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あるちゅはいま日記

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願人坊主(がんにんぼうず)

江戸の町には大勢の人たちがやってきた。
人が集まればあちこちでいろんな需要がでてくるものだ。
かくして、いろんな珍商売が自然的に発生することとなる。
願人坊主、江戸の時代になって現れた日本の大道芸人のことだ。
もともと、神仏に対する参詣・祈願あるいは修行・水垢離を客の代理として行うことに始まったと言われている。
そのうち、江戸市中を徘徊して軽口、謎かけ、住吉踊り、あほだら経など、芸をすることにより米銭を乞う乞食坊主であった。
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「天狗のごり生(しょう)」と呼ばれた願人坊主の商売だ。
「ごり生(御利生)」とは神仏への祈念などに応じて、ご利益を与えること。
願人坊主は手製の鳥居を描いた箱を持ち歩き、鳥居から飛び出した狐の首を伸ばしたり縮めたり...
これで銭を乞うという珍商売だ。
その口上は「葛西金町半田の稲荷!、ごり生、ごり生大きなごり生!、すてきなごり生!!」。
細工の鳥居をくぐり伸び縮みする見事な仕掛けと大声で発せられるリズミカルな口上に、集まった子供たちはキャッキャッとそれはもう大喜び。
子供が銭を払ったのか、大人が出したのかはよくわからないが、日々の稼ぎになったに違いない。
実はこの「ごり生」、男根の異名。
口上、仕掛けの意味がお分かりになろう。
現代ではPTAのお母さんがひっくり返りそうになるちん商売だった。




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by hanaha09 | 2017-11-30 17:22 | 田舎暮らし

浮世絵考

日本の浮世絵がヨーロッパの絵画界の変革に与えた影響は多大だった、いわゆるジャポニズムブームを呼び込んだ。
日本の浮世絵、特に春画が与えたジャパンショックも大きかった。
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どうも、日本からヨーロッパに当時輸出されていた陶器類の包み紙に春画が用いられた、というのはちょっと眉唾のようだ。
何しろ普通の浮世絵より春画の値段ははるかに高かった。
つまり、当時の版画界で最高度の技術が施されたのが春画だった。
浮世絵師はこぞって春画に没頭したのはその対価が大きかったからに違いない。
当時、一般的な浮世絵は数百円程度、ところが春画は1万円近くしたものもあったとか。
とにかく豪華で高価な春画を売るには、有名絵師の絵でなければお客はつかず、それらの凝りに凝った彫摺(ちょうしゅう)は、一流の職人でないと対応できない。
逆に言えば、絵師も彫師も摺師も“春画を依頼されてこそ一流”とみなされたわけだ。
錦絵は現代の木版画職人によって再現できても、爛熟期の春画の再現は不可能と言われている。
一ミリの間に毛を四から五本を彫り、目詰まりさせずに摺る技術。
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あの不規則に曲がりくねったアンダーヘアでそれを実現させるのだから、当時の印刷物の頂点にあったのがこの春画。
グラデーションの美しさ、高価な絵具を惜しみなく使った贅沢さ、よく見ると浮き上がって見えるエンボス加工等、重要文化財級の匠の技なのだ。
さて、かのピカソもなかなかの好きもの、友達が春画を買って持ってきたなんて記述も残ってる。
そして、葛飾北斎の「海女と蛸」の模写に取り組んだ。
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ピカソは春画をとおして、「顔がこっちを向いているから足はこっちを向いちゃいけない、ということはないんだ!」と思ったはず。
ピカソのキュビズム(いろんな角度から見た物の形をひとつの画面内に収める画法)は、春画がなければ生まれていなかったという。
まだまだある春画の効能。
大名までもが娘の嫁入り道具として持たせたり、「笑い絵」「勝ち絵」などとも呼ばれ、仲間内で見せ合って笑い楽しむものであったりした。
戦争の際の弾除けとして甲冑に仕込むものであったり、軍服の裏に縫い付けたり、長持ちに入れて虫除けにしたり、蔵に置いて火事避けにしたり……何かと役に立った。




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by hanaha09 | 2017-11-29 18:07 | 田舎暮らし | Comments(0)

昆虫食

国連の見通しによると、2050年には世界の人口が120億人近くになると予想されている。
地球の生物生産力(人間が生きる上で利用できる資源)と人間の必要量(「フットプリント」)を比較する研究がなされている。
この計算によれば、現在の消費率のままでは、世界が養える人口はわずか50億人。
つまり地球はすでに、約20億人の人口過多なのだ。
大きな問題は「食糧不足」。
国連食糧農業機関が最も有効な「食料不足」対策の一手としてあげたのが「虫を食べること」つまり「昆虫食」だった。
昆虫は「タンパク質や脂肪、ビタミン、ミネラルなどが豊富で、健康的な食用資源」と高く評価しているのだ。
実は、昆虫食は日本でも最近までどこにでもあった食文化なのだ、今でもイナゴのつくだ煮やハチの子が信州地方では普通に売られている。
戦後の食糧難の時代にはイナゴ、バッタなどを食べていた。
うちの犬は散歩の途中、道路に落ちたセミの成虫を遠慮なく素早く食べてしまう。
私たちが食べられる昆虫の中には意外に美味なものも...
カミキリムシの幼虫は直火で焼くと皮はパリパリ、中身はトロリと甘く、バターの食感なのだそうだ。
味はマグロのトロに例えられるほど。
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成虫も食べる、なんと鯖のような味なんだとか。
食べ方にもしきたりがある、むしりとった取った翅をスプーン代わりにして身を掬い取るのだそうだ。
刺されると大変なことになるオオスズメバチ、前蛹段階は甘味と旨みが濃厚で鶏肉や豆腐に似た風味。
しゃぶしゃぶ風にさっとゆがいてポン酢で食べるが一般的とか。
犬も食べるセミ、美味しいのは羽化する前の幼虫なのだそうだ。
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肉厚で歯ごたえ満点、ナッツ味で燻製もお薦めだそうだ。
お蚕さんの卵、プチプチした食感は脅威もの。
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その絶品ぶりに、和の鉄人・道場六三郎さんも「トンブリ以上」と絶賛したとか。
少ない飼料で生育可能なことから宇宙などでの動物性食料としての研究もされているらしい。
昆虫料理が普通に食卓にのぼる時代もそう遠い話でもなさそうだ。



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by hanaha09 | 2017-11-28 18:30 | 田舎暮らし | Comments(0)

中世の城

戦国時代に「一所懸命」という言葉があった。
中世を通した武士の行動理念を表しているのだそうだ。
中世の武士は、平時は畑などの開墾に励み、戦時には刀を取って前線に赴く、現代でいうなら屯田兵。
そして、自分が新しく拓いた土地の名を苗字に戴き、氏姓の地として代々守り抜かねばらなかった。
彼らは領地の中心の眺望の良いところに館を築き、戦時用の城砦を築き領土経営に携わった。
群雄割拠の領主にとっては、常に、「お前の田畑は俺のもの、お前の蔵も俺のもの」というわけにもいかず、在地領主や国人、土豪などを自陣に取り込み、マフィアを形成していった。
結果として連絡用の城、国境や街道を見張るための城、各方面に軍勢を展開するための城など、多くの細分化された城砦群がネットワークとなって張り巡らされるようになった。
こんな一つの城が浅間山を背に嬬恋村のがけっぷちにあった鎌原城だ。
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応永4年(1397)に海野一族の鎌原氏によって築かれたのが始まりとされている。
そして、元和元年(1615)徳川幕府の一国一城令により破却になった。
戦国時代の攻防も含め二百数十年の間、鎌原氏の居城となった。
南北400m、幅150mの城域には本丸、二の丸、三の丸、東曲輪、笹曲輪の五閣、本丸と二の丸、二の丸と三の丸の間には堀切がもうけられていた。
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北側、東側、西側は平原火砕流の台地で急峻な崖で出来ている、唯一南側からの敵の侵入を防ぐための堀切は特に需要だったと思われる。
また、ニホンカモシカがやってきた、元の城主のような風貌だ。
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by hanaha09 | 2017-11-27 22:26 | 田舎暮らし | Comments(0)

群馬にうまいもんは無い

人は云うのだそうだ、 「群馬には観光地が無い」と。
これには明確な答えがあった。
「珍宝館へ行ってこい!」。
又人は云う。
「群馬にうまいもんは無い」と。
これにはいろんな反応があった。
群馬は水、おいしい湧水があちこちに、焼きまんじゅうや味噌パンもある。
「峠の釜めし」もあるし、水沢うどんもある...
どれももう一つインパクトが無いなぁ?
と思ってたら、大々的に出ました大広告。
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「特定の料理を味わいにわざわざ遠征なんて、ほとんど経験なし。そんな価値観を覆すほど強烈に食べてみたい料理と出会いました。

それが、「群馬県のすき焼き」」。

まずは上州和牛、上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)に囲まれた素晴らしい環境で育てられた、和牛肉質等級「上」の牛肉だ。

海外でも好評だとの事だが、それだけではない。

「すき焼き」の引き立て役一番の霜のあたった「下仁田ネギ」、甘くトロットした食感は相性が抜群。

次が、言わずと知れた「こんにゃく」、国内生産量の9割が群馬県産。

生芋から作られるこんにゃくいもは、市販のものとは比べられないほどのコシや歯切れがあり、独特の風味。

そして、原木シイタケ、生産量は全国5位。

身は厚く、味は濃厚、しいたけ本来の味と香りが楽しめる。

県の中部から東部の、平坦地を中心に広く栽培が行われている「春菊」、独特の風味やほのかな苦味は、まさに大人の味。

お肉も野菜も、すべての食材が一度に楽しめる、群馬の「すき焼き」だ。

「ググっとぐんま観光宣伝推進協議会」の提供写真でした。






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by hanaha09 | 2017-11-26 18:06 | 田舎暮らし | Comments(0)

風船おじさん

「風船おじさん」って覚えてるだろうか?
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25年も前の話だ、音楽家であり冒険家でもあった一人の中年の男性が風船を背にアメリカ大陸に向かって飛び立ったんだが...
3日目にして連絡が途切れ、いまだかって行方不明のままだ。
1992年11月23日の午後、琵琶湖河畔から「いってきます」と言ってアメリカのネバダ州を目指して飛び立った。
もちろん飛行許可も出ぬまま、集まったテレビ局、関係者の制止を振り切ったままの暴挙だった。
翌朝までは持参の携帯電話で連絡があったが、以降携帯電話はつながらず、よく24日深夜SOS信号を受信。
25日には海上保安庁の捜索機が宮城県金華山沖の東約800kmの海上、高度2,500m、70km/hほどの速度で北東に飛行中の「おじさん」を発見。
その後3時間ほど追跡をしたがSOS信号が消え、高度も上昇、飛行継続の意思と判断で追跡を中止した、これが最後...
「風船おじさん」の装備を見てみよう。
風船は、直径6mの塩化ビニール製の風船を4個、直径3mの補助風船を若干個装備、これにヘリウムガスを充填。
アメリカネバダ州までの距離はおよそ7,700km、高度10,000mのジェット気流(速度は200km/h近い速度になる)に乗って40時間の飛行時間を計画していたそうだ。
高度10,000mの気圧はおよそ0.34気圧だ。
1気圧の地上で充填したヘリウムガスは10,000m上空では単純な計算で2.5倍近くに膨らむことになる。
まず、塩化ビニールの低温脆化温度はおよそ-20℃、ジェット気流の吹く高度10,000m以上の気温は理論上-35℃だ。
もはや弾性は無く少しの力でバラバラに砕けることになる。
高度10,000mでは酸素吸入による呼吸が必要だ、ほぼ6l/minほどの吸入量が必要だ。
酸素ボンベを8本積んだ(小型ボンベとすると1本1.5m3で計12m3)、この量で計算すると33時間ほどだ、とても苦しいことになる。
そして、連絡手段には携帯電話、無線免許がないので無線機は無かった。
1週間分の食料はスナック菓子。
予定の揚力は800kg、直径6mの風船6個に補助風船26個の予定だった。
揚力不足か、上昇時にはおもりの焼酎瓶を切って落としてやっとこさ浮上した。
無謀すぎる計画も彼には無謀とはちっとも思わなかったと思われる。
彼のゴンドラをくっつけた風船は「ファンタジー号」と名付けられていた。
まさに一攫千金の冒険家としての幻想曲オーケストラ指揮者であったに違いない。
その後、奥さんとその娘さんたちは、「音楽家には故郷は無い」と世界の空に羽ばたくクラッシック音楽グループとして活躍した。
その奥さんは本年病魔で亡くなられたそうだ。



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by hanaha09 | 2017-11-24 20:37 | 田舎暮らし

新嘗祭

本日は日本全国お休みの日、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」と決められた勤労感謝の日だ。
毎日が日曜日になる以前にはこの日が一番好きだった。
大手を振って、酒を飲んでぐうたら出来る日だった。
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しかし、これは戦後のこと。
それ以前には天皇が日本国民を代表し五穀豊穣、そして命の糧を授けて頂いたことに対する神への感謝を捧げるための祭り、新嘗祭であった。

その起源は遡り、天照大御神が行ったのが初であると古事記にある。

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当時は日本国民のほとんどが農家、その年に収穫される新米・穀類が収穫できるかどうかは生死に関わることだった。

国民全員が秋の実りを神に感謝する、日本国にとって非常に大切な一日なのだ。

しかし乱世の室町時代に新嘗祭は中断されたものの、江戸時代には復活、現世まで歴代天皇のみで受け継がれてきた。

一子相伝の秘儀、どのような作法をもって、どのように執り行われるのかを知るのは、天皇の他に誰一人としていない。

「新嘗祭が終わるまでは新米を食べるべきではない」という方もおられる。

いろんな考え方の方も居ようが、毎年の収穫に対して自然の力、そして自らの努力に感謝するという日であれば良い。




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by hanaha09 | 2017-11-23 11:47 | 田舎暮らし | Comments(0)

岩松院と福島正則

まだひつこく小布施の岩松院。
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織田信長が敗れた本能寺の変の後、天正11年(1583年4月賤ヶ岳付近で羽柴秀吉柴田勝家の戦いが起きた。
この戦に勝利した豊臣秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩となった。
そしてこの戦で世に喧伝されたのが、秀吉の家臣である7人の若手の武将である「賤ヶ岳の七本槍」といった人々だった。
その一人に福島正則がいた。
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その功により福島正則は、伊予・今治10万石、後に尾張・清洲で24万石と大身の大名となった。
そして、関ヶ原の戦いがやってくる。
正則は徳川家康を総大将とする東軍につき、その勝利に一番の貢献をした福島正則は、論功行賞により安芸・広島と備後の鞆、49万8200石の大封を得た。
新たな領地では、検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収するなど、領民の負担を少なくする善政を行った。
また領内の寺社の保護にも務め、厳島神社の平家納経を修復した。
しかし、大阪冬の陣、大阪夏の陣ともに江戸留守居役を命じられ事実上軟禁される恰好になった。
幕府にとっては、豊臣恩顧であり、勇猛果敢な福島正則は危険かつ邪魔な存在となっていたのだ。
家康も亡くなってすぐの1619年、福島正則は幕府から、城の修復の件で武家諸法度違反に問われることになる。
台風による水害のために壊れた城の修復を行った際、幕府に届けを出さなかったというもの。
一応、「本丸以外の修復部分を破壊すること」ことで一件落着かと思えたが、正則は本丸の修復部分だけを破壊するにとどまった。
おまけに、人質として江戸に送るはずだった息子、忠勝の出発が遅れたことも重なり、時の将軍徳川秀忠により、安芸・広島・備後50万石を没収され減封・転封される事態となった。
紆余曲折の後、正則は越後国魚沼郡の2万5千石と信濃国高井郡の2万石の合わせて4万5千石に転封となった。
信濃国高井郡こそ今の小布施だった。
その後、越後2万5千石は家督を譲った息子、忠勝が逝去のため幕府に返上。
信濃国にやってきて5年、悲運を嘆きつつ64歳で亡くなった。
しかも、幕府側の検死役が到着する前に正則の遺体を火葬してしまい、幕府の咎により残りの領地信濃高井郡2万石も没収されてしまう事となる。
正則が自ら定めた菩提寺の岩松院に正則の霊廟が建立された。
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遺骨の埋葬された五輪の塔がこの霊廟内にあるそうだ。





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by hanaha09 | 2017-11-22 18:27 | 田舎暮らし | Comments(0)

岩松院と一茶

またまた小布施の岩松院。
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正面の本堂の裏に池がある。
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お寺の桜の花見時、この小さな池に大人の手のひらほどのヒキガエルがいづこともなく集まってくる。
雌が産卵するのを雄が手伝うのだが、雌が少ないために、奪い合いとなって合戦となる。
およそ5日間。昼夜の別なく、カエルが入れ代わり立ち代わり、くくみ声を挙げての戦いとなる。
小林一茶は文化13年(1816年)にこの池を訪れた。
カエルたちの合戦を見て、
「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」
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と詠んだ。
一茶は1763年、信州信濃町の農家の長男として生まれた。

3歳の時に生みの母を亡くし、8歳から継母に育てられるのだが、継母や異母弟に馴染めずに15歳で江戸へ奉公に出ることとなる。

江戸でも最貧の生活を強いられた。

俳諧師として知られたのちも、兄弟との間で遺産相続の長い争いがあった。

やっと妻をめとったのが信濃町へ帰った52歳の時。

3男1女を授かるも、子どもたちは皆幼くして亡くしてしまう、妻の菊も37歳の若さでこの世を去った。

一茶は晩年までは多くの門人に庇護されながら、子どもや動植物など、小さな生命への慈愛に満ちた2万句もの俳句を詠んだ。

病弱の長男千太郎への声援と共に、合戦に敗れた蛙たち、弱者をいとおしむ心が伝わってくる句だ。










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by hanaha09 | 2017-11-21 17:37 | 田舎暮らし | Comments(0)

平核無柿

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ひらたねかき、平=形が平たくて四角形、核=種が、無=ない、柿=柿だ。
信州三水で買ってきた。
干し柿にした、ちなみに青い籠の中は干しリンゴ。
この平核無柿、新潟県原産で、現在でも新津市古田地区に樹齢320年の原木が残っているのだそうだ。
種なし柿は、受粉しなくても実がなる。
受精しても途中で種(胚)の発育が停止する。
そういえば、種ではないが種のような平べったいのが入っていることがある。
気の毒な柿だ、子孫を残すことができないにもかかわらず一生懸命結実する。
平核無柿は渋柿だが、糖度は甘柿より高い。
甘がきの「富有柿」は種子形成力が強い、受粉することで実がつき、種子ができやすい。
と、思うと種の無い甘柿、富有柿が世界で初めて誕生したのだそうだ。
その名は「秋王」、「富有柿」に「太秋」の花粉を交配し、得られた不完全種子を胚培養することで育成したものだそうだ。
お値段の相場は1kgが10万円とか、公益社団法人農林水産・食品技術振興協会によれば、栽培は許諾契約を結んだ福岡県内生産者に限る、現在は市販されていない、とある。
気の毒な子無しの平核無柿、干し柿が最高においしい。
「和生菓子の甘さは干し柿をもって最上とする」、実に羊羹とほぼ同じ甘さになる。
和菓子の甘さの基準、最もおいしい甘さなのだ。
年末の干し柿完成が楽しみだ。















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by hanaha09 | 2017-11-20 21:03 | 田舎暮らし | Comments(0)