソーラーパネルがあれば良い、水力発電があればいうことなし。
嬬恋村のような水力発電所もある、ソーラーパネルもある、地産地消の絶好のシステムだ。
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# by hanaha09 | 2017-08-21 10:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

女郎花が咲いた

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秋の七草のひとつであり、万葉集や源氏物語にも登場する。
「女郎花」と書いてオミナエシと読む。
黄色く小さな花がかわゆい。
昔々、女性は粟(あわ)ご飯を食べた。
カルシウム、鉄分、カリウムなどが豊富で、消化も良く、貧血気味の女性や赤ちゃんにもとてもいいのだそうだ。
で、「粟ごはん」のことを「女飯」といっていた。
この黄色の花が粟つぶのように黄色くつぶつぶしていることから「女飯」→「おみなめし」→「おみなえし」。
「オミナエシ」に「女郎花」という漢字が当てられたのは、とても古い時代、延喜年間(901~923年)の頃とされている。
当時の貴族の令嬢、令婦人の敬称が「女郎」だったことが由来なのだそうだ。
美人も圧倒する高貴な花なのだ。
「ひょろひょろと 猶(なお)露けしや 女郎花」  松尾芭蕉
こんな花を見て、江戸時代の女郎(遊女)屋を想像するのはスケベなオッサンだ。
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# by hanaha09 | 2017-08-20 09:29 | 田舎暮らし | Comments(0)

俳句の日

5・7・5から成る、世界最短の定型詩とも言われるのが俳句だ。
現在では英語圏を中心に、世界中で句作を行う人がどんどん増えているのだそうだ。
「1つの考えを短く纏める詩で、人の心を掴みやすく、創造的な世界を生み出せる詩の形」
きょうは8・19(は㋠・いく)、俳句の日なのだ。
何回も紹介しているのが俳聖と呼ばれた石田波郷が嬬恋村を詠んだ句、
  葛咲くや嬬恋村に字いくつ  石田波郷
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これも前に紹介した北信濃の山村に構えた小林一茶は二万に及ぶ句を残した、
  門の木も先つゝがなし夕涼  小林一茶
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嬬恋村大前にある句碑に刻まれた松尾芭蕉の詩、
  雲雀啼くなかの拍子や、きじの声 はせお翁
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そして、
  峻烈な生きざま背負う、秋の蝶  詠み人私
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# by hanaha09 | 2017-08-19 12:57 | 田舎暮らし | Comments(0)

膃肭臍

膃肭臍、なんて読むんだろうね。
膃肭は「おつどつ」と読むらしい、意味は"肥えてやわらかい"ということらしい。
臍は「ほぞ」、男の一物のこと。
アシカ科の動物から採取した膃肭臍を生薬として用いた。
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つまり、『大和本草』(宝永五-1706年)には、「膃肭臍とは其陰茎なり。へそに連ねて用いる故に、"おっとせい"と云と時珍いへり。」
膃肭臍とは生薬の名前、これらを採取した動物がそのまま「オットセイ」と名付けられた。
この「オットセイ」、アシカ科の海生哺乳類。
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体長、雄は約二・五メートル、体は暗褐色を帯び、四肢は短く鰭状で、水中の動作は機敏、魚類を捕らえて食う。
「オットセイ」は一頭の♂が数十頭の♀を従えていて、つぎつぎに種つけをする。
まさに精力絶倫、この膃肭臍を人は精力増強剤、男女和合の秘薬として用いるようになった。
日本は、1911年に膃肭獣保護条約を締結し、「臘虎膃肭獣猟獲取締法(らっこ・おっとせいりょうかくとりしまりほう)」で捕獲や所持を規制した。
1957年には「北太平洋のおっとせいの保存に関する暫定条約」を(アメリカ、カナダ、ソ連、日本)締結し、保護の取り組みを行ってきた。
戦前戦後の東京では強精剤としての膃肭臍丸薬や練薬が売られていたが、ほとんどが偽物だったそうだ。
それでもよーく効いたのであろうか?
現代の膃肭臍は、あまりにも膃肭臍成分含有量が少なすぎて「何にも変化があらわれない」という話が多いのだそうだ。
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# by hanaha09 | 2017-08-18 15:47 | 田舎暮らし | Comments(0)

「東印度」独立運動

「帝国ハ東『インド』民族永遠ノ福祉ヲ確保スル為メ、将来其ノ独立ヲ認メントスルモノナルコトヲ茲ニ声明スルモノデアリマス」
1944年9月7日、小磯國昭首相によって「東印度」に対する「将来の独立許容」をうたう小磯声明が発表された。
それに先立つ1942年にはオランダの植民地であった「東印度」(今のインドネシア)に今村中将率いる第16軍が侵攻した。
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南方の資源確保、特に石油の入手のために最重要地域として位置づけられていたのだ。
侵攻の際、今村中将は、オランダによって収監されていたスカルノやハッタ、シャフリルら現地の民族運動指導者を解放した。
彼らの祖国独立を目指す情熱に感銘を受けた今村中将は、次のように言って、彼らを支援した。
「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ、、、」、と。
しかし、小磯表明による独立がなされる直前に日本は敗戦を迎えた。
スカルノ、ハッタは日本敗戦の二日後インドネシアの独立を宣言した、それが今日8月17日のインドネシア独立記念日だ。
しかし、敗戦後の再植民地化を狙ったオランダはこれを無視、イギリス軍と共にインドネシアに再度上陸、侵攻した。
イギリス・オランダ軍に対抗して独立を目指す彼らには武器が必要だった。
秘かに、武装解除された日本軍の武器が彼ら独立勢力にわたっていった、彼らに共感を得た日本軍の一部の画策であった。
そして、およそ1,000~2,000人もの残留日本兵が独立運動の義勇兵として参加した。
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長いオランダとの戦いの果て、1949年の12月の国連のオランダへの撤兵勧告によってインドネシアは真の独立を勝ち取った。
独立運動の義勇兵として参加した残留日本兵、およそ400人がこの闘争で戦死したと言われている。
インドネシアを救おうとした日本軍人たちだった。
「東京裁判」で裁判官として「日本の侵略戦争」を裁いたイギリス・オランダ人たちは、インドネシア独立戦争で犠牲となった婦女子を含めた80万人、破壊しつくしたスラバヤなどの各都市の損害に対して何等の謝罪、賠償も行っていないのである。
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# by hanaha09 | 2017-08-17 14:28 | 田舎暮らし | Comments(0)