ブログトップ

あるちゅはいま日記

hanaha09.exblog.jp

<   2015年 03月 ( 31 )   > この月の画像一覧

クレヨン

「crayon」と仏語翻訳サイトで入れれば「鉛筆」と日本語翻訳が出来る。
英語の「crayon」はフランス語の「crayon pastel, パステル鉛筆」の略。
絵を描く鉛筆、たしか、幼稚園まではクレヨン、小学校へあがるとクレパスになった覚えがある。
クレヨンは顔料と蝋を混ぜ合わせて固めたもの。
大正6年に群馬県桐生市にある「王様クレヨン商会」がクレヨンを発売を始めた。
b0126549_20142929.jpg
幾多の変遷はあったものの、大正10年頃、クレヨンが子供たちの描画には最適であることが知られ大流行となった。
成城、慶応幼稚園、学習院、自由学園、玉川学園などのためにクレヨンを供給していたそうだ。
日本の歴史を背負った人々がこの王様クレヨンを使っていたのだ。
時は1929年(昭和4年)、かの六合村にあった群馬鉄山が日本鋼管鉱業による本格的な採掘に先立って富士塗料が採掘を始めていた。
採掘された褐鉄鉱から赤色顔料を得ていたようだ。
この顔料が王様クレヨンに使われていたのだそうだ。
平成10年に嬬恋村今井地区にある、東平縄文遺跡から土器が見つかった。b0126549_20351673.jpg
「赤色塗彩浅鉢形土器」、九角形のその上のふちには赤色酸化鉄(ベンガラ)により、見事な赤に彩られていた。
縄文時代の先達たちは嬬恋村近辺の鉄鉱石鉱山をくまなく歩いてはその顔料を見つけていたに違いはない。
色彩を彩る技は縄文時代からの伝統技術だったのかもわかりません。
[PR]
by hanaha09 | 2015-03-31 20:42 | 田舎暮らし | Comments(0)

mafia

マフィアといえば「アンタッチャブル」だ。
アメリカの禁酒法時代の暗黒の街の支配者とFBIの戦いを描いた映画だ。
モノトーンに近い感じがアメリカ合衆国のジレンマを滲み出させる様なおもしろい映画だった。
「男が不健全な酒場に入り浸って家庭生活に支障が出る、諸悪の根源は酒にある」、こんな批判で1920年(日本では大正9年)にアメリカ全土で禁酒法が施行された。b0126549_9532987.jpg
この法律でアメリカが健全になったかというと、まったくの逆。
酒を禁止したことにより、酒の密造や密輸が増え、酒をめぐる犯罪が一挙に増加した。
その中で、カナダからの酒の密輸を一手に取り仕切っていたのが、シカゴを根城にしていたマフィアの親玉、アル・カポネだ。
イタリア系移住民の子供であるAl Capone、英語読みをするとアル・カポーンだ。b0126549_955301.jpg
アル・カポネ一味は対抗勢力を次々と葬り去り、政治家や警察、裁判所まで買収し、悪の世界を牛耳っていたのだ。
カポネの稼ぎは年間1億ドル以上(当時の日本円で160億円ほど)にものぼったが、貯蓄はほとんどなかったそうだ。
博打やパーティ、贈り物に使い果たしたそうだ。
一方、シカゴの貧しい人たちに無料で食事を提供したり、感謝祭には5000羽の七面鳥を配ったりもした。
これは、地元の商店に大半を負担させたり、逮捕逃れという面もあったそうだが、良いにつけ悪いにつけ当時の超大物として君臨した。
そこに現れたのがFBIの「アンタッチャブル」、買収の効かない人たちという意味だ。
かくして、アル・カポネは逮捕され、刑務所生活を送ることになるが、刑務所内でも外と代わらないような豪勢な暮らしを過ごした。
が、若きころにシカゴの売春婦よりうつされた梅毒が進行、「モップを持ったイタリア人」といわれた風呂場の掃除担当、ただ生きているだけという不遇な生活が押し寄せた。
1947年、脳卒中と肺炎を併発し48歳で駆け足の人生を終えた。
彼ら、イタリアのシチリア島を起源とする組織犯罪集団をマフィア(mafia)と称し、彼らのグループはファミリーと呼ばれる。
mafiaとは「Morte ala francia itaria anela(すべてのフランス人に死を、これはイタリアの叫び)」の各単語の頭文字を並べたものとも言われている。
3月30日の今日は今から800年以上も前の1282年、復活際の翌日の祈りのために教会前に集まったイタリア女性に襲い掛かったフランス兵を夫たちが皆殺しにした「シチリアの晩鐘事件」の勃発した日だ。
そして、フランス国の占領下にあって苦しんでいたシチリア全土に氾濫が拡大、「Morte ala francia itaria anela」を合言葉に4000人以上のフランス人が殺害されたという。
mafiaの掟が理解できそうな出来事だ。
[PR]
by hanaha09 | 2015-03-30 10:16 | 田舎暮らし | Comments(0)

房事養生鑑(ぼうじようじょうかがみ)

江戸時代には夜の灯りのための「菜種油」が盛んに用いられるようになった。
北信州の千曲川沿いに菜種が多く栽培されていた。
長野の須坂に拠点を構えていた豪商、田中家はこの菜種油の商いで財を成したとも言われている。
この菜種油はもっぱら運送経路の短い信州須坂から鳥居峠、嬬恋村を経て江戸へと運ばれていた。
この信州街道は別名「油街道」とも呼ばれていた。
しかし、江戸庶民にとってははるばる馬の背で運ばれてきた菜種油は結構高価なもの、たいていの長屋住民は日の暮れと共に床についた。
長い夜を過ごすには江戸町民は精力を酷使したようだ。
そのうち、生活が安定したためか、体をいたわり長生きのために養生法が唱えられ、健康への関心が高まってきた。
そして江戸後期、歌川国貞画といわれる『飲食養生鑑(かがみ)と房事養生鑑』の錦絵が人気を博した。
b0126549_933119.jpg
これは臓器の働きを擬人化して、体内の様子をコミカルに描き表わしたもの。
当時、悪い病気は飲食と房事(性生活)の不摂生で起こる、と考えられていたことから、その二つを正して健康に長生きしよう、といった趣旨で描かれたものだそうだ。
特に、腎は精神の宿る命門であるという。
精子はここで造られると信じていた。
子孫を求めるための肝要の器官である。
腎を大切にするには房事にふけらず、身をつつしみ、養生をせよという。さもなければ腎虚(房事過度などのために衰弱すること)になる、と。
そして、江戸の学者、貝原益見は著書「養生訓」で、
・20代では4日に1回
・30代では8日に1回
・40代では16日に1回
・50代では20日に1回
・60代では性交しても射精しないほうが良い、どうにも元気な人は月に1回程度…
と、たしなめている。
古代の神様といい、大江戸町民といい、さすが日の本の先達たちの元気・活力には脱帽でございます。
わが身を振り返って思ったこと...
[PR]
by hanaha09 | 2015-03-29 09:48 | 田舎暮らし | Comments(0)

スパゲッティの食べ方

イタリアの映画を見ていると昼ごはんはたいていがスパゲッティとワイン。
このスパゲッティ、お呼ばれの時など日本人にとっては結構面倒だ。
長い麺をずるずるとすするともうあちこちがケチャップだらけになる。
ケチャップだらけの口でワインを傾けるとグラスの淵にはべったり模様がつく。
と、いうことでスパゲッティーの食べ方が指南されることになる。
b0126549_2295432.jpg
まず、スプーンが一緒に出されなかったらこれをお願いする。
フォークに少量をつかみ、スプーンの上で時計回りにくるくる回して巻きつける。
b0126549_22111161.jpg
大きな口をあけて食べるのだが、歯医者のときのように大きくあけるとバカに見える。
b0126549_2217533.jpg
口の周りについたケチャップはナプキンで頻繁に拭く。

ところが本場イタリアのその昔、17世紀頃の庶民はパスタを手で掴んで食べていたそうだ。b0126549_22222872.jpg
この手がそのまま、フォークとスプーンになった。
片手ででも、きる、混ぜる、選ぶ、つかむ、突き刺す、口に運ぶことの出来る、日本伝統の箸使いの技、作法は世界文化遺産に登録してもおかしくないもののようだ。
[PR]
by hanaha09 | 2015-03-28 22:36 | 田舎暮らし | Comments(0)

4U9525便

b0126549_18173867.jpg
やっぱり、落っこちたのはLCC(LowCostCarrier)。
フランスの検事当局は早々と副操縦士の犯行説をぶち上げた。
A320はLCC航空会社の人気機種。
製造はエアバス社、フランス、西ドイツ、それにイギリスとスペインを加えた4カ国体制の飛行機会社。
後発ながら、いまやアメリカのボーイング社と火花を散らす商戦を繰り広げているところだ。
A320がLCCに好まれるのは小型、燃費、飛行距離がLCC航空路にぴったり、そしてリース会社が大量発注しているので安い、速く手に入る。
GermanWingsのA320事故機は1990年11月29日の初飛行だ。
ルフトハンザ航空で翌年より運行、2003年7月にGermanWingsへ転籍、そしてその翌年にはなぜかまたルフトハンザ航空に里帰り、現在に至っている。
事故当日の前々日、3/22日の飛行は、ヂュッセルドルフを7:58に出発Palma de Mallorcaまで往復して12:53着、14:05には再びロンドンまで往復して17:03到着、18:02には今度はベルリンまで往復して20:49着。
前日の3/23にはヂュッセルドルフを15:51にマドリッドへ向けて出発、マドリッドから帰ったのは21:28。
そして、事故当日は6:01にヂュッセルドルフをバルセロナに向けて出発、バルセロナに7:57着、1時間ほどの滞在時間で9:00にヂュッセルドルフに向けて出発、そのままになった。
「飛行機のお仕事」は大変なのだ。
ストレスがたまらないとは言い切れない。
ヂュッセルドルフーバルセロナ間の3/24の運賃はわからないが、5月には39.99ユーロ(5,200円)ほどの安売り運賃となっていた。
[PR]
by hanaha09 | 2015-03-27 20:22 | 田舎暮らし | Comments(0)

ヴェガ号航海誌

b0126549_20451100.jpg
今をさかのぼる120 年前の明治12年(1879 年)9月2日、スウェーデン国旗を掲げた300トンの蒸気船ヴェガ(Vega)号が横浜港へ到着した。
アドルフ・エリック・ノルデンショルド(Adolf Erik Nordenskiold)提督率いる30名の北極探険隊は、北東航路(北極海)を通りストックホルムから横浜までの航海に初めて成功したのだ。
到着後、9月15日には、北白川親王、東伏見親王、アメリカ公使、イギリス公使、ロシア公使など総勢 130名以上が参加する当時としては盛大な歓迎の宴が東京地学協会主催で開かれた。
皇族・貴族・高官・政治家・学者・実業家など、明治初期の上層階級の人々を会員とした東京地学協会は発足したばかり、著名な外国の科学者を歓迎することによってその名を世に知られることにもなった。
その席で、ノルデンショルドは東京地学協会の会長である北白川親王に対して、学会の派遣による日本の遠征隊を北西航路で東アジアからヨーロッパへ、また北極探検隊などを送るように勧めたそうだ。
9月17日にはノルデンショルドは明治天皇の接見を受けた。
そして、9月28日には浅間山を目指している。
彼が後年書き残した「ヴェガ号航海誌」には次のように書き残されている。

「1879年9月28日浅間山行き、馬車でナカセンドーをタカサキへ向かう。
タカサキでは 何処も泊めてくれず、警官の紹介でやっと一泊できた。 
翌日人力車で伊香保へ向かう(5時間)、伊香保でスウェーデン製マッチ発見・ニセモノも多し。
籠で沢渡へ向かう(10時間)、座れないので足を投げ出す。
草津へは籠や馬を乗り継いだ、混浴に驚く。
10月3日浅間山へ向かう、六里カ原で野宿し4日浅間山頂を目指す。 
その後追分村に泊まり、馬車でタカサキへ帰路。」

その後10月11日に、ヴェガ号は横浜を出港し神戸に向い、長崎を経て南ルートでストックホルムに帰った。
高崎では宿に難儀したこと、すでに寒くなった季節での六里ヶ原の野宿、大変な旅だったようだ。
ノルデンショルドは、忙しい滞在期間中になぜ、長時間をかけ、苦労をしてまで浅間山まで出かけていったのだろうか。
1883年(明治16年)には北白川親王が浅間高原を切り開き軍馬の育成を目指した牧場(現在の浅間牧場)を開設している。
ひょっとすれば、東京地学協会の会長であった北白川親王が歓迎の宴の会場でノルデンショルドに浅間山探検を薦めたのかもわからない。
一度ゆっくり読んでみたい「ヴェガ号航海誌」だ。
もう古本しかないそうだ。
[PR]
by hanaha09 | 2015-03-26 21:41 | 田舎暮らし | Comments(0)

ホッチキス

太平洋戦争の真っ只中、群馬県高崎市に零式戦闘機の尾翼部品メーカーとして山田航空工業(株)が誕生した。
終戦と共に山田興業(株)と改称、事務機の生産に転じた。
戦後間もない時代、書類をとじるにはキリで穴を開け、黒いひもで結ぶのが一般的だった。
そこに山田興業から尾翼部品ではなく3号ホッチキスが世に送り出された。b0126549_22245138.jpg今では“当たり前”なホッチキスも、当時は「文具界の3種の神器」の一つと言われた画期的な商品だった。
会社に入社したときにこんなのが脇机に置いてあったのを思い出す。
そして、昭和27年に発売された小型ホッチキスは、社名の変更にともない昭和29年には「MAX・10」と名称が変わった。
やがて、ホッチキスは一人1台の時代となり、「マックス」とホッチキスは同義語になった。
いまや、この小型ホッチキスの生産は年間1000万台、マックス製品が75%を占めるそうだ。
タイ王国へ行けばホッチキスはマックスに名前が変わる。
b0126549_21554044.jpg

「グンマー」もなかなかやるもんだ。
昔、このマックスで破れたズボンの端をがちゃがちゃととめていた。
われながらのアイデアと思っていたら...
戦時中に生産されていたホッチキスはなんと軍服の補修用として軍隊の必需品だったそうだ。
最近では、引っ張れば落ちる「突っ張り棒」の台座を壁にホッチキスでがちゃがちゃとめるとぶら下がっても落ちなくなるそうだ。
それにしても匠の技で製作された小型ホッチキス、長持ちするもんだ。
[PR]
by hanaha09 | 2015-03-25 22:47 | 田舎暮らし | Comments(0)

小野小町

b0126549_21203183.jpg
小野小町は、六歌仙・三十六歌仙にも数えられる才能あふれる歌人、希なる美貌の持ち主として、数々の浮き名を流したと伝えられている。

群馬県富岡市の鏑川河畔に得成寺がある。
こんな伝承が語り伝えられている。
霧深い初夏の朝まだき、前橋の(当時は上野国蒼海郷)釈迦尊寺に、笠を目深にかぶった一人の老尼僧が訪ねてきたという。
京の都より出羽の国を目指しての旅の途中で眼病を患い難儀をいたしておりますと、住職に幾日かの厄介を請うたそうだ。
住職は、深草の少将を九十九日も通わせ続けたといわれていた、小野小町の老いた姿は、もののあわれに胸がうたれた。
そして、この老尼を快く庫裏に迎え上げ、介抱をしたそうだ。
その後、住職の勧めで小野小町は富岡市の鏑川の小野の郷にあるお薬師様の湧き水で毎日水で目を洗ったという。
そうしてしばらく養生するうち眼も癒えた小町は、「南無薬師諸病悉徐の、願かけて、身こそ仏の名こそ惜しけれ」そう詠むと、いずこともなく立ち去っていったという。
そして、得成寺には一体の小さな、木像が寺宝として伝えられている。
しわだらけの老婆が破れ衣に身を包み、しなびきった乳房もあらわなそのすがた、一本の杖を頼りに上を見上げて放心したように立っているその像、見るだに、醜怪といわざるを得ない老婆の木像だ。
それが、あの、小野小町の老いさらばえた姿だというのだ。
b0126549_22185733.jpg

花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に
                    『古今集』
[PR]
by hanaha09 | 2015-03-24 22:26 | 田舎暮らし | Comments(0)

まぼろしの鉄道

JR吾妻線の羽根尾駅。
b0126549_16351535.jpg
この駅が出来る前に草津温泉をつなぐ一大鉄道の計画があったそうな。
b0126549_16372054.jpg
1963年横河-軽井沢間の碓氷新線開通にともないアプト式の旧線(11.2km)が廃止されその設備が撤去された。
草津町ではこの翌年、長野原より嬬恋まで延長される国鉄新線の羽根尾駅より草津温泉までの鉄道新設計画を打ち上げた。
羽根尾駅より草津まで全長9.8kmのうち急勾配区間7kmを碓氷旧線のアプト式鉄道の線路、機関車をそのまま譲り受けて敷設しようという試みだった。
羽根尾駅の標高は670m、草津温泉の湯畑が1150m、およそ50m/1,000mの登り勾配となる、アプト式鉄道にぴったりだ。
このため碓氷旧線の撤去に当たっては、軌条・ラックレール・サードレールなどは再利用を考え丁寧に撤去されたそうだ。
草津町では、仮称「草津鉄道株式会社」の設立、草津町での出資、国鉄嬬恋線(現在の吾妻線)完成にあわせての建設の計画が進んだ。
しかし、当時の国鉄は「うん」とは言わなかった。
草津町のもくろみは頓挫。
そして、今は長野原駅から草津温泉まで当時の国鉄バス、今のJRバスがその代わりに湯治客、観光客の足となっているのだ。
[PR]
by hanaha09 | 2015-03-23 16:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

和讃

b0126549_22154092.jpg
郷土資料館へ講演を聞きに出かけたが少し時間があったので横にある「かんばらかんのんどう」へおまいりに行った。
ちょうど地元の人々による和讃の集いが行われていた。
b0126549_2215041.jpg

鎌原は1783年に「天明三年の噴火にともなう大土石なだれ」によりこの村はほぼ壊滅状態となった。
多くの犠牲者を生じ、わずかに残った生存者をもとにうずもれた村の上に見事に復興を成し遂げた。
そして、噴火の大災害から231年経った今でも犠牲者の供養がつづけられているのだ。
月2回の各家庭を回っていく「回り念仏」、それに月1回の観音堂での和讃が何十年と引き継がれているのだそうだ。
鎌原地区は、今では嬬恋村では2番目の大集落となったそうだ。
しかし、天明の浅間焼け大災害及び復興の努力は忘れてはならないことであり、防災に関しても怠ってはならず、犠牲者の人々を供養する気持ちは次世代に伝えていかなければならないのだ。
[PR]
by hanaha09 | 2015-03-22 21:46 | 田舎暮らし | Comments(0)