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あるちゅはいま日記

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月見いろいろ

鎌原村は天明3年の浅間焼けを原因とする土砂なだれでひとつの村が壊滅、5mとも6mとも言われる土砂の中に消え去った。
二百三十余年を経た現在は復興をなしとげ、嬬恋村では2番目に大きい集落となった。
訪れるたびに何かと新しい発見がある。
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道の傍らの草むらにたたずむ「二十三夜塔」だ。
在村の方の説明では「隣近所の者が寄り集まり、月に供物をしたり、飲食を共にして月を待った。夜を徹して除災と幸福を祈った。」のだそうだ。
田舎育ちなのだが、こんな月待ち行事は知らなかった。
この月待ち信仰、なかなか奥深いものがありそうだ。
旧暦の9月23日(今年は11月初旬になるらしい)に月は下弦の月、夜中過ぎに東方の山影から登ってくる。
二十三夜の月は左側が競りあがっている、左側の角に当たる先端が山際でぴかっと光って矢を放つのだそうだ。
強烈な光芒で、木星、一等星の数々も影を失うほど。
光芒はどんどん領域を増して、間もなく二十三夜月が姿を現す。
この光芒は三つに分かれ、阿弥陀(あみだ)、観音(かんのん)、勢至(せいし)の三尊の姿が現れ、それを一同に拝めるというのである。
太陽と月はもともと自然神、月の神として「月読命(ツクヨミ)」が登場するのは神話時代。
月読命が穀物・食物の神である「保食神(ウケモチノカミ)」を殺してしまい、それに怒った天照大神は月読命を夜の世界へ追いやった。
これを昼と夜の分離の起源としている。
月読命が月を司ることになったということは暦をつくるという意味、保食神殺害の因果か、穀物・食物を作る農業の神にもなった。
また、月は潮の干満に影響を与えるため海の神にもなった。
江戸時代には、旧暦の7月26日の二十六夜待ち行事が盛んに行われた。
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江戸っ子が夜の夜中までおとなしく月の出を待てるわけが無い。
高輪の海辺には大勢の人が集まり、わいわい、それらの見物客を目当てにしてか、天ぷらや蕎麦、寿司、団子、お汁粉など、さまざまな屋台の店が立ち並んでいる。
月待ち信仰はどこへやら、夜中まで堂々と食べて遊べる唯一の夜であったに違いない。
鎌原村の二十三夜月待ち信仰はどんな風だったのだろうか...
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by hanaha09 | 2015-08-31 21:06 | 田舎暮らし | Comments(0)

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by hanaha09 | 2015-08-30 23:41 | 田舎暮らし

田沼意次

b0126549_1157938.jpg「役人の子は にぎにぎをよく覚え」
明和6年に田沼意次が執政の役にのぼりつめた際に流行った川柳だ。
諸侯から莫大な賄賂をとって将軍の機嫌を取り結んでいたワイロ政治家田沼時代の始まりだ。
それにならって、下級の役人から商人までが、饅頭箱の底に大判・小判を敷きこんで役得を得ようとした。
これも田沼意次の重商政策の結果だ。
それまでの米中心経済だと饅頭箱にはいっぱいのお米は詰まらん。
意次は先代の徳川吉宗の重農政策が現状の経済と一致しないことに気付いていた。
幕府の経済立て直しにと農民に課した過大な年貢はもう限度があった。
意次は、この時代に勢いを増してきた商人から税金を徴収する事を考えた。
商人たちには「株仲間」というカルテル組織と引き換えに冥加金を取ったのだ。
江戸と大坂でそれぞれ流通していた金と銀との交換比率を設定した。
いわば一国の中で使われていたドルと円の交換比率を決めたのだ、これで上方、江戸の商品取引は安定したものとなる。
もう一つが、「貸金会所」の設立を画策したことである。
農民、町人、寺社などあらゆる階層から資金を出させ、幕府直営の機関で運営する。
その資金は各藩に貸し付け、将来返金された金は出資者に利子をつけて返すというものだった。
今で言う銀行だ。
当時、相次ぐ幕府からの資金要請で各藩は街の金貸しからの借金まみれ、踏み倒しも当たり前。
これらの救済を目指したものだ。
一方、日本経済発展の努力も怠らなかった。
長崎を拠点として、フカフィレ、ホシアワビの輸出を奨励した、これは中華料理の食材として大人気。
おかげで幕府の貿易収支は黒字となった。
農業政策にも心を留めた、未開の蝦夷地でアイヌ人たちとの開拓を進める事にした。
北方のロシアとの交易も進め、開国をしようとした気配もある。
江戸近辺では印旛沼の開拓大事業にも取り掛かった。
いかんせん、天明の時代には自然災害が相次いだ。
天明3年には浅間山が大爆発、それにともなう「浅間泥押し」と呼ばれる土砂災害も発生、被害は近辺にとどまらず遠く関東平野にも及んだ。
利根川まで流れ込んだ浅間山の土砂は川底を押し上げ、洪水の原因となった。
印旛沼開拓はあえなく挫折した。
また、天明6年にはその原因か、江戸の町は大洪水に見舞われてしまった。
浅間山の噴煙は長期に成層圏にとどまり、日射をさえぎった。
北陸から東北に掛けて穀物・米が採れなくなった。
天明の飢饉だ、死者の数は10万人とも20万人ともいわれている。
あれやこれやで百姓一揆が勃発、これを抑える策も無く...懐刀の跡継ぎが暗殺、時の将軍徳川家治も逝去、松平定信らにより心半ばで失脚の目にあった。
お家取り潰しの際にはワイロ政治家として名を上げたはずなのに財産はまったく無かった、言われている。
意次の改革経済は、復古経済である重農政策に後戻り。
彼の意思は遠からず破綻してしまった。
明治に入っての「坂の上の雲」をたどることが出来た影には彼のたどった政策があったともいわれる。
いずれにしても日本経済の行方まで決めた浅間山でもあった。
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by hanaha09 | 2015-08-29 18:15 | 田舎暮らし | Comments(0)

行き会いの空

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小諸の山すそから東方向へ覗いた空だ。
夏の入道雲に混じって、刷毛で掃いたような巻き雲が高い空に姿をあらわし始めた。
高い空から少しずつ秋という季節がしみ込み始めている様子だ。
夏の名残がありつつ、秋の雲が現れ始めている空を、季節が行き合っていることから「行き合いの空」と言う。
ためしに翻訳ページで英訳すれば「The sky of meeting」。
日本語はすばらしい、と思う一瞬だ。

「春の雲は綿の如く、
   夏の雲は岩の如く、
     秋の雲は砂の如く、
       冬の雲は鉛の如く」
と詠んだのは正岡子規。
力強い夏雲と繊細な秋雲が見事に表現されていて、その観察力とあわせた表現力、これも日本人だから出来ること。
秋は段々深まり、鮮やかな紅葉を見せる前の一瞬の静けさだ。
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by hanaha09 | 2015-08-28 18:43 | 田舎暮らし | Comments(0)

男はつらいよ

1969年の8月27日、山田洋次監督・渥美清主演の映画「男はつらいよ」シリーズの第1作が公開された。
ばあちゃんも、じいちゃんも、お母さんも子供もそろって大人気の映画だった。
フーテンの寅さんがはじめて登場したのはテレビドラマ、この最終回では寅さんは死んじまった。
視聴者の反響は納まらず、映画で復活がなされた。
そして、年を重ね48作も製作されたそうだ。
よくもこれだけ題材が続いたと思うのだが、高度成長期にどこかへ置いてきた日本人の生き様の何かがみんなの心を動かしたに違いない。
第25作の「ハイビスカスに花」編の冒頭にはこんなシーンが登場する。
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題字の向こうには浅間山。
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寅さんが怪盗ねずみ小僧になった夢のシーンから目が覚めて、やおら小屋から出てきたところ。
この小屋は嬬恋村需要文化財に指定されている「鎌原の郷倉」だ。
間口2間余りの小さな建物だが、これは江戸時代に建てられた備荒貯穀(蓄えた食糧で飢饉の際には村人たちで分けて飢饉をしのごうとした)のための倉。
倉は蒸篭つくりといわれる板を組み合わせた堅牢なつくり、その上に土壁を塗り断熱と防火を兼ねた。
屋根は高い吹き抜けで風にも強く、吹き通った風で湿気も防いだ。
また、傾斜が強くつけられたのは積雪の際の工夫かもしれない。
この倉が建てられたのは天明8年(1788年)、天明3年の「浅間泥押し」で畑・家、すべてが土砂の中に埋まってしまった大災害からたった5年後のことだ。
荒れ果てた畑ではそう簡単に収穫が得られたとは思わない。
大災害を経験した鎌原の村人たちはなけなしの粟、ひえなどの穀物を供出、備蓄し、飢饉に備えた。
フーテンの寅さんはその後彼女を追って沖縄までいくが、旅の行きずりにうたた寝をきめこんでいた倉はものすごい歴史を物語る倉だったのだ。
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by hanaha09 | 2015-08-27 17:43 | 田舎暮らし | Comments(0)

江戸の洪水

処暑を過ぎると本格的な台風シーズン。
このところ台風15号の影響か、雨がしとしと、肌寒い。
今朝の外気温は13℃、あわてて冬の長袖の服を探し出してきた。
台風といえば洪水、江戸の町も災害に何度と無くみまわれた。
特に天明年間は多くの洪水の記録が残されている。
天明3年には浅間山大爆発によって生じた土石流「浅間泥押し」が発生した。
「浅間泥押し」は鎌原村を押しつぶし、吾妻川を東に流れ、渋川で利根川に達した。
その後は五料の関をなぎ倒し、太平洋岸の銚子まで達した。
江戸川にも流れ込んだ大量の土砂は川底を押し上げ、その後の江戸洪水の原因ともなった。
天明6年8月23日(新暦)、江戸で未曾有の大洪水が起こった。
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大暴風雨という事で、今で言う台風のことと思われる。
江戸幕府直轄の永代橋と新大橋が流されて無くなってしまう。
隅田川両岸周辺が浸水し、8月27日には再び浸水する被害をもたらした。
8月29日には青山、牛込など高地にある地域までも浸水した。
江戸近郊は「一面海の如し」と言われるような被害になってしまった。
この大洪水で時の老中、田沼意次が進めていた印旛沼の開拓は失敗し、失脚した。
「浅間の泥押し」は江戸の町民たちにも大きな影響を及ぼし、また日本の政治の1ページをも書き換えてしまった。
まさに活火山、浅間山は大変な山なのだ。
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by hanaha09 | 2015-08-26 19:43 | 田舎暮らし | Comments(0)

ポンペイの日

紀元79年8月24日。
ポンペイでは、その日も朝から太陽が容赦なく照りつけていた。
ヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。
ポンペイの街は降り注ぐ軽石で4mに及ぶ層でうづめつくされた。
そこにやってきたのはポンペイ壊滅の致命傷となった2mもの火砕サージだ。
襲ってきた火砕サージは時速100kmとも200kmともいわれている。
その温度は200度にも達していたようだ。
およそ2,000人もの住民が犠牲になった。
残された人々はすべて街を去っていった。
そして、2,000年もの後に、6mの火砕物の下に当時のポンペイが発掘によって甦った。
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当時の普段の生活様式と共にポンペイレッドと呼ばれる鮮やかな色彩の壁画が目の前に現れたのだ。
絶え間なく降る軽石、高温の火砕サージに耐えて残ったのだ。
用いられた絵の具は石灰とロウを加えた石鹸水に色を混ぜ合わせたものだとわかった。
また、その美しさを長期間にわたり保てた秘密は実は火砕流堆積物にあった、というのだ。
火山灰を主体とする火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、絵の具の劣化をきたす湿気を吸収したのだそうだ。
ポンペイの街を消し去った火山からの噴出した火砕物、襲い掛かった火砕流、これらが2,000年もの間壁画を護り続けた、というのだ。
なんとも不思議な話だ。
同じような運命にあった嬬恋村をみじかにして、なんとも興味あるポンペイの街だ。
行って直に触れてみた一心だが、この歳ではもうはるかに遠い世界のようだ。
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by hanaha09 | 2015-08-25 22:42 | 田舎暮らし | Comments(0)

伊400

第二次大戦終了後、日本の潜水艦がハワイに回航された。
当時、米軍が驚愕したといわれている帝国海軍の当時世界最大であった伊400型潜水艦だ。
大戦中に注目されていたのはドイツの潜水艦Uボート、連合国側の補給商船隊の脅威になっていた。
日本海軍も潜水艦を有していたが、なんとも影が薄い。
これは日本海軍の潜水艦、操船技術が劣っていたのではない、作戦が劣っていたのだ。
これを覆したのが終戦も近くなった昭和20年正月に竣工した伊400型潜水艦。
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山本五十六の発案で計画された、アメリカ本土、ニューヨーク・ワシントンを直接攻撃目的とした、潜水艦空母だった。
伊400型潜水艦の全長は122m、Uボートの約2倍。
艦の体積をあらわす排水量は6560トンで、Uボートの約8倍。
メインのディーゼルエンジンは4基で7700馬力、Uボートの2.8倍もあった。
驚くべきは、攻撃用魚雷搭載航空機を3機も搭載、甲板上には圧縮空気式のカタパルトを備えた滑走路が設けられていた。
安全潜航深度は100m、50秒ほどで急速潜航できたそうだ。
燃料搭載量は重油1667トン、16ノットで31000海里の航続が可能、これは日本よりマゼラン海峡を経由してアメリカ本土までを十分に往復できる距離だ。
日本海軍が開発した技術は、水中に停止したまま深度を一定に保つ自動懸吊装置、潜航中にタンクからの重油の漏洩を防ぐ重油漏洩防止装置。
そして、潜水艦に航空機を搭載した世界唯一の海軍であった。
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残念かどうか、同型艦3隻が就航したものの、戦局が芳しくない状況でいずれも具体的な戦果をあげる前に終戦を迎えた。
回航されたハワイでは米軍関係者により伊400型は徹底的に設計思想・技術・性能に付き調べ上げられた。
その結果が現在就航中のミサイル発射装置を備えた米海軍原子力潜水艦に行きついた、といわれている。
当時、米軍でそのまま就役との考えもあったが、ソビエト軍からも見聞要請があったと同時にハワイ沖30kmに魚雷により沈められた。
この沈没潜水艦が2005年より2013年のハワイ大学などの捜索で600mの海底から発見。
今年夏には長崎県五島列島沖では同型の3号艦が海上保安庁の観測船により発見された。
通常型では世界で最優秀と言われる現代の「そうりゅう」型海上自衛隊潜水艦、こんな歴史もあったのだ。
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by hanaha09 | 2015-08-24 15:27 | 田舎暮らし | Comments(0)

処暑

本日は二十四節気でいう処暑。
太陽黄径150度、立秋から数えて15日目頃。

陽気とどまりて、初めて退(しりぞ)き やまんとすれば也 (こよみ便覧)

萩の花が咲き、山栗やらお米が実り始め、 厳しい暑さは峠を越し、朝夕は涼風が吹き始め、浅間高原には早朝に白い露・霧が見られるようになる。
畑ではとうもろこしやら枝豆やらズッキニが採れた。
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このあたりでは、害虫が来ないので消毒薬を撒く必要がない。
牛糞堆肥を最初に入れただけで化学肥料もやらない、安心して食べられる野菜だ。
そして、このころは二百十日、二百二十日と言われ、台風がやってくる季節だ。
今も双子台風が接近中、雨がぱらつき始めた。
なんとなく、残り少ない夏の季節が恋しく感じられる時期でもある。
南北朝鮮のいさかい、北方領土での難問、バンコクの連続爆破事件、また中国で開かれる戦勝記念日等々、お盆の夏休みが終わり現実の世界情勢はあわただしくなってくるばかりであります。
夏バテ、胃腸の弱った体に食中毒のおきやすい時期、ダイコン擦りと秋刀魚の塩焼き、焼きナスのしょうが醤油つき...お奨めだそうだ。
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by hanaha09 | 2015-08-23 08:53 | 田舎暮らし | Comments(0)

薪割り迷人

今年はサボってまだ薪割りが出来てなかった。
薪の準備で一番楽しいのが薪割り。
スカッとさわやか、ストレス解消だ。
まず、玉切りしたコナラを薪割台に乗せる。
周りからよーく眺める、節の付き具合、中の木材繊維の状況を推察するのだ。
薪にはいわゆるスイートスポットがある、どこでもたたけば割れるものでもない。
節がある、つまり繊維がまっすぐではなく複雑にいりこんだところはなかなか割れにくい。
こんなところをはずして割るのがコツだ。
次に、こんな木口の割れ目を見つける。
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このワレメちゃんをめがけて斧を振り込む。
うまくいくとパカっと見事に真っ二つ、最高に気分の良い一瞬だ。
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パカーンという感じがスイートスポットにはまった時、ブスっという感じは節などがあって真っ二つには割れない。
まったく歯が立たないときには、ポカーンっと斧がはじかれる。
枝分かれ、節のあるやつ、根っこはなかなかしぶとい、でもがんばる。
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裏から一撃を加えたり、横にして斧を振るったり、がんばってこんな風に割れるともう満足感でいっぱい。
最近までF=mαを信じて重い斧をいっぱいに振り回していた。
このスイートスポットを会得したのが最近のこと。
斧は短く、鋭く、正確にスイートスポットをねらうことが肝要だ。
薪割りもゴルフも女もコツは皆一緒だ。
迷人芸に到達するのがちょっと遅すぎた。
でも、ビールが旨い。
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by hanaha09 | 2015-08-22 13:15 | 田舎暮らし | Comments(0)