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あるちゅはいま日記

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デキ12型

草軽電鉄が多くの村人たちに愛される一つにこの電気機関車がある。
当時は「カブト虫」の愛称で親しまれていた「デキ12型」、ゴトンゴトン、キーキーという音をならしながら自転車ほどの速さで駆けて行った。
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鉱山用設備機械で有名な米ジェフリー社(Jeffrey Manufacturing Company)製のL型電気機関車。
建設機械の一種として製造されたもので、1920年(大正9年)製。
東京電燈(信越電力がという方が正解?)が発電所建設の際の工事用に使用していた車輌を、草軽電鉄が電化した際に買い取った(譲り受けた?)もの。
工事用として使われていた際はこんなだった。
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運転席の覆いと先・従輪は草軽入りする際に取り付けられたもののようだ。
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運転席の側窓から内部を移した写真、入口が無い。
どうやって運転室に入ったのだろうか?
この側窓を土足で乗り越えて、運転機器を足蹴にして乗り込んだようだ。
前向きには座れる余地はない、座席も見当たらない、横向きに体をまげて前を見ながら運転してたようだ。
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「カブト虫」の特徴をよく表わすのが、奇怪な形状のパンタグラフ。b0126549_18275666.gif
バネは使わずに錘をぶら下げて重力によって集電舟を上昇させる方式だ。
もともとはポール式のものを改造したらしい、改造前のポールの土台はすごい恰好のものがついている。
連結器の格好も特異なものだ。
最盛期には13両ほどが在籍していた。
事故でお釈迦になったのもあるらしい。
昭和37年の全線廃線までのおよそ40年間走り続けた「カブト虫」、改造された1両が新潟の栃尾電鉄へ譲られたものと軽井沢駅に残るデキ13を除いて行方は分からず。
鉄の塊になったのかもわからない...
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by hanaha09 | 2017-05-31 09:58 | 田舎暮らし | Comments(0)

草軽電鉄弾丸ツアー

朝の8時半から村のマイクロバスで出発。
まずは軽井沢駅前、デキ12、愛称カブト虫の現存車両の見学。
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横向きに座る運転席。
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続いて新軽井沢駅跡、喫茶店があるのみでホームの後も消え去っていた。
旧軽井沢駅跡を経て、三笠駅跡。
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国境平駅跡へ、駅跡のたたずまいはなんにも残っていない。
二度上峠スイッチバック跡へ向かう線路跡を見学の後は北軽井沢駅へ。
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駅の中には最後の駅長さんの写真(旧嬬恋駅の駅長さんだったと思ってた方は実はこの方、私の勘違い)。
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旧嬬恋駅の傍らにある山田屋温泉のご主人だった人。
北軽井沢観光協会ではお茶のごちそうをいただき、北軽駅内にあった備品を見学。
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小宿川の橋台跡、小熊沢の橋台跡を現地見学の後は嬬恋駅跡、東三原スイッチバック跡、湯窪駅跡を通過して石津駅跡、ここはスイッチバック駅。
松はホームに植わってあったもの。
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その後今井川の石橋を経て仙之入の豪快な景色が見られる線路跡。
続いては厳洞沢の橋台跡、草木が茂って良く見えないがかなり大きな鉄橋が架かっていたようだ。
そして、到着したのは児童公園になってる草津温泉駅跡、ちょっと寂しくなるようなモニュメントがこれ。
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昔はこんな駅があった。
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本日の草軽電鉄線路跡弾丸ツアー、もうちょっとゆっくりと歩いてみたかった。
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by hanaha09 | 2017-05-30 18:56 | 田舎暮らし | Comments(0)

ミネコ

金沢からの帰りには能生マリーンドームで昼ご飯にした。
地魚刺身定食をたべた。
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なんの魚かわからなかったが大変新鮮でおいしかった。
銀葉藻(後で調べるとホンダワラのような海藻だそうだ)の入った味噌汁が潮の香りで旨かった。
ついでにイカの塩辛も自家製の雰囲気でなかなかおつなものだった。
30分ほどの食事時間にずーと窓の外で見守っていたのがこれ。
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食堂のおばさんに「なんていう鳥なの?」って聞くと。
おばさん、「 ミネコだよ」。
わたし、「ヘー名前がついてんだ???」。
おばさん、「右足が不自由でねぇ、水かきが無いんだよ」
どうりで簡単には飛び去っていかなかった。
ようやく飛び去って行ったあと、よくよく考えてみるとこの鳥は、「ウミネコ」だった。
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by hanaha09 | 2017-05-29 17:28 | 田舎暮らし | Comments(0)

ヤマシャクャク

ヤマシャクヤクが咲いた。
今年。
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去年の花はこれ。
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花の色がクリーム色から白に近い色に変わってしまった。
せっかくの希少種とも言われていたヤマシャクヤクだ。
このまま真白な普通のヤマシャクヤクに変わってしまうのだろうか?
来年まで待って見よう。
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by hanaha09 | 2017-05-28 11:39 | 田舎暮らし | Comments(0)

金沢は外国人だらけ

金沢市内観光はバスが便利だ。
1日フリー乗車券がある、500円だった。
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市内循環左回り、右回りバスの色が違うので間違うこともない。
10分ほども待てばやってくる、停留所がやってくると停留所の名前と近くの観光名所の案内が出て来る。
よそからやってきた人にはすごく優しい仕組みだ。
かくして、あちこちで出会うのは外国人観光客。
まずはひがし茶屋町で。
ここに映っている人全部外国の方。
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そして、町のあちこちで。
着物を着るのは日本人だけではない。
この人たち全部外国人。
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兼六園でも、このとおり。
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武家屋敷町見学には外国の方の後をついていくと見事にビンゴ。
なんだか気おくれがしてしまう、観光の町金沢でした。
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by hanaha09 | 2017-05-27 19:07 | 田舎暮らし | Comments(0)

加賀百万石

金沢には、16世紀半ばに本願寺が布教の拠点として「金沢御堂」が置かれた。
その後約400年前に前田利家公がこの地に城を定め、以来、加賀百万石の城下町として大発展。
藩政時代には江戸、大坂、京都に次ぐ規模の大都市であったのだそうだ。
柳滴る浅野川の川岸に、今でもキムスコ(木虫籠)と呼ばれる美しい出格子がある古い街並み。
その栄華を今に残すのがひがし茶屋街。
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その一角にある「ひかり蔵」。
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百年以上前から存在する土蔵を、左官と金箔、確かな伝統の技をもってこれまでにない存在として蘇らせたのだそうだ。
外壁は漆喰の壁に塗り直し、純金とプラチナの合金箔「純金プラチナ箔 永遠色」で仕上げた。
内壁は、本来の壁の土に沖縄の泥藍を合わせ、24Kの純金箔によるグラデーション。
金箔約20,000枚も使った。
そして、店内には黄金のカステーラ。
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なんともはや...さすが百万石の茶屋街であります。
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by hanaha09 | 2017-05-26 21:16 | Comments(0)

東尋坊

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「東尋坊」へやってきた。
その昔、僧兵を有して隆盛を極めていた「平泉寺」という寺の僧兵の一人に「東尋坊」というものが居た。
この僧、極悪非道の振舞いで、近郷の民百姓を大変苦しめていたんだって。
「あや姫」という娘を巡った恋のライバル「真柄覚念」というもう一人の僧兵は「東尋坊」に絶壁の上で酒や肴をすすめ、泥酔させ、隙を見て絶壁の海へ突き落としたんだと。
その後、49日間にわたって「東尋坊」の無念と怒りにより、海は大荒れ。
それからこの地を皆が「東尋坊」と呼んだんだと。
この東尋坊は世界に3箇所しかないといわれる「輝石安山岩の柱状節理」が見られるジオサイト。
「柱状節理」とは、主に火成岩に見られる現象で、露頭に見られる 規則性のある割れ目の事。
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一番左は、マグマが冷たい地面を流れて固まった直後の熱い溶岩流。
真ん中は、少し冷えた状態、柱状節理は冷却面である地面や空気 との接触面に直角(垂直方向)に入る。
一番右は、かなり冷却が進み,中の図でできた柱状節理に沿って空気が入り、柱状節理の面が冷却され、それと直 角(水平方向)に2次的な節理ができる。
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こんな勉強の話なんて全く面白くない。
悪さの僧兵「東尋坊」やらテレビドラマによく出て来る「東尋坊殺人事件」の話がよっぽどましだ。
東尋坊お土産商店街にはなんでゲーム機が置いてんだろうね。
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by hanaha09 | 2017-05-26 20:47 | 田舎暮らし | Comments(0)

任に当たれば他に譲らず

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永平寺へやってきた。
ナビに入れ間違った。
到着したお寺は高速道路の下のひっそりしたお寺さん、おかしいと思うのが遅すぎた。
そして、新たに到着したのが壮大な日本曹洞宗第一道場吉祥院永平寺。
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本日は大本山永平寺報恩献詠大会(全国から集まってきた善女たちの御詠歌の大会)で一般参拝者は通用門と傘松閣のみの参拝。
修行僧の生活風景、食事の準備風景などなどのビデオを見て、修行僧のお一人からの教えをいただきましたよ。
「任にあたれば他に譲らず」、一度任(仕事?と言い換えても良い)を賜ればだれにも負けずにその任をしっかりとやり遂げる、そのためには何でもよい一つのことを毎日続けることなのだ!毎日お経を唱えるのも良い、毎日拭き掃除をするのも良い、朝起きて毎日の幸せを祈るのも良い、先祖の位牌に向けて線香を立てるのも良い、親に感謝を心で思うのも良い....
このお寺での修業は厳しい、多くの若い修行僧が落ちこぼれる。
粗末な食事に脚気になって足が象のように膨れ上がる、寝小便をしてしまう、その恥辱にも耐えてゆかなければならない。
その結果、修行を終えたものには涙を流す相手ができる。
座禅を組んだ、眼を閉じるのではなく大きく開ける。
呼吸は鼻から、大きく吸った大気で大脳に刺激を与える。
食事、作業の間の時間はすべて座禅だ。
足の下に敷く座布団が必須アイテムだ。
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永平寺寂光園の鐘付き堂で願いを込めて鐘を突いた。
長く長く鐘の音は響き続いた。
冬は雪できわめて寒い、屋根瓦も傷むのだそうだ。
ほんのわずかだが1枚分の「瓦志納」を収めて寺を後にした。
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by hanaha09 | 2017-05-25 18:20 | 田舎暮らし | Comments(0)

船箪笥

はるばる越前までやってきた。
三国港の川沿いにある旧岸名家を訪れた。
もともと材木商を営んでいた旧家、この家はおよそ190年前に建てられたとか。
居間には鈍く輝く船箪笥が置かれていた。
写真を撮ったつもりだが、何にも映ってなかった。
で、記憶にあるよく似た写真を見つけてきた。
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この上にもう一つ小型のが乗っかっていた。
船箪笥とは船備え付けの金庫、北前船の必需品だ。
外側は堅く丈夫なケヤキ、中の収納部分や引き出しはは物をやさしく包む桐材で作る。
前面にびっしりと重厚な黒い鉄金具が取り付けられ、家紋が刻み込まれる。
隠し扉を付けたり、複数の形の違う鍵穴を開けたりし盗難防止のために内部は複雑で特殊なバネ仕掛けの錠前は、箪笥ごとに違う。
持ち主でなければ絶対に開けられない作りになっている。
船箪笥は、もともと隙間は前面にしかなく、そこには重い鉄金具がこれでもかというほど打ち付けられている。
北前船が嵐に会ったりした、危急の際にはこの船箪笥を海に投げ込む。
引き出しの桐材は水を吸って膨れ上がる、箪笥は密閉されて水が入ってこなくなる。
おまけに海に投げ出された時に前面に取り付けられた重い金具がおもりになって隙間が下になる。
ますます機密性が高くなる。
船箪笥の中の空気の浮力で海上を漂うことになる。
そのうち誰かに発見されると金具に刻み込まれた家紋で持ち主がわかる。
持ち主の下に届けられないとこの金庫は開くことが無い。
この堅牢な船箪笥が実際に回収された例が古文書に残っているらしい。
日本海を流れる対馬海流は日本海沿岸にたどり着く様に流れることが多い。
この海流が北前船をにぎわせた一つの理由でもある。
そして、この越前三国は出羽の酒田・佐渡の小木と共に船箪笥の発祥地の一つだ。
代々の岸名家はこの堅牢な船箪笥のために最高の材料を供給していた材木商だったのだろう。
年月が経つとともにうっすらと木埋(もくめ)が透けて見えてくる。
これが何ともいえず美しい。
塗り重ねた漆は、ただ美しいだけでない、火にも強い。
日本の職人技を担った旧岸名家、代表的な「神楽建て」のたたずまいだ。
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by hanaha09 | 2017-05-24 16:52 | 田舎暮らし | Comments(0)

越前三国港

三国はかって三国湊と呼ばれ、明治の中頃まで三国湊は北前船の寄港地だった。
川沿いには廻船問屋の土蔵が並び、商家や遊郭が軒を連ねていた、のだそうだ。
三国湊は九頭竜川沿岸で採れる米穀その他の物資の集散地であった。
そして、北前船の寄港地になり、多くの廻船業を営む巨商・豪商を輩出させた。
日本海沿岸での最大級の湊町となった、と言われる。
その港まで対象2年に開通したのが鉄道院三国線、三国港駅は三国駅の貨物取扱所、その後京福電鉄時代を経て今は福井市などが出資する第三セクター鉄道。
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ここが駅舎。
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駅舎の横にある展示施設と運転手の宿舎らしい、行かなかった残念。
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三国港駅に入ってくる直前にある「眼鏡橋」、開通当時のものらしい。
三国湊の代表的廻船問屋に森田家と内田家がある。
森田家は元和元年(1619)加賀藩主前田利光の藩米輸送に当たって特権を得て、幕末から明治にかけて更に大廻船問屋に発展した。
明治のはじめには森田家の北前船は三十艘を超えたのだそうだ。
明治に入って業種転換を果たしたのが「森田銀行」、その本店が今も残る。
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二階の回廊から見た銀行ん内部。
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近年まで後に合併した福井銀行三国支店として営業されていたのだそうだ。
もう一方の内田家は福井藩の御用達商人に任命され、三国湊の大廻船問屋に成長した。
その規模は、安政4年(1857)の福井藩廻米高4万4千俵中3万俵を扱ったことからもうかがえる。
窮民の救済にも大きな功績を成し遂げたそうだ。
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正面に見えるのが当時の内田本家、左には森田銀行の建物がほんの少し見える。
明治以降、大型の蒸気船の就航、鉄道の開通、また、通信の発達により、北前船による廻船業はその役目を閉じていった。
三国港の船舶出入りは減少、元録期の半年で2000艘の出入りは、夢のまた夢になり昔日の姿は消えていった。
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by hanaha09 | 2017-05-23 17:27 | 田舎暮らし | Comments(0)