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あるちゅはいま日記

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江戸の比丘尼

スケベはいつの世の中でもいるもんだ。
江戸は男性天国、参勤交代でやってきた田舎侍に近在からやってきた一儲け期待の男どものたまり場だ。
侍は戦もない平安な江戸ではすることもない、暇な時間と体力を持て余すこととなる。
中世の頃より、熊野権現の勧進を目的として諸国をめぐり歩く「熊野比丘尼」が登場した。
小脇に抱えた大型の文箱から取り出した絵巻物による地獄絵図・極楽絵図の「絵解」をしながら、熊野牛王符と酢貝(アワビの酢漬け)を配り、歌念仏や『浄土和讃』、世間で流行した俚謡(民謡)や小歌を歌いながら、物乞いをしたのだそうだ。
これが地獄絵図。b0126549_2117113.jpg
江戸時代には、この「絵解」はついには宗教というよりも、明らかに大道芸となった。
かつて「熊野比丘尼」であると考えられていた者たちは零落し、「歌比丘尼」と呼ばれ、びんざさらという楽器のようなものを伴奏に小歌を歌う芸能者であり、盛り場で売春を行う街娼となっていた。
ちなみに尼姿をしていると、町奉行所の管轄ではなくて、街場での凶悪現行犯以外は寺社奉行の管轄。b0126549_2136428.jpg
元々は修行者の中継地点であった「中宿」を根拠地として、求めに応じて出張、今でいうデートクラブの元祖。
そのうち、尼僧の衣裳を着た遊女である浮世比丘尼(うきよびくに)も現れた。
そして、1780年代(天明年間)以降には、これら売春婦としての「比丘尼」は廃れていったとされている。
なんだか現世のJK風俗を思わせる江戸の出来事です。
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by hanaha09 | 2016-01-31 21:39 | 田舎暮らし | Comments(0)

生類憐みの令

犬好きだったバカ殿、徳川綱吉が制定したという、1687年(貞享4)4月の生類憐みの令。b0126549_20221822.jpg
後々、犬、猫、鳥、魚類、貝類、虫類などにまで及んだ(犬ばかりに限らず、惣じて生類、人々慈悲の心を本といたし、あはれみ候儀肝要の事)ため、「天下の悪法」とも言われる。
が。
(現代語訳)
一、捨て子があればすぐさま届け出ようとせず、その場所の者がいたわり、みずから養うか、またはのぞむ者がいればその養子とせよ。よいか、届け出なくてかまわない。
一、鳥類・畜類で、人が傷つけたと思われるものは今までのように届け出よ。共食いやみずから傷つけたと思われるものは届け出なくてよい。それらを養育し、持ち主があればかえすようにせよ。
一、飼い主がいない犬に日ごろ食べ物をあたえないようにしているという。それは要するに食べ物をあたえれば、その人の飼い犬のようになって面倒なことがおこると考え、いたわらないでいるらしいが、けしからん。これからはそのようなことがないように心得よ。
一、飼い犬が死ぬと、飼い主は上司へ届けでているという。その死に異常がなければ、これからはそのような届け出は無用である。
一、犬ばかりにかぎらず、人々はすべて生類へ慈悲の心からでるあわれみをほどこすことが肝要なのである。
以上
四月 日
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綱吉は、戦国以来の殺伐とした社会風潮を、このへんで改めて「文治国家」に変えていきたいと願っていた。
「江戸期全体で起こった事件の数より今の東京で一年間に起こる事件の方が断然多い」と史家に言わせる超安全国家が出来上がったのだ。
子供たちの虐待・放置などのニュースはもう聞きたくない。
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by hanaha09 | 2016-01-30 20:29 | 田舎暮らし | Comments(0)

横浜開港と生糸貿易

松平 忠固(まつだいら ただかた)幕末の老中、そして信濃上田藩の第6代藩主。
嘉永7年(1854年)の日米和親条約調印時に老中を務めた。
忠優(ただますと改名)は、老中主席阿部正弘と穏便・開国論を主張し、鎖国・攘夷論の徳川斉昭と対立していた。
幕府の開国論を牽引した。
安政元年(1854年)に再びペリーが来航し、日米和親条約が結ばれた、急を要したのも次から次へとアジア地区を植民地化していったイギリスの脅威もあったようだ。
このため、不満をもった斉昭は、幕府の参与を辞任し、忠優を老中から解任させた。
安政4年(1857年)には忠優は産物会所を国元と江戸に設置し、上田藩の特産品であった生糸を江戸へ出荷する体制を作り上げ、生糸輸出を準備させていたのだ。
忠優は横浜でいち早く外国との貿易を行うように上田藩の商人たち(伊藤林之助、町田吉五郎など)に指示し、上州(嬬恋村)出身の謎の商人中居屋重兵衞に託して、横浜開港と同時に生糸貿易を開始したのだった。
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伊藤林之助の残した日記には次のようにある。
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安政6年(1859年)6月2日の開港と同じくして横浜にやってきた林之助。
6月19日、中居屋重兵衛のあかがね御殿の開業、祝儀を運ぶ。
6月20日、イギリス女人上陸、女余程美人也。
幕府が新し発行した「新二朱銀」の交換レートが外人に受け居られず6月23日以降この通用を停止した。此れを境に生糸取引が活発となったようだ。
7月2日、横浜にてアメリカ通し彦蔵(ジョン万次郎)殿と種々噺合致す。
7月23日、早朝、英吉利バアベル参り、白糸計七千斤(4200kg)引き合い、8月中に相渡候約定書取為替、一斤二両に定める。
昨日、波松へ売り渡し候白糸・黄糸都合四十六筐相渡、右代金の内一分銀五百両、ドル五千枚受け取り候。白糸・黄糸四十六筐で二千五百八十斤、代金は四千八百三拾七両二分也、ドルにして六千四百五拾枚也。
7月25日、中居屋十兵衛殿江糸売剝代金五分受取置候に付...ドル弐百八十六枚、弐分弐朱、弐百九十五文、中居口銭渡。
7月27日、大船にて江戸へ参り候、荷物は金子四筐。夕飯後、茅町御屋敷(上田藩邸)へ持参いたし候。夜五つ時頃吉原に参る、さの槌へ参る、真砂と申す女郎買。
8月8日、手透き二候ハ 舟にて一盃仕候間被招候...茶屋新玉川と申し候へ休足、それより豊倉と申す女郎屋に参り、小雪と申す女買。大遊山。
開港わずか数か月で大量の生糸商売をかなえたことがうかがえる書付だ。
中居屋重兵衛のもとにも口銭がたんまりと転がり込んだ。
大遊山の光景が目に浮かんできますね。
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by hanaha09 | 2016-01-29 23:19 | 田舎暮らし | Comments(0)

ヤドリギ

雪の上に見つけた、鳥のうんこだ。
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頭上を眺めてみると、樹上にヤドリギ。
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優に20m以上の高さにくっついている。
朝、うっすらと明るくなるころにやってくる鳥たちがいる。
ヒレンジャク、なんでわかったかというと...
この前にガラス窓に一羽がぶっつかって絶命した。
頭と尾がピンク、きれいな鳥だった、写真には写さなかった。
このヒレンジャクの今頃一番の好物がヤドリギの実。
ゼリー状の中身はほのかに甘い、種は緑で消化しない、この種の周りにチューインガムのようなネトネトがあり糸のように伸びる、これも消化をしない。
ヒレンジャクがこの実を食べると後はこうなる。
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お尻からブラブラぶら下がる糸と種。
これが木の枝に引っ付く、引っ付いた種からは木の枝に根を下ろし、芽が出て高い樹上に新たなヤドリギが生えてくるのである。
残念ながら地上に落ちた種は発芽することはない。
このように、大地に根を持たずに樹木に繁殖し、樹木が葉を落としても青々と葉をつけているヤドリギは、古来から欧米では「再生のシンボル」「永遠の命のシンボル」として神聖な不思議な力を持つものとして大切にされてきた。
その最たるものが「ヤドリギの下でキスすると将来幸せになる」という言い伝えだ。
かのTokyo Disneyにはこんなスポットがあるそうだ。
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このあたりの山の中には、いたるところ無料のスポットだらけだ。
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by hanaha09 | 2016-01-28 10:45 | 田舎暮らし | Comments(0)

うさぎがやってきた?

今朝も冷え込んだ。
空は快晴。
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外へ出てみると真新しい野ウサギの足跡がすぐそばに。
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庭先までやってきたのは初めて。
これを追っかけてきたのだろうか、別の足跡も。
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きつねのようでちょっと違う。
この前からやってきてるネコかもわからない。
ちょっと横にはウサギがジャンプして逃げていった跡。
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足跡は2m位離れてる、ウサギのジャンプ力もすごい。
ネコかキツネに追い掛けられたのかもわからない。
夜中の攻防を想像するのも面白い。
そして、こんなかわゆい足跡も。
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コガラかシジュガラの足跡だ。
雪の上に飛び降りたところには尾っぽの後も残ってる。
食べ散らかしたひまわりの種の残りを拾いに来たのだろうか。
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これは何の足跡?
全然かわゆくないヒトの物だ。
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by hanaha09 | 2016-01-27 11:52 | 田舎暮らし | Comments(0)

村上山に登った

浅間・烏帽子火山群の中の熔岩ドーム、村上山に登った。
出発点は鹿沢国民休暇村、駐車場もあるし、トイレもあるし、いたれりつくせり。
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ここから山に登る。
そして目標はこの山。
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カラマツ林の中をトコトコ登るのだが、モデル間伐地区ともなっており夏でも秋でも冬でもとってもきれい、一番好きな景色だ。
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半分を過ぎたところにある鞍部、風がきつく雪が舞うので登山道がわからなくなる。
今日はまた雪が深い、ちょっと大変だった。
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ここを抜けると黄泉の国に迷い込んだ感じになる。
浅間山がくっきり、火口がうかがえる場所だ。
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ここにある東屋周辺は野うさぎ天国、宴の後の足跡がいっぱい。
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ここから頂上まではラッセルラッセル、しんどかった。
そして、頂上到達。
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嬬恋村一望のすごい景色ですね。
スノーシューレベル1の初心者向け登山でした、それでも標高は1746m。
年寄りにはこれで充分、休暇村の鹿沢温泉「雲井の湯」でまったり。
心の芯まで温かくなりましたねぇ。
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by hanaha09 | 2016-01-26 18:01 | 田舎暮らし | Comments(0)

おきつねさま

b0126549_17383114.jpg日本語にすると「宮城蔵王きつね村」。
今や外人さんたちには大ブレイクの"もふもふ"スポット。
東京からは北へおよそ300km、東北本線の在来線白石駅からきゃっするくんのバス(???)が一日に1本。
バスの運転手さんに「きつね村の前で止めてください。」と言えば停めてくれるのだそうだ、所要時間はおよそ1時間。
ちなみに帰りのバスはどこで待っていれば良いのかまた運転手さんに確認しなければならないそうだ。
そして、大自然の中に100頭のおきつねさんが放されている山の中のきつね村に到着する。
昨年には5,000人を超える外国人の観光客がやってきた。
何がよいのか、この"もふもふ"感なのだそうだ。
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昔、北軽井沢にもあったといわれるいくつかの「養狐園」。
昭和11年の春に、自由俳人で一笠一杖の乞食行脚で各地を遍歴した種田山頭火がこの「養狐園」を訪れている。
「峯の茶屋で昼飯、こゝを中心にして自働車専用道路がある、私設の有料である。
こゝからすぐ国界県界、道は何だか荒涼たる六里ヶ原を横ぎる。
浅間村牧場、北軽井沢駅。
白樺が多い、歯朶の芽が興を引く、所有建札が眼に障る。
養狐場が所々にある、銀狐を生育さすのである、狐の食料は人間よりも贅沢で月二十円位はかゝるさうな、そして一ヶ年の後には毒殺されて毛皮は数百金に売れるといふ、資金を要する商売であるが、なか/\儲かるさうな。」
ここのきつねはどうも毛皮になったらしい。
北軽井沢「養狐園」の跡地はその後、浅間火山レースではヤマハチームの基地になったり、自動車輸入業者の車庫になったり、肉屋のBBQガーデンになったり、最近ではショッピングセンターになったり、スーパーマーケットになったり、今は駐車場も雪の中。
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おきつねさまの祟りだったりして...
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by hanaha09 | 2016-01-25 19:46 | 田舎暮らし | Comments(0)

寒の内

大寒が過ぎて寒くなった。
これは本当だそうだ、旧暦と日本の季節は少しずれる。
日本で一番寒い時期は、寒の内でも1月26日~2月4日の間だそうだ。
今日は昼近くにも関わらずまだマイナス7・5度だ。
「つらら」が大きくなってきた。
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「つらら」はあちこちでいろんな名前が付けられている。
しがま、たるし、あめんぼー、ほだれ、びーどろなど...
また、民話にもよく登場する。
越後では「かねこおり」というそうだ。
そして雪国の民話には...
”昔、やもめぐらしの男がおりましたとさ。
家の軒下に下がった大きなかねこおり(つらら)を眺めていたやもめ男、
「ああ、きれいだな。こんなよめっこがほしいな」、と。
するとなぜか、かねこおりは娘っ子の姿になって、やもめ男の女房になったんだと。
男は有頂天で一冬をかねこおりの女房と暮らしましたが、春のおとづれとともにかねこおり女房はどこかへ消えてしまったとさ。
このすけべ男はまたまた一人暮しにあきあきし、さっさと新しい嫁っこをもらってしまったんだと。
そして、また冬がめぐってくると、軒下に大きなかねこおりが下がったとさ。
「なんて邪魔な、嫌なかねこおり」、と叩き落してしまったんだと。
家の中にいた嫁っこが、男の叫び声を聞いて驚いて見に行くと、男はかねこおりに首を刺され絶命していたんだと。”
女の執念の怖さであります。
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by hanaha09 | 2016-01-24 12:07 | 田舎暮らし | Comments(0)

西窪城探検記

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江戸時代に書かれた『上毛古城記』、『上毛故城壘記』には、嬬恋村吾妻川左岸に西窪城の在ったことが記されている。
そして、『嬬恋村誌』にも「西窪発電所の西どなりの小高い山で、送水路鉄管の南にある..」、と。
場所はおなじみのスーパー「サンエイ」の裏手にある西窪神社、この裏側の山らしい。
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どんな城跡か?
世の中にはすごい人が多い。
こんな復元図が出来上がってネットに出ていた、ちょっと拝借。
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車道に沿ってひょこひょこ歩いて登って行った。
振り返ってみると吾妻川を挟んで鎌原城のあった断崖が見える(青い屋根がスーパーサンエイ)。
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ここに居城した西窪氏は、「下屋家文書」によれば貞治元年(1362)の譲状の中に「さいくほのや平太郎十郎」とあり、
下屋氏は一族の西窪氏にこの地を譲ったことが記されている。
この下屋氏とは北信濃の名族海野氏の後裔で、天仁元年の浅間山噴火の後の荒廃地にやってきて、修験道の道を説きながら嬬恋開拓を進めてきた下屋将監の事。
戦国時代の西窪氏は、同じく下屋将監の孫である鎌原城主の鎌原氏を嬬恋の盟主と仰ぎ、西窪城は鎌原城の支城でもあったようだ。
そして、しばらく行くと「嬬恋かるた」。
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この先を鉄塔方向へ行くと何やら堀切のような地形。
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西窪発電所の送水管に行きつく。
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ここがどうも外堀の跡。
ここから南方向を眺めるとなにやら土塁のような跡。
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この先には本丸跡があるに違いない、が、この笹薮を漕いで立ち入る勇気はない。
送水管は発電所までこんな崖を下って行ってるのだ。
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「年寄りは危うきに近寄らず」、と、ここで退却。
この西窪城、戦国期に築城され、江戸時代にまで至ったことは確かであるがその時期はよく分かっていない。
今回の西窪城址探検もわかったようでよくわからなかった。
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by hanaha09 | 2016-01-23 17:50 | 田舎暮らし | Comments(0)

江戸の庶民生活

天明3年(1783年)の浅間山噴火によって発生した「浅間泥押し」。
この災害で鎌原村に埋もれた一軒の家が発掘されたのが昭和54年(1979年)。
鎌原観音堂の近く、村のはずれの雨が降ると十日も水が引かぬ、といわれていた「十日の窪」だ。
発掘されたのはごく普通の民家、そこから多数の出土品が出てきた。
二百十四年も前の江戸の庶民生活の様子がよみがえった。
鍋、茶釜、陶器、伊万里焼とみられる磁器、糸印、硯、びーどろ鏡に鼈甲のかんざし等々。
百姓の家庭には似合わない品々も発掘された。
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(資料館内の展示物は撮影ができないのでちょっとお借りした)
江戸時代の百姓は「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほどいずる物也」(享保期の勘定奉行神尾春央の言葉)などと、粟やヒエしか口にすることのできない抑圧された封建時代の百姓像が浮かびあがってくる。
しかし、不屈の百姓たちは新田開発、農業生産効率が向上するとともに余裕のできた時間を彼ら自身の副業にあてたのだ。
江戸の百姓は米以外にもちゃんと収入源を持つ、「百姓は百の職業を持つ兼業農家」だったのだ。
立松和平の小説には天明時代の鎌原村では蚕のための桑の栽培が始まっていた、との記述もある。
鎌原村は当時宿場機能を持っていた。
街道筋にはお茶屋、旅館、問屋等が存在したとみられている。
そして、馬が200頭もいた。
大笹街道をやってくる荷物の中継運搬で駄賃稼ぎをしていた。
また、この馬のほとんどが雌馬だったそうだ、荷物運びに便利だったこともあるが繁殖用としての稼ぎ目的もあったようだ。
入会地には多くの良材があり、これは炭の生産、万座方面には硫黄採掘にも出かけたようだ。
かくして、自然災害による農業リスクを分散させた「兼業農家」たちは、暇を見つけては江戸の多彩な文化生活を謳歌していたようだ。
浅間山麓の標高900メートルに達す僻地にも、江戸や上方の都市文化が荷物、商人とともに伝わり、鎌原村の一般庶民・百姓の間に草莽(そうもう:草の生い茂った所、転じて民間とか在野)の文化が開花していたのである。
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by hanaha09 | 2016-01-22 21:33 | 田舎暮らし | Comments(0)