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あるちゅはいま日記

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井戸の水汲み

江戸の町は埋め立て地、井戸水は塩水を含んでいて飲料水として適さなかった。
日本橋から神田方面には井の頭から流れる神田上水、山手の四谷、麹町、赤坂から下町の京橋方面は玉川から取水した玉川上水が引かれた。
自然の勾配による流下式でその後、街中では地下に木の管や樋が埋められ、町屋や長屋の敷地内に掘られた井戸に流し込まれた。
各家庭内には水瓶が置かれ、この中に汲み置きしておいた水を、ひしゃくを使って炊事や飲み水として使っていた。
戸外の井戸から水を汲み上げ、手桶に移し替えて運び込むのはかなりの重労働。
お金持ちの家では下男や下女がこの役目を担った、が、普通の庶民の家では女の仕事と決まっていたようだ。
確かにしんどいこの仕事も、助っ人があったら話は別。
「水汲みも相手次第」
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親父(おやじ)、精出して水汲んで居る所へ、隣の娘きたりて、「私にも汲んで下さりませ」といふ。「どれどれ、なんぼでも汲んで進ぜう」と、ここを先途(せんど)、汲んでやられるところへ、又隣のおふく(おかめ。醜い面相の女)、「これこれ、わしにも一杯、汲んで下され」と言いければ、親父いふやう、「まだ水があったかしらん」と、井戸の中をのぞいた。
絵本初音森より

今も一緒だ、美人は何かと得をする。
微妙な男女関係にあんまり進歩はなさそうだ。
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by hanaha09 | 2017-04-30 17:23 | 田舎暮らし | Comments(0)

飲兵衛に助兵衛

戦争の無い平和な時を過ごしていた江戸時代。
ちょっと風変わりな人たちにいろんな渾名をつけるのが得意だった。
「飲兵衛」、「助兵衛」に「ぐずろ兵衛」や「土左衛門」、「石部金吉(いしべきんきち)」「虚田万八(うそだまんぱち)」...江戸時代から使われている渾名(あだな)なのだ。
いわれを少しだけ探ってみよう。
「飲兵衛」、お酒の好きな大酒のみ、そのままだ。
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次に、実際に「助兵衛」という人物がいたとう説もあるのだが、女好きなおっさんを「好き兵衛」と呼んだ。
それがなまって「助兵衛」になったという説が有力だ。
「ぐずろ兵衛」もまさにそのままで、ぐずぐずしている人のことをそう呼んだ。
田舎者のことを「権兵衛(ごんべえ)」や「八兵衛」と呼んだ、これは実際に田舎でのおっさんの名前に多かった???
「土左衛門(どざえもん)」水にはまって死んだのに「土」とは何ぞや、というと...
享保年間に活躍した力士に「成瀬川土左衛門」という色白でかなり太った人物がいて、水死して水ぶくれした死体がその力士と似ていたのでそう呼ぶようになったといわているが...真偽のほどはよくわからない。
堅物で融通が利かない人のことを「石部金吉(いしべきんきち)」といいますが、石も金も硬い物であることから、それを2つ組み合わせたものだ。
「虚田万八(うそだまんぱち)」という渾名...本当のことは万に八つくらいしか言わないという意味らしい。
まあ、江戸時代の人は隅田川に船を浮かべ、徳利を傾けながらこんなこと考えていたんでしょう。
なんとも平和な一日が浮かんできます。
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by hanaha09 | 2017-04-29 17:53 | 田舎暮らし | Comments(0)

江戸のファミリーレストラン

江戸時代、享保年間(1716~1736)には、庶民も外食を楽しめるようになった。
もちろん、うどんやそばは、もっと早い時代からあった。
その30年後の宝暦年間(1751~1764)には、「煮売り屋」や「煮売り酒屋」が登場した。
おすいもの、煮さかな、さしみ、なべやき…その他に、たけのこめし、おでん、てんぷら、握りずし、うなぎの蒲焼きなどが庶民の外食屋、ファミリーレストランだ。
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しかし、挿絵を眺めてみても、家族揃って食事をしている絵が見当たらない。
圧倒的に男の客が多い。
男女のカップルもあれば、合コン風景のようなものもある。
子どもが描かれていない。
やはり、江戸は男が多く男社会だったからだ。
地方からの単身赴任の武士をはじめ、労働者も地方からやってくる。
単身者の人口が増えるということは、外食需要も増える。
瞬く間に一大産業となっていった。
そして、庶民の愛した二八蕎麦、
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寛政年間より幕末まで200年間十六文の値段は変わらなかった。
江戸の町民が宵越しの銭を持たずに飲み食いに遊行に楽しく過ごすことができた大きな理由だ。
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by hanaha09 | 2017-04-28 16:42 | 田舎暮らし | Comments(0)

銭緡(ぜにさし)

「江戸っ子の生まれそこない金を貯め」
江戸っ子の大半はその日暮らし、宵越しの金を持たないのが一つの美学。
江戸っ子まがいは金をため込もうとする、ないもの庶民の悔し紛れの川柳だ。
江戸庶民のお金は寛永通宝のような銭貨、一文が今の換算で20円か30円。
16枚あれば二八蕎麦を食べることができた。
映画の中でよく見るのが支払いの際に懐中から銭袋を取り出し、チャランと投げ出す。
銭形平次では銭を逃げる泥棒に投げつける、2枚から時には数枚投げつける。
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その時に腰につけているのが「銭緡(ぜにさし)」、紐に通した銭を外して投げつける。
これはまとまった額を流通させる際に便利な用にと工夫されたものだ。
たいていが96枚の一文銭をひとくくりにして100文の支払いに通用されたそうだ。
4 文の差は数える手数料であったともいわれる。
また、96という数は2、3、 4の各数で割り切ることができて便利なので普及し たのだそうだ。
この慣行を「九六銭」もしくは「九六百」と称されたそうだ。
なんとまあ、ファジーな日本人の知恵だ。
こんな習慣も江戸にはあった。
「包金銀」、
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これも映画の悪代官と越後屋のシーンでよく出て来る。
「お主も悪じゃのう」と言いながら懐から袖口にわたる包だ。
一定量の施封された金銀貨は通常そのまま授受された。
包み紙に上書きさ れた金座・銀座・両替商名が信用されたため、開封されて内容が吟味されることはほとんどなかったといわれてい る。
すぐに封を説いて中身を確かめたくなるのは「江戸っ子のうまれ損ない」に違いない。
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by hanaha09 | 2017-04-27 22:49 | 田舎暮らし | Comments(0)

鎌原米の里

鎌原村にも春がやってきた。
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この桜の下に江戸時代に作られたと思われる道しるべがある。
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「右すがを 左ぬまた」とある。
右へ行けば須賀尾峠を越え、大戸の関所を過ぎ、高崎に至る。
左へ行けば中之条を経て沼田に通じる。
昔の鎌原村は交通路の要所であった。
そして、この街道の分かれ道を少し北へ行くと現代の道しるべ。
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この道しるべの下に立派な看板ができた。
「鎌原米の里」、この数年、米・食味・分析国際コンクールでの金賞をはじめとして部門賞の受賞が続いている「鎌原米」の産地がここ、鎌原村だ。
昨年の第18回大会でも出品された5710の自慢のお米から見事総合部門で金賞をとったのも「鎌原米」。
分析計による第一次、第二次審査でより選られたお米が第三次審査では、食味鑑定士・バイヤー等の専門家を含めた 30 名の審査員により、官能審査が行われる。
なんと、タイガー魔法瓶社製の30台の炊飯器が使われるそうだ。
おいしいお米を作る秘密とは、まず良質な水が、とぎれる事なく、常にふんだんにある事だそうだ。
しかも軟水が適しているという。
次に標高が200mから400m位までが適しているそうだ。
そして、土質が赤土または粘土であること、田んぼは西向きが良いのだそうだ。
さて、この鎌原村は...
用水は浅間山の湧水、良質で豊富にある、が、浅間山の水系は少し硬水気味だそうだ。
水温は低い。
鎌原村の標高はおよそ900m、土質は粘土どころか火山灰が中心だ。
人の手で土質改良が加えられてやっとのことで水田となった。
田んぼは西向きどころか少し北に傾斜した平地だ。
常識で言わば、おいしいお米は出来っこない。
こんな中で金賞を得られたのはひとえに農家の方の努力の賜物に違いない。
いま、金賞の「鎌原米」を毎日いただいている。
あつあつの、つやつやの「ひとめぼれ」は噛むと甘い、それより冷ごはんになってもチンすることは無い、そのままでももちもちでおいしいのだ。
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by hanaha09 | 2017-04-26 19:37 | 田舎暮らし | Comments(0)

草軽電鉄跡はまだまだ続く

昼からちょっと時間ができたのでまたまた草軽電鉄跡巡り。
本日は小宿川を渡る芦生田側鉄橋跡に続く軽井沢側の鉄橋跡を訪ねた。
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小宿川に流れ込む支流に掛かる鉄橋跡のようだ。
芦生田側に続く線路跡は竹藪で進めない、ついには小宿川に路床が崩れてしまっている。
危険を感じて後戻り。
後戻りすれば、ここはスクラップ会社の処理場敷地だ。
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どうもここの右側の小宿川よりを線路は走ってたようだ。
防犯カメラに警報システムのついたスクラップ置き場を超えると狩宿・芦生田を結ぶ町道に出る、ちょうど常林寺の南側だ。
ここを超えるとまた草軽線路跡は続く。
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藪こきやら倒木超えが続いてもうだめかと思ってたら突如現れたバス停。
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このあたりは草軽電鉄の廃線後、バス専用道になってたってことだ。
今時、新緑や紅葉の小宿川沿いをボンネットバスが走れば、とっても人気の出そうな路線になるんだろうねぇ。
次回はこの先小代駅跡あたりまで探検に行こう。
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by hanaha09 | 2017-04-25 22:25 | 田舎暮らし | Comments(0)

花見に行った

嬬恋村にはまだ雪の跡。
畑の土は凍って鍬が入らない。
御代田まで花見に行った。
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御代田あたりはこのあたりと比べ、気温が7,8度違う、桜の花はもう満開。
た庶民たちの間にお花見文化が誕生したのが江戸時代。
欠かせないものと言えば、花見弁当。
身分の高い人は、料亭で作らせた豪華な料理を重箱に詰めて持って行った。
江戸の庶民の弁当はどんなだったのか?
やはり精一杯の贅沢をした。
貴重な砂糖をたっぷり使っただし巻卵と、高価だったかまぼこは欠かせないものだった。
どうしても用意出来ない場合は、卵の代わりに沢庵、かまぼこの代わりに大根の漬け物を入れて見栄を張った。
さてさて、我が家の花見弁当は...
イオンのパック入りの特売盛り合わせ寿司、それに豪華なブラジル産の鳥から揚げ。
爽健美茶付きの豪勢な?花見弁当だった。
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by hanaha09 | 2017-04-24 21:54 | 田舎暮らし | Comments(0)

女大学

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「女大学」とは、今の女子大学のことでは無い。
江戸時代の初等教育用の教科書である往来物(おうらいもの)の一種。
著者不明、貝原益軒によって綴られたと言われるが、確証はないようだ。
明治初年までに11版を重ね、活字本による「女大学」が公刊されると、女子用の修身本として、第二次大戦終了時まで使用された。
この女大学の内容は、女として夫と家を支え、慎みを忘れずに女の道を極めよという倫理観のもと、親および舅・姑に対する孝、洗濯、裁縫等の家事労働、結納・結婚・出産・子育て、三味線などのお稽古、身だしなみのことなど多岐に渡っている。
江戸時代と言えば男尊女卑と思われるが、それは家長制度にあったようだ。
つまり家長たる主人は一家の営みを統率する責任があったからだ。
しかし、上杉謙信の女性説に始まり今話題の大河ドラマも女城主のものだ。
縄文時代にさかのぼれば、当時の申酒を飲んだのは女性、神に一番近づいたのも女性、男は狩りと称して近在の村に種をばらまいていただけだ。
「女大学」のまとめには...
  女(をんな)は、唯(たゞ)、和(やわら)き、順(した)かひて、静(しづか)なるを淑(よ  し)とす
いつの時代も同じようで...
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by hanaha09 | 2017-04-23 21:11 | 田舎暮らし | Comments(0)

家康の東遷事業

嬬恋村の鳥居峠を源流とする吾妻川は上州を東へと流れ下り、渋川で利根川と合流する。
古来、利根川は太平洋ではなく、江戸湾(現在の東京湾)に注いでいた。
江戸時代第一代将軍であった徳川家康は、江戸湾に流れていた利根川の流れを銚子の太平洋に流そうとする、東遷事業に取り掛かった。
家康は東郡代に関東郡代に伊奈備前守忠次(ただつぐ)を任命、利根川東遷事業を行わせた。
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事業は文禄3年(1594年)から60年の歳月をかけて、忠次から忠政、忠治と受け継がれ、承応3年(1654年)に完了。
60年の歳月をかけた世紀の大事業でもあった。
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栗橋近傍と関宿近傍を中心に、赤堀川などの河川掘削や、拡幅、掘り下げや、締切りなどの工事が行われ、本流の海への出口は、隅田川から江戸川、そして銚子へと変えていった。
その目的は、利根川による洪水、ひいては江戸防災のための治水工事だったとされた。
ところが、近年、その通説が覆されてきた、治水は最大目的ではなく、いってみれば3番目の目的。
2番目の目的は新田開発であり、最大の目的が、実は、急成長の消費地、江戸を支える物流ルートとしての水路の確保だったとされる。
家康が入った当時の江戸は、城下に茅葺の民家が100戸ほどあるだけだった。
その後の江戸城下町建設は、すざまじい勢いで行われ人口は急増、江戸中期には60万~100万人の人口に膨れ上がった。
米はもちろん、食料などの生活物資の調達、輸送システムの確立がきわめて重要な案件であった。
幕府は酒田など日本海側及び福島などから江戸に米を輸送するために津軽海峡、三陸沖を通る東周り航路を開拓した。b0126549_20341668.jpg
この東廻り航路は、犬吠崎を回る航海で危険度が高かった。
また一気に房総半島先端を回って東京湾に入ることが難しく、下田まで行って風待ちをしてから改めて江戸に向かったという。
この東遷事業により、銚子経由で川を遡るルートが中心となった。
銚子から関宿に上って、江戸川で行徳に出て、小名木川経由で日本橋に着くまでの内川廻しだ。
距離にしておよそ200キロメートル、約50時間かかったらしい。
田沼意次の時代にも、印旛沼開拓事業に取り掛かった。
新田開発との触れ込みであったが、蝦夷地開発並びにロシアとの交易を狙った銚子方面から江戸への直通運河開拓が本当の狙いであったと言われている。
「すべての道はローマに通じる」同じように家康は「すべての水運は江戸に通じる!!」と叫んだんだ。
この、利根川、江戸川を天明3年の天明泥流が1400人もの名もなき庶民の命を押し流していった。
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by hanaha09 | 2017-04-22 20:36 | 田舎暮らし | Comments(0)

かもしかに出会った

久しぶりに温泉に行った。
ぽかぽか気持ち良い帰り道、ニホンカモシカが道端に居た。
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哺乳綱ウシ目(偶蹄目)ウシ科カモシカ属に分類される偶蹄類。
日本固有種だ。
昭和9年(1934年)にその学術的価値が認められ、当時の「史蹟名勝天然記念物保存法」により天然記念物の指定を受けた。
しかし、第2次世界大戦による社会の混乱のなか、良質な肉と皮を目的とした密猟がはびこった。
牛の仲間だけあってその味はとてつもなくおいしいのだそうだ、そして毛皮は猟師にとって勲章のようなものだ。
ということで、昭和20年代にはほとんどいなくなった。
このため、昭和30年(1955年)には「文化財保護法」により特別天然記念物に昇格指定された。
このカモシカ完全なるベジタリアン、植物の葉や、木の実、樹皮を食べる、この辺ではキャベツ畑を食い荒らす。
平均的な寿命は15年。
子供のカモシカは、1年間母カモシカと一緒に行動する。
しかし、生まれてきてから1年間で死亡する確率がなんと50パーセント。
雪や、崖で転落してしまうのだそうだ。
カモシカは人を襲わない、出会えば山に帰っていくのをそっと見守ってやるのが一番。 
また絶滅の危機に瀕することの無い様...うまく共存していかなければ。
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by hanaha09 | 2017-04-21 16:48 | 田舎暮らし | Comments(0)