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あるちゅはいま日記

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2015年も終わり

2105年、羊歳も本日で終了。
今年も何事もなく平和に生き延びた。
世の中を見ると、そうも安穏ともしていられないようだ。
とにかくテロ事件が多かった。
フランスのイスラムテロ、もともとの原因は何十年前からの怨念だ、と思う。
もう40年も前の事だ、パリの街角にはアラブ系の人たちがたむろしていた。
フランス人からある忠告を受けた。
「彼らはアラーのもとではみんな平等だ、お金を貸してもぜったい返さない、無理に返済を強いると大変なことになる要注意だ。」、と。
これがパリっ子の考えだ、いくら兵士がマシンガンをもって警戒をしていても格差社会の中でテロ事件が起きるのは当然だ。
2006年の年末の夜にバンコックの伊勢丹近くの電話ボックスが爆破された。
この日の夕方にはこの人込みの中、この電話ボックスの前を通っていたのだった。
次の日のニュースを見て身震いをした。
高度経済成長に捨て置かれたタイ南部のイスラム系住民による連続テロ事件だった。
日本人に生まれていてよかったと思う1年だった。
浅間山の寝観音、後光のさす右の黒斑山が頭、浅間山が腹いっぱいの腹、へその付近から煙を吐く。
説明がないとなかなか理解がむつかしい。
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2016年の正月は観音さまにちなんで寝正月だ。
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by hanaha09 | 2015-12-31 11:33 | 田舎暮らし | Comments(0)

浅間山噴火情報

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「鳴音前日より百倍厳しく、地動事千倍なり。依之老若男女飲み食いを忘れ、立たり居たり、身の置き所なく浅間の方ばかり眺め居候所、山より熱湯湧出し押し下し、南木の御林見るうちに皆燃へ尽くす。鹿、犬の類皆焼死す。原も一面の火になり、目も当てられぬ次第也。天に吹きあぐること百里あるべきかと云。惣の巡り石落こと雨の如し。譬えて云えば、白熊を振り立てる如く。口もとどかず、筆にも難之大焼。」大笹宿にあった無量院住職が書き留めた浅間山の天明3年8月4日、大噴火(浅間焼けと云う)の情景だ。
本日の噴煙もなんだかちっちゃな白熊がのっそりと起き上がってるようにも見えてくる。
今年は6月16日に静かな小噴火があった。
我が家にもほんのわずかの降灰が見られた。
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暮れにかけてもまだまだ地下のマグマは活動を続けているようだ。
12月28日の気象庁発表によれば、
「火山性地震の発生回数は以下のとおりです(速報値を含む)。
               火山性地震  火山性微動
12月25日           24回     0回
   26日           35回     0回
   27日           35回     0回
   28日(15時まで)    26回     0回

 6月上旬頃から傾斜計のデータに認められていたゆるやかな変化は、鈍化しながらも継続しています。」
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by hanaha09 | 2015-12-30 14:46 | 田舎暮らし | Comments(0)

「真田丸」のろしリレー

なんとも面白い企画、それとも申の集まりになるのか。b0126549_19505829.jpg群馬、長野両県の自治体でつくる真田街道推進機構は1日、長野県上田市から沼田市までの街道沿いで「のろしリレー」を行う。
幸村の父、昌幸が第1次上田合戦(1585年)の際にのろしで危機を沼田城まで伝えた史実を再現し、2016年NHKの大河ドラマ“真田丸”の幕開けを祝うのだそうだ。
この「のろしリレー」の中継基地の一つが嬬恋村の鎌原城址。
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鎌原城の本丸跡はうっそうと茂っていた樹木が切り払われ、あらたな標識、周りには六文銭の赤旗も。
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六文銭をかたどったベンチもできていた。
鎌原城はこの真田勢の吾妻街道攻略の拠点だった。
のろしを上げたのは本丸跡ではなく、鎌原城から東に突き出した見通しの良い金毘羅山砦だったそうだ。
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お正月にはヘリコプターに手を振りに来てみようかな...
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by hanaha09 | 2015-12-29 21:01 | 田舎暮らし | Comments(0)

門松を飾った

門松は歳神さまを迎え入れる依り代(神霊が寄りつく樹木・岩石・動物・御幣など)だ。
29日に飾るのは二重に苦が来る、9の末日なので「苦松」ということでよくない。
31日に飾るのは「一夜飾り」となって、歳神さまをおろそかにする、これもよくない。
と、いうことで今年は早めに作った。
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めでたい「松竹梅」、松は正真正銘の赤松の元気の良い若木を山でいただいてきた。
竹はこの辺では育たないので、笹をこれも山でいただいてきた。
梅もこの辺では寒すぎて木はないし、花も咲かない。
家にある「ニシキギ」の実のついた枝を取ってきた、いわれは全くないがまぁきれいだから。
五穀豊穣を願って藁でしめ縄を作った、残念ながら去年の敷き藁の残りでボロボロヨレヨレになってしまった。
半紙に100円ショップで買ってきてた紅白の水引きを締めた。
「橙(だいだい)」はないので頂き物の青島ミカンを括り付けた。

から風の吹けばとぶ屑家はくず屋のあるべきように、門松たてず煤はかず、雪の山路の曲り形(な)りに、ことしの春もあなた任せになんむかえける
「めでたさも中くらいなり、おらが春」  一茶
北信州の一茶の住んでいたという味噌蔵が思い浮かんだ。
本当はこれで良いのだ...
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by hanaha09 | 2015-12-28 10:20 | 田舎暮らし | Comments(0)

浅間板目石

熔岩はいろんな風に姿を変える。
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見事な灯篭だ。
素材は浅間板目石。
東京あたりの料亭などが買い集めたと噂される浅間の熔岩だ。
浅間山のふもと、天明3年の土石なだれの通過したところにしか見られないのだそうだ。
家の裏の山に分け入るとこんな大きなのもある。
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どうしてこんな溶岩になったのか?
よくはわかっていない、というよりも研究をする研究者がいないのが本当らしい。
想像するに、まだ冷えて固まっていない溶岩が土石なだれですごい圧力を受けながら流れてきた。
その間に層状に固まりながら含まれる火山性ガスが遊離されてきた。
そこは当然ながら膨れて空間ができた。
パンのクロワッサンの出来る原理だ、が、なぜ層状に固まるのかがよくわからん。
信州佐久平からと称する庭石通販サイトにはこうある。
「浅間山の希少焼石 めったに無い板目石、重層になった焼石です。 30cm~60cm  1kg当たり 1,500円 1個平均価格6,000円から1万円の予定です。」
我が家にある板目石はこれ。
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ちょっとお粗末なので、200円ほどかなぁ...
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by hanaha09 | 2015-12-27 17:08 | 田舎暮らし | Comments(0)

びーどろ鏡

鏡の起源は人類と同じほど古いのだそうだ。
そして水に映る姿が自分であることを知り、初めて人は自分自身を客観的に見ることができたのだ。
世の中の女性は鏡をのぞき込んでは自らを知り、自らを磨き、自らの美しさを極めていった。
かがみこんでみる水鏡が不便であったのか黒曜石を磨いた石鏡が登場した。
そのうち、金属板を磨いた青銅鏡となった、よく遺跡から発掘されるやつだ。
14世紀になってイタリアのガラス職人が錫アマルガムを板ガラスの裏面に付着させて鏡を作る方法を発明してから、ガラスを用いた反射の優れた鏡が生産されるようになった。
江戸時代になって南蛮からこの鏡が輸入されるようになった。
府中競馬場の近くにある大國魂(おおくにたま)神社の宝物殿には世界に3個しかない「びーどろ鏡」のうちの一つがあるそうだ。
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1643~1670年の間に10回にわたり877個が東インド会社により日本にもたらされたのだそうだ。
1783年8月、鎌原村は浅間山の大噴火に伴う土石流で村ごと埋まってしまった。
1979年に鎌原村の埋まった普通の家の一軒が発掘された。
発掘品の中には「びーどろ鏡」が3点も発見された、そのうちの1点が嬬恋村郷土資料館に展示されている(資料館内の写真撮影は禁止だ)。
当時としては非常に貴重な「びーどろ鏡」がこんな山の中にあった、というよりは使われていたとみられている。
江戸の女性の心意気が伝わってくるようだ。
男が年をよると鏡を見るのはひげをそるときくらいだ。
はげた頭を見るのは相当の勇気がいるようになった。
水鏡で十分だ。
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by hanaha09 | 2015-12-26 17:27 | 田舎暮らし | Comments(0)

アメイジンググレイス

オバマ大統領も歌ったという「アメイジンググレイス」、黒人奴隷貿易に関わったことに対する悔恨と、それにも拘らず赦しを与えた神の愛に対する感謝が歌われている讃美歌だ。
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イギリスの奴隷貿易制度撤廃に活躍したウィリアム・ウィルバーフォースの映画を見た。
彼は酒場でこの歌を声高らかに歌っていたのだ。
紀元前の古代ローマ・ギリシャ時代から奴隷制度は存在した。
日本においても卑弥呼の時代に奴隷を朝鮮に献上したような記述もある。
そして、1452年にローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与え、非キリスト教圏の侵略を正当化した。
このポルトガル人が日本にやってきたのが1543年の種子島。
鉄砲を携えてきたポルトガル人は数年後には日本でも奴隷貿易を始めていたのだった。
その結果十六世紀の後半には、ポルトガル本国やアメリカ、メキシコ、南米アルゼンチンにまでも
日本人奴隷は売られるようになっていた。
これを憂えた豊臣秀吉は1587年に「バテレン(キリスト教伝来のために来日した宣教師 )どもは、諸宗を自分達の キリスト教に引き入れ、 それのみならず男女数百の日本人を黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である」と、宣教師追放令を発布した。
江戸幕府も秀吉の政策を引き継いだ。
1612年には江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告した。
1613年には禁教令を全国に広げた、また合わせて家康は「伴天連追放之文(バテレン追放令)」を、秀忠の名で公布させた。
1616年に幕府(秀忠)は最初の鎖国令である「二港制限令」を出し、その中で「下々百姓に至るまで」とキリスト教の禁止を厳格に示した。
鎖国制度の終焉まで、西洋からやってくる唯一のオランダ人は長崎の出島のみに留め置かれた。
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イギリスでは20年という長きにわたるウィリアム・ウィルバーフォースの努力により、奴隷貿易廃止法案が成立したのが1807年、奴隷制度が完全に撤廃されたのは1833年。
その後の1859年、江戸幕府は開港場居留地において、外国人の信仰の自由を認め、宣教師の来日を許可した。
この時期において、秀吉の朝鮮出兵の際の捕虜は奴隷として外国に売られたともいわれている、江戸時代における隠れキリシタンなどに対する非合理な弾圧もいろいろと語り継がれている。
が、彼らにより「日本の奴隷貿易問題は最小限に抑えられることができた」、ともいえるのでは...
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by hanaha09 | 2015-12-25 13:11 | 田舎暮らし | Comments(0)

シルクの歴史

世の中のご婦人たちのあこがれは絹の衣装。
絹はお蚕さまが作り出し動物性の繊維だ、これを纏うのは肉布団に等しい。
非常に古い時代から絹は中国から陸路、海路でインド、ペルシア方面に輸出されていた。
これがシルクロードの始まりだ。
絹製のローブが欲しいというお妃の願い一言で東征を仕掛けたのがローマ軍。
何度も絹糸の生産を試みたが失敗に終わったイギリスが、中国との絹貿易の不均衡で起こしたのがアヘン戦争。
日本でもお蚕さまは古くから飼われていたようだ、しかし品質が良くはなく中国に生糸を求めた。
朱印船貿易でタイ王国まで遠征したのは、当時、明との貿易が途絶えていたため、タイ経由でのシルクの輸入が一番の目的だった。
そして大江戸時代を迎える。
徳川家康は武家で一番の位、征夷大将軍を得たが、それでも満足はしなかった。
朝廷と親戚になりたかった、で、孫娘に当たる徳川和子を朝廷に送り込んだ。
12歳で入内した徳川和子は元和9年(1623年)には懐妊、生まれた皇女 女一宮興子内親王は、寛永7年(1630年)即位し、明正天皇となる。
用済みとなった和子はわずか23歳で東福門院和子(とうふくもんいんまさこ)として隠居の身になった。b0126549_19182039.jpgそして、彼女のすさまじい「衣装狂い」が始まった。
現代でいうファッションリーダー、裕福な江戸の女性たちが一斉に絹の衣装を求めたのだった。
この和子のお抱え衣装店が京の雁金屋(かりがねや)、あの尾形光琳の実家なのだ。
1年間に調達したのが振袖など340点、1億5千万円にも上る金額だったそうだ。
世界に冠たる元禄文化への先駆けを作った人々だったのだ。
そのうち生糸の貿易赤字で金銀は枯渇、幕府は国産絹産業の普及に舵を取った。
これが幕末の中居屋重兵衛の生糸輸出につながり、明治に入っての近代化の大きな原動力となった。
日本の絹産業は1930年の昭和大恐慌、ナイロン繊維の発明で壊滅した。
しかし、培われたその基礎技術は延々と戦後の混乱の中でも引き継がれ今のノーベル賞国家、日本となったのである。
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by hanaha09 | 2015-12-24 19:53 | 田舎暮らし | Comments(0)

プリンス繰糸機

富岡製糸場の見学も弁舌鮮やかなガイドさんに導かれ、繰糸場へ入った。
当時世界でも最大と言われた生産設備の一つ、外壁は木造構造物にフランス積みの煉瓦を積み上げたもの、天井はトラス構造、内部に柱は1本もない。
屋根は蒸気抜きのための二重屋根、採光を考えた上部、下部の窓ガラスはフランスからの輸入品。
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この中に鎮座するのは片倉製糸紡績会社時代の繰糸機。
メーカーはと聞くとプリンス自動車、現在でもあちこちで現役で使われているそうだ。
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アッと思ったのが豊田自動織機製作所から始まった、今や世界のトヨタ自動車。
プリンス自動車、のちの日産自動車から始まった自動繰糸機、元々は中島飛行機は群馬を発祥とする日本最大の飛行機製造メーカーだった。
日本人の匠の技術が面々と広く、引き継がれているのだ。
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by hanaha09 | 2015-12-23 18:31 | 田舎暮らし | Comments(0)

ポール・ブリュナー

軽井沢に出かけたついでに富岡まで足を延ばした。
皆が行くという、世界遺産にまだ訪れたことがなかったのだ。
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話は幕末まで遡る...
1855年ころスペイン、フランスのお蚕さまに微粒子病と呼ばれる病気が蔓延、ヨーロッパのシルク産業が壊滅状態となった。
困った青い眼の外人が目を付けたのがジパングのお蚕さま。
ちょうど江戸幕府がアメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと矢次早に開港を認めていたのが1858年。
ジパングの生糸を求めて横浜の居留地にはるばるフランスのリヨンからやってきたのがポール・ブリュナー。
日本からの輸出生糸の検査官という触れ込みだった。
と、いうのは外人たちの生糸大量買い付けにより、日本の手工業生産では生産が追い付かず、値段の高騰とともに粗悪品が出回っていた。
大政奉還で日本の行政をつかさどることとなった明治政府、生糸産業の近代化こそが「坂の上の雲」だと、品質改善・生産向上・技術指導者を育成するための洋式模範工場設置を決めた。
幕府が軍事支援を頼み込んだフランス軍事顧問団の居残り組、アルベール・シャルル・デュ・ブスケに頼みこんだ。
このブスケが政府に推薦したのが製糸技師であった当時31歳のブリュナーだった。
かくして彼の多大な尽力により、1872年、富岡に日本初の洋式製糸工場が完成した。
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早くも1873年にはこの富岡製糸場で生産された生糸がウイーンで開かれた万国博覧会で2等賞を獲得した。
これによって「富岡シルク」の名はは世界でも揺るぎのないものとなった。
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ブリュナーとその家族は富岡製糸場内の320坪と言われるブリューナー館で4年間を過ごし1876年に帰国した。
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ヨーロッパの近代技術力と日本の繊細な労働力とのマネジメントが高く評価されている。
1872年の設立当初に働いていた女性工員は約400人。
労働時間は1日約8時間、週休1日のほか夏冬に各10日間の休暇があり、食費や寮費などは製糸場が負担していたという。
フランス人はサボリで働かないのが一般的、これが普通。
しかし、官制工場の終焉とともに1891年には三井家に払い下げられ、その後原(三渓)、片倉工業と経営母体は変遷、「野麦峠」の時代がやってきた。
女工たちの中には器械に残されたお蚕さまのさなぎを思わず手に取って口にした、などが語られている。
1898年には女工たちのストライキも発生している。
どこにでもある一つの負の世界遺産だ。
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by hanaha09 | 2015-12-22 23:12 | 田舎暮らし | Comments(0)