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あるちゅはいま日記

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なめこ菌を植え付けた

嬬恋村に来た年に始めたなめこの原木栽培。
昨年からなめこが全く出てこなくなった、桜の原木を触ると樹皮の下側がボコボコ。
原木の栄養分をすべて吸い取ってしまったようだ。
前は桜の原木を1本2百円で買ってきたが、今回は昨年切り倒した白樺を原木にした。
たいていの広葉樹はOKとのことだったんで経費節減だ。
なめこの種菌はホームセンターで買ってきた。
専用ドリル刃でぎりぎり、穴を開けてその穴に種駒を打ち込んでおしまい、超簡単。
後は木陰に並べておいて待つだけだ。
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原木なめこは最高においしい、たいていが味噌汁に入れる。
スーパーでは傘の開いてないのを売ってるが、傘が開いたものの方が香りが良くてしゃきしゃき感がある。
信州の農産物直売所に行くとたいていが傘の開いたのを売っている。
湿気のある朝などは表面のぬるぬるが朝日に輝いている、これが良い。
このぬるぬる成分は「ルチン」と呼ばれるもの。
山芋、納豆、うなぎ、モズクにその他いろいろ、ぬるぬる成分は強精剤と信じられている。
日本人は外国と比べてぬるぬる食品を食べる頻度は格別に高い。
これが長寿国の秘密かもわからない。
そういえば、この「なめこ」、「ぬるぬる」、「るちん」なにかに通じるような響きばかりのようだ。
原木を運んでて腰が痛くなったが、今年はなめこで元気になるゾウ。
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by hanaha09 | 2016-02-29 12:58 | 田舎暮らし | Comments(0)

上杉謙信は女だった

戦国時代、吾妻路は武田、上杉2大勢力の攻防戦が繰り返されていた。
上越に拠点を置く上杉謙信、関東管領職は代々上杉家が担っていた。
吾妻路は重要な交通拠点となっていた。
一方甲州から信州に勢力を伸ばしていた武田信玄は関東にその手を伸ばしたかった。
鎌倉、小田原あたりは北条氏の警備厳しく易々と兵を通すことはむつかしかった。
目を付けたのがこの吾妻路だった。
この地方の領主たち鎌原氏、羽尾氏の領地争いに乗じて戦いの火ぶたが切って下ろされた。
今日でもよく見られる2大勢力による代理戦争みたいなものだった。
結局、頭脳明晰で、戦略を立てて戦うと負け知らずの上杉勢は武田・真田勢の謀略にこの吾妻路を敗退することとなった。
49歳という若さで突如亡くなった謙信は、生涯独身を通して子供もいなかった。
「生涯不犯(夫婦以外と交わってはならない)」を守り通したためとも言われている。
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肖像画は、珍しいヒゲ面、いかにも無骨で強そうに描かれているが、あまりにも強調しすぎているような感じだ。越後のごぜ唄には「・・・とらどしとらずきとらの日に、生まれたまいしまんとらさまは、城山さまのおんために、赤槍たててご出陣。男もおよばぬ大力無双」とある。
まんとらさまとは謙信の事、男も及ばぬ...まさに女をにおわせている。
まんとらさまとは政=まん、お政の方さま(おまんのかたさま)のこと。
資料には「越後景虎四十九歳歿、大虫という」とある、大虫とは「しゃくの虫、婦人の血の道を起こす」の事で、今で言えば更年期障害・婦人病に当たるらしい。
毎月10日前後になると、合戦中にもかかわらず、兵を引いて城に引き篭もっていたそうだ。
戦国時代では多くいたという女性城主も江戸時代になると認められなくなった。
女であったことがばれてしまうと、遡ってお家断絶になってしまう。
上杉謙信の言葉に「大将たる者は仁義礼智信の五を規とし、慈愛をもって衆人を憐れみ…」とある。
五規すなわち五常の徳、戦国武将とは思えない優しさだ。
謙信女性説、ほんとうのような気がしてきた。
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by hanaha09 | 2016-02-28 18:30 | 田舎暮らし | Comments(0)

関所抜け

江戸時代も後期になると、長期の太平の世の中で庶民の生活にもゆとりができた。
信仰を名目とする旅行が一大ブームとなった。
このブームの一翼を担ったのは、1802年(享和2年)に出版された十返舎一九の『東海道中膝栗毛』だ。
1820年(文政3年)には嬬恋村を通る大笹街道を巡った『上州草津温泉道中続膝栗毛十編』も発行された。
大笹街道は商用の利用が多かったが、江戸から善光寺に至る近道。
善光寺参りの善男善女も多く行き交った。
大笹宿の西端には大笹関所が設けられていた。
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「入り鉄砲の出女」を取り締まる関所の通過には、代官や名主などの発行する“関所手形”が必要であった。
手形を持たない者は抜け道を利用したのだが、それは「関所破り」、磔の刑。
大笹関所ではこの抜け道を“女道”と呼んだ。
この女道の路傍に、嘉永5年(1852)一基の石碑が建てられた。
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「 揚雲雀見聞てこゝに体ふて右を仏の道と志るべし 正道」。
仏の道とは、善光寺道のことであり、抜け道の「道しるべ」だ。
この道しるべ、関所からおよそ1kmほどのところに建っている。
関所番が知らぬわけはない。
江戸時代の庶民たちは実に易々と関所破りをしながらの旅を楽しんでいたのである。
そして、庶民の女性は関所手形を持たないで旅をするのが常識だったようだ。
全国五十三カ所の関所でも、似たようなことが繰り返されていたようだ。
要するに、捕まえると幕府から「お前の関所の警備はなっておらんじゃないか」と怒られるから、ということでもあったそうだ。
なんともファジーな行政手法だ。
「日本人は何によってモラルを保っているのか。それは武士道なんですね」
「武士は身分でいうとトップにある支配者ですが何も生産しない。だから身を清くして品格を高めよ。いざという時には死ぬ覚悟を持て、というモラルが求められたのです。」
と、いう説がある。
どこかの政策経費流用の号泣元県議の裁判経過を見ていると悲しくなってきますね。
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by hanaha09 | 2016-02-27 18:17 | 田舎暮らし | Comments(0)

江戸はなんでもリサイクル

冬の間に使う薪ストーブ、薪を燃やせば灰が出る。
一冬にバケツに5,6杯ほど。
この地域では回収の決まりは無いので枯葉たい肥の上にまき散らしている。
自然リサイクルだ。
今の世の中では自然リサイクルがむつかしくなったものがいっぱい。
江戸の町では灰屋が各家庭を回って灰を買い集めた、集めた灰は灰問屋に売り渡した。
灰問屋は需要家に卸したり、灰市に出した。
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酒造り、和紙の製造、絹糸の加工、染色、陶磁器の釉薬として様々な場面で使われた。
藁などは衣食住に利用され、その後は燃やされ、灰をも利用した。
もちろん肥料としては欠かせないもの。
肥料といえば長屋のし尿も近郊のお百姓が買い求めるほどの大切なリサイクル品だ。
古着、古紙、古傘、古箒...難でも回収再生された。
鍋釜、桶、瀬戸物まで修理やがやってきては再生していった。
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街角に捨て去られた材木、切れ端は風呂屋が燃料にすべて拾っていった。
今の世の中を見渡すと簡単にはリサイクルといかないものばかりだ。
グラビア摺りの本はなかなか燃えない、スーパーのレジ袋、トレーはあっという間にたまる。
ペットボトル、空き缶もすぐたまる。
困るのは乾電池、パソコン...一番困ってるのが使わなくなった電動薪割り機、重くてどうしようもない。
ごみダメ屋敷ができるのも不思議ではない。
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by hanaha09 | 2016-02-26 15:22 | 田舎暮らし | Comments(0)

謎の浮世絵師(つづき)

「東洲斎写楽」には謎が多かった。b0126549_2250525.jpg
生没年ばかりか氏素性もよく分からなかった。
10か月ほどの精力的な制作活動の後、忽然と姿を消した訳は...
いままでにその正体を明かそうと、さまざまな説が出されてきた。
その多くは別人説である。
別人の候補としては浮世絵師の歌川豊国、葛飾北斎、喜夛川歌麿、山東京伝、その他に歌舞伎役者の中村此蔵、作家の十返舎一九などなど。
そして、1844年に斎藤月岑が編集した『増補浮世絵類考』にこうあった。
「写楽 天明寛政中ノ人 
 俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す  
 阿波侯の能役者なり 号 東洲斎」
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最近、埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳に「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良兵衛」が1820年(文政3年)に58歳で亡くなったという記録があることが発見された。
また、1818年(文政元年)に歌舞伎役者の瀬川富三郎が作成した江戸の文化人名簿である『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に、浮世絵師を示す記号の入った「写楽斎 地蔵橋」とあることが分かった。
阿波蜂須賀公お抱えの能役者斉藤十郎兵衛は「写楽斎」と名乗る「写楽」と同住所に住んでいたことになり、浮世絵師「写楽」は藩士であり能役者である「斉藤十郎兵衛」と同一人物であることは間違いない。
「東洲斎」は(とう しゅう さい)、「斉藤十・・・」は読み順をいれかえると(とう じゅう さい)。
そして、地蔵橋に住所を構えた絵師「写楽斎」は(しゃらくさい)、当時の江戸によく見られる酔狂だ。
斎藤十郎兵衛は、宝生座(ほうしょうざ:大和猿楽四座のひとつ)の一員で、宝生座は、寅5月から卯4月まで一年間非番であった。
「写楽」が浮世絵を描いたのは、寛政6年(甲寅)5月から寛政7年(乙卯)1月までで、宝生座が非番(休み)であった時期の中にすっぽり納まる、大量の浮世絵描画に専念することができた。
なぜ素性を明かせなかったか...
当時、歌舞伎役者は「かわらもの」と呼ばれ卑しい職業、斎藤十郎兵衛は下級武士とはいえ紛れも無い阿波藩士、歌舞伎役者の浮世絵を描くといった卑しい仕事に手を染めることは許されない、ということだったのだろうか。
彼にはやるべき能役者としての務めがあった、10か月ほどで絵筆を放り出したのもなんとなくわかる。
もう一つは有名版元の蔦屋重三郎が素人浮世絵画家と思われる一介の能役者に大金を投じたのか...
蔦屋重三郎は自ら売れっ子絵師に育て上げた喜多川歌麿に逃げられた。
才能ある絵師を探し、育て上げる必要に迫られていた。
そして、素人「写楽」に白羽の矢を立てた、「写楽」には歌麿のときと同様の雲母摺(きらずり)の大判大首絵を大量に描かせたことからそのことが窺われる。
かくして、蔦屋重三郎の思惑は失敗に終わった。
大量の版権を京都の版元に売り払ったのもこの後の事だ。
しかし浮世絵プロデューサー蔦屋重三郎の大失敗は日本の美術界にとてつもない偉大な貢献を果たすこととなった。
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by hanaha09 | 2016-02-25 20:22 | 田舎暮らし | Comments(0)

謎の浮世絵師

明治末期の1910年の事、ドイツの美術研究家ユリウス・クルトによって、レンブラント、ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家のひとりとして江戸の浮世絵師「東洲斎写楽」が絶賛され、海外での評価も特別なものとなった。b0126549_17325820.jpg
シカゴ美術家所蔵「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」と題された「大首絵」と呼ばれるデフォルメを駆使したダイナミックな歌舞伎の役者絵だ。
「江戸兵衛」が四条河原で奴一平を襲い金子を奪うシーン、隙あらば奪い取ろうと突き出す手に、1点を凝視したまなざし、口をへの字に曲げた容貌、緊張感が嫌でも伝わってくる迫真の画だ。
背景には雲母の粉を摺りつける雲母摺(きらずり)技法を駆使した豪華版だ。
驚くことに写楽は、寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年(1795年)3月にかけての約10か月の期間内に、145点余の作品を出版した、単純に計算すると2日に1作品の出版になる。
個性的な作品は強烈な印象を与えた当初は注目を浴びた、が、売れなかった。
大田南畝(蜀山人)が書き記した『浮世絵類考』には、「写楽 これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしがあまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきしかバ、長く世に行われず、一両年にして止ム」とある。
b0126549_1819555.jpg当時、最高の女形といわれていた瀬川菊之丞、色気も何もない、まるで「ブス」の代表のように描かれている。
役者絵は歌舞伎の初公演を前に出版されるブロマイド写真のようなもの。
これでは売れないし、巷のファンも役者も怒った。
版元の蔦屋重三郎は、空気を呼んだのか作風にいろいろ注文を出したような跡がうかがえる。
しかし、それはありきたりの役者絵に変貌し、百四十数点にて出版は終了、わずか10か月で「東洲斎写楽」は忽然と姿を消し、二度と世の中には出てこなかった。
謎の浮世絵師と呼ばれる所以がここにある。

ちょっとしんどくなった。
明日はこの謎にもう少し迫ってみよう。
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by hanaha09 | 2016-02-24 17:13 | 田舎暮らし | Comments(0)

昨日は忍者の日だった

2月22日は「にゃんにゃんにゃん」の猫の日だと思ってったら「にんにんにん」の忍者の日でもあった。
真田十勇士に代表されるように忍者が最も活躍したのは戦国時代。
築城技術、兵站、戦力、戦術、それぞれの武将によって研究し尽くされた。
後は情報・謀略術の優劣で勝敗の行方が左右された、時の忍者はスーパースターだったのだ。
そして、戦乱の無い太平の江戸時代に入るとそのお役も御免ということになった。
一部の者は公儀隠密、お庭番として幕府の雇われサラリーマンに。
薬の知識に詳しいものは薬売り、火薬に長けたものは花火師に。
手元に開業資金のなかった失業忍者たちには虚無僧になったり、奇術や曲芸の遊芸人になったものも居た。
吉原遊郭の創設者、庄司甚内は北条氏に仕えた忍者であった。
また、江戸中にあった古着屋グループの元締め鳶沢甚内、彼らメンバーも北条氏に仕えていた忍者だった。
江戸幕府はこういう忍者のような危険人物に許認可の便宜を与え、懐柔するところもあった。
明治時代にはいるといよいよ困った。
生活に困った忍者の末裔は、江戸城の堀に入って鯉を手づかみして通行人から見物料を取ってコメ代にしたものも居たそうだ。
現代においてはこんなアイデアも。
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忍者屋敷のような1泊4,000円のカプセルホテル。
やってきた外人たちはスマホで全世界に拡散、インバウンドたちの大人気ホテルになってるのだそうだ。
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by hanaha09 | 2016-02-23 12:20 | 田舎暮らし | Comments(0)

江戸庶民の生活

江戸の庶民の財布事情はどうなってたんだろう?
野菜行商で生計をたてていた狭い長屋の"とっつあん"の例。
"とっつあん"はかあちゃんと子供二人家族。
朝野菜を仕入れて、日暮れまで棒降り、八百八丁を売り歩くのだ。
 野菜の仕入れ 600~  700文( 約9,000円~15,000円)
 売上   1,200~1,300文(約18,000円~20,000円)
 粗利600文(約9,000円)というところ。
"とっつあん"は帰宅すると日割りの店賃と翌日の仕入れを除いてコメ代200文(約3,000円)をかあちゃんに、みそと醤油代50文を追加。
子供のお菓子代に12文を渡すと、残りは100文~200文というところ。
2,3千円ですから、一杯やってしまえばおしまい。
宵越しの金はもたないのが江戸っ子、その日暮らしの生活だ。
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「金は天下の回りもの。なんとかならあな」
実は、江戸時代は究極の循環型社会。
太陽エネルギーが産んだ植物を衣食住に使い、何も増えないし何も減らない仕組みができていた。
なにか物を大量に消費して不足する、無くなるということがない。
物価はおおむね安定。
農村では自給自足、そして相互扶助。
将来の不安がなかった。
江戸の幕府は、最低限必要な法度等を定めるのみ、後は大衆の共同体の自主管理に委ねていた。
制度や法律でがんじがらめにしない庶民の生活第一の政策だったのだ。
かくして、安政5年(1858年)に大英帝国からやってきた英国エルギン卿使節団のシェラード・オズボーンがこういった。
「この町(長崎)でもっとも印象的なのは(そしてそれはわれわれの全員による日本での一般的観察であった)男も女も子供も、みんな幸せで満足そうに見えるということだった」。
テレビの国会中継を見ながら考えこんでしまった。
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by hanaha09 | 2016-02-22 13:24 | 田舎暮らし | Comments(0)

江戸にもあった通販

江戸の町に矢ノ倉と称する米蔵があった。b0126549_22461613.jpg
薬研堀は隅田川から矢ノ倉に至るL字型の入堀として開削された。
1698年(元禄11年)、米蔵が火災に会い築地に移転すると、1771年(明和8年)、薬研堀は大半が埋め立てられた。
薬研(やげん)とは、漢方薬などをつくるとき薬を細粉にする道具。
これを用いる医者が住んだ医者町の通称、今の中央区東日本橋付近だ。
表通りに当たる「両国橋西詰め」は屋台や小屋掛けの店が建ち並び、江戸の5本指に入る繁華街だった。
その裏通り、薬研堀にあったのが「四つ目屋」。
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江戸見物に来た人々のうち、少なからぬ人がこっそり訪れたという薬屋らしい。
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広告ちらし右には阿蘭陀秘法方「長命丸」「喜女男散」と読める。
かの狂言師蜀山人によると「長命丸元祖明応年中にはじめて長崎へわたり寛永年中御当地にて売りはじむと両国米沢町四つ目屋が看板に見えたり。」とある。
「長命丸」とは、どうもヒキガエルの皮脂線の分泌物、アヘン、硫化水銀などを混ぜ込んだ一物に塗り込む「江戸のバイアグラ」。
江戸買物独案内に「四つ目屋」は薬屋の項目にはなく、小間物屋の項目にあった。
もうひとつの宣伝チラシにはこう書かれている、「日本一元祖 女小間物細工所 鼈甲水牛蘭法妙薬 江戸両国薬研堀四ツ目屋忠兵衛 諸国御文通ニ而(て)御注文之節は箱入封付ニいたし差上可申候」。
今もそっくりのアダルトグッズ通販が江戸にあったのだ。
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by hanaha09 | 2016-02-21 23:45 | 田舎暮らし | Comments(0)

タバコ文化

うすら寒くて閑なので昼間から映画を見た。
プエルトリコへ出かけたアメリカ人の新聞記者が地元の観光開発業者の悪と戦う、というちょっと古い映画だった。
やたらとタバコを勧められたり、吸ったりで重要な会話が行われる場面が多かった。
昔はタバコがストーリーのわき役を果たしたようだ。
タバコが西洋に広まったのはコロンブスが西インド諸島に到達したのがきっかけ。
彼らインディアンはコロンブス一行にタバコをプレゼントし、一緒に吸うことを薦めたと記録に残っている。
タバコの喫煙はインディアンの有していた宗教的意味合いから、親睦の道具の一つへとかわっていった。
確かにタバコに含まれるニコチンには、不安感を取り除き、充足感を高め、共認回路に強く連動している伝達物質を遊離する作用があるらしい。
やがて、日本にはポルトガル人などによって鉄砲と一緒に持ち込まれたタバコ。
「初め蛮船の商夫、葉を巻いて筒を作り、ひちりき状の如くにし〜(中略)〜南蛮国煙管を伝う。これを幾世流(キセル)と号す」
江戸時代に入るとこのキセルがたちまち流行していった。
そして、江戸の匠たちは0.1mm幅もない、丸めると綿のような「細切りタバコ」を作り上げた。b0126549_1124818.jpg中には1mほどもある長さのキセル「花見きせる」も持ち歩かれた。
キセルによる喫煙は江戸っ子のファッションでもあった。
「たばこ道」なる喫煙の礼儀作法もできあがった。
タバコはお互いのコミュニケーション道具の一つともなった。
時代は駆け巡り、明治時代直前の慶応3(1867)年にフランスで行われた「第2回パリ万博」に幕府は初めて参加、会場の一角に茶屋を模した建物を作った。
この茶屋の前の縁台でキセルをくゆらせながら一服する日本人に、パリっ子は目をくぎ付けにさせられた。
葉巻やパイプでの喫煙しかなじみのなかった西洋人に衝撃的な”ジャポニズム”旋風が巻き起こったのだ。
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今でもパリでよく見かけるのがメトロのさくを乗り越えるキセル乗車。
これは”ジャポニズム”とは全く関係ない彼らの独自の文化だ。
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by hanaha09 | 2016-02-20 11:43 | 田舎暮らし | Comments(0)