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あるちゅはいま日記

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静かなる浅間山

平穏な静けさに慣れてくると何もかも忘れてしまうのが人の常。
浅間山もこのところ静かなる朝を迎えております。
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噴煙もあまり見かけません。
火山性地震も火山性ガスも非常に少ない状態で経過が続いているそうです。
しかし、このデーター記録を見てみますと...
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2004年末、2009年2月のそれぞれに小噴火を起こしているのです。
4年周期でやってくる?となるともうそろそろ。
寒いので防寒具にホッカイロ、ガスコンロ合わせて、ポケットウイスキーを用意しときましたね、もちろん避難用です。
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by hanaha09 | 2012-11-30 10:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

碓氷峠のパイプライン

碓氷峠は中山道で上州と信州を隔てる大難所だ。
横川と軽井沢間はたかだか10kmたらずの距離だが標高差が550mほどになる。
明治18年には直江津-軽井沢および横川-高崎間の鉄道が開通、しかし碓氷峠の難所ゆえ工事自体が放り出されていたのである。
そして明治26年4月にアプト式鉄道をドイツより導入、開通を迎えた。
初の本州横断鉄道が開かれたのだ。
まだ上越線も開通を見ていないこの時代、東京へ向かう北越、越後の貨物がこの峠にどっとなだれ込んだ。
その貨物には新潟で産出される重油が含まれていた。
東京の夜にともされるランプ用石油の需要が膨らんでいたのである。
ところが開通後間もなく碓氷峠の横川、軽井沢には滞貨の貨物が山積みになった。
我が国初のアプト式線路の運転はそう簡単ではなく、一列車の牽引力はおよそ100トン、客貨車5両程度。
横川ー軽井沢間を1時間半、時速は8km程度であったのだ。
急こう配のトンネルはまさに煙突、蒸気機関車の煤煙は列車とともに上へ上へ、まさに煙との戦いであった。
こんな中で石油搬送タンク車は安全を考え両駅間に滞り納期は大幅に遅れ、輸送幹線としてはほど遠かった。
そんな状況を憂えた軍部が決定したのは軽井沢-横川間に石油輸送用のパイプラインを引くことであった。
明治39年になって11kmにわたり線路沿いに埋設重油パイプラインが完成した。
軽井沢から横川までおよそ1時間半で重油は無事に流れ下った。
また再びタンク車に積まれ東京へ向かった。
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このパイプラインの配管はドイツより輸入された継ぎ目なし鋼管がもちいられ外周にはアスファルトをしみこませたジュートがまかれ腐食防止がされていた。
今日の技術にも見劣りしないものである。
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大正3年まで石油輸送の幹線ルートしてこの碓氷峠を日夜問わずに静かに重油が流れ下っていたのである。
このパイプラインは撤去されたもののまだ一部には埋設されたままにもなっているそうだ。
煉瓦積みの橋脚の横に残された架台はこのパイプライン用であったかもわからない。
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開国まもない明治の技術者たちの誇れる近代化技術遺産に間違いない。
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by hanaha09 | 2012-11-29 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

弘法水の云われ

平安時代初期の真言宗の開祖、弘法大師。
四国の讃岐国多度郡屏風ヶ浦に生まれ、四国一円で修行を続けた。
その足跡は今の時代にも四国八十八か所参りとして数多くの信仰者を集めている。
後に遣唐使留学僧として長安で修行、その後朝廷より高野山を賜り61歳にてその地に入定したと伝えられている。
この嬬恋村の三原集落にも「弘法水」と呼ばれる湧水が時代を超えてこんこんと湧き出ている。
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弘法大師が杖をつくと湧き井戸となった、といった弘法水の伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼるといわれている。
山形から長崎まで弘法大師が発見されたとする温泉も数十か所にもおよぶ。
群馬県にも上原謙と高峰秀子の混浴ポスターで一躍有名になった「法師温泉」がある。
各地に残る「弘法大師」伝説は「お大師さま」個人のとった足跡とは必ずしも一致しない。
中世、日本全国を勧進して廻った遊行僧である高野聖(時には怪しげな山師でもあったそうだ)の存在もあるそうだ。
やはり「お大師さま」の幅広い分野での活躍、そして尊敬の念がその伝説形成にあると考えられる。

「お大師さま」のすごい法力はこんな街中の口上話にも...
ある日の夕方、豆を煮ているのを見た弘法さん「その煮豆を少し分けてくれないか」とお願いした。女房は惜しくなって、「これは馬に食わすもので、人間が食べるものでない」と断った。すごすごと弘法さんは立ち去った。
 さてこの豆を亭主に食わせると、ふしぎや亭主の身体が馬になってしまった。驚いた女房が、息せき切って、弘法さんに追いつき、ころもの紬にすがりまして、「お坊さま、許して下せえ、情けだからと涙を流して懇願した」。弘法さんもかわいそうになって、女の家に行くと、家の中に首うなだれた馬が悲しげにたたずんでいた。
 馬になった亭主の前へ進み出で、数珠サラサラと押しもんで、口中に真言秘密の呪をとなえた。
 その法力はたいへんなもので、長い顔がまるくなり、首から肩へ、次に前足が手になるといった具合に、上のほうからだんだんに、人間の姿にもどってまいります。女房伏し拝みながら見ていると今、ちょうど、ヘソのあたりを通り過ぎ、法力が足の間のところまで及びましたとき、
「あ、ちょっとお坊さま、そ、そこのところだけは馬並みにしといてくだされ」。
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by hanaha09 | 2012-11-28 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

長寿の秘訣

江戸時代には成人した人の平均死亡年齢は50歳くらいであったらしい。
なかには因幡の国の郷士鎌部儀左衛門はその長寿を祝し永代15人扶持を与えられたとの記述が残っている、その年齢はなんと183歳とある。
その妻も171歳、子に孫にひ孫に玄孫、その子供まで含めて六世代一家12名が健在、それぞれに銀30枚をもらったとある。
こんな年齢は超サバ読みに違いないが人々は桃源郷のような超長寿者が穏やかに暮らす極楽を夢見て畏敬の対象としたようだ。
一方、武家の社会では17歳以下の当主がなくなればお家断絶の決まりもあり、実子の年齢もサバ読みするのが当たり前、官年と実年が公私ともに使い分けられていたのである。
お上から下々まで年齢のサバ読みは別に不思議なものではなかったのだ。
人生50年といわれたこの時代、初代将軍徳川家康は75歳の長寿を全うした。
家康には生涯元気印で生き抜く秘訣があったのだ。
まず、食事は一汁1菜、主食は麦飯と豆味噌という質素なものであった。
多くの栄養素がいっぱいに含まれる旬のものを中心に食べた。
そして、体をを鍛えるために鷹狩りを欠かさなかったそうだ。
得られた獲物は食べた、しっかりと動物性蛋白質も摂っていたのだ。
また、家康は医学書を常に読んでいた、自ら薬を調合し服用するとともに家来にも与えた。
薬をもらった家来は感謝の意から家康に薫陶していった。
自ら調合した万病丹と銀液丹という毒薬を『極極少量』飲み続けた。
毒に対する耐性を自らの体に与えるとともに、どうもこれが強壮強精薬になることを知ったのだ。
おかげさまで16人を超える側室を擁し、男子11名、女子5名の子宝に恵まれたのである。
ただただ72歳で淋病に梅毒を発病、最後の死因は『胃癌』又は『梅毒性ゴム腫』と言われている。
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今の世にも浜松市を元気にするゆるきゃら「出世大名 家康くん」として活躍をいたしております。
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by hanaha09 | 2012-11-27 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

インフレターゲット論

衆議院総選挙があるということなのであちこちにたくさんの党首が出てきてワイワイ喧々諤々。
経験豊富・頭脳聡明な方々ばかりだと思うのだが素人にはさっぱりわからん。
今の日本国民の一番の関心ごとは脱原発でも、TPPでも、消費増税でもない、デフレ脱却・景気回復なのだそうだ。
日本銀行の輪転機を回してお札をどんどん刷れば、円高解消・株価高騰・コントロールされたインフレ・景気回復・税収増加、と声高々に宣言する方もいる。
これをインフレターゲット論というそうだ。
この歳になるまで経済論なるものは学んだこともないし勉強したこともないんですが...
でも思い出すのは戦時国債の後処理で激しいインフレに苦しんだ戦後の日本国庶民。
バブル景気に踊らされ後の地価下落にしょげ返ったサラリーマンを忘れたか。
そもそもデフレの何が悪いのか?
スーパーで売られている弁当が安い、牛丼も安い、ユニクロのシャツも安い。
この円高でガソリンもめっちゃやたらに高くならない。
この前買ったこの中国産のパソコンも安かった。
物価・賃金が下がるので実質金利が高くなる、というならそもそも借金はするな、したものは早く返せばよい。
今の少子化社会構造を考えるともう「ジュリアナ東京」に代表されるようなバブル景気はやってこない。
縮小社会へ向かっていかにうまく着地できるか考えること。
碧空はどこでもだれのところにもやってくる、見ないかただ見過ごしているだけだ。
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と、言いながらその昔1ドル120円で買った500ドルの処分に悩んでいる貧乏人であります。
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by hanaha09 | 2012-11-26 14:54 | 田舎暮らし | Comments(0)

第二回パリ万国博覧会

ナポレオンの大号令でパリのシャンドマルス(エッフェル塔のあるところ)で第二回の万国博が開かれた。
日本は幕末を迎えた慶応三年(1867年)のことだった。
フランス政府の要請により当時の将軍徳川慶喜が初めての出展に応じた。
そして実弟の徳川昭武を中心に25人の使節団を派遣した。
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使節団が帰国した際には戊辰戦争も結末を迎え、慶喜はすでに静岡に幽閉されていた。
幕府開国後最後の外交使節団でもあったのだ。
使節団一行が万国博で目にしたものは、シーメンス社の発電機に電動機、エドウーによる水圧式エレベータ、クルップ社の大砲などの武器類等々。
一行には天地が引っくり返るような光景に見えたことであろう。
そして、日本からの出品はというと、漆器、衣服、陶器、金工品、武器、鉱物、日本画、材木、和紙、昆虫類(クワガタやカブトムシか)だったという。
釣鐘も並べられていた。
その中にはこういう類のものも含まれていたそうだ(せっかくの芸術作品だが法律に触れそうなので下半分をカット)。
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当時の代表的な浮世絵画家歌川国貞、後の豊国三代目の作品が選ばれた。
「藤岡屋日記」(江戸時代のサンスポみたいなものだそうだ)にはこう記されている。
"わらい本ハ春画と言て、戦場ニて具足櫃ぇも入候品ニて、なくてならぬ品ニ候得共(注*1)、若き男女是を見る時ハ、淫心発動脳乱して悪心気ざす故ニ、此本余り錺り置、増長する時ニハ御取上ゲニ相成、御焼捨ニ相成候、其品が、此度御用ニて御買上ゲニ相成、仏蘭西国ぇ送給ふ事、余りニ珍敷事なれバ、母親の子に甘きゆへ可愛がり末ハ勘当する様になし"
と、面白おかしく書かれているが...選んだ江戸の役人さんのやわらかき頭に感服する次第であります。
この時代には倹約令が敷かれておりいわゆる表(おもて)でない絵は特にきらびやかな色彩で彩られひときわ人目を引いていたのである。
これらを目にしたフランスのゴッホ、セザンヌ、マネ、モネ等々写実主義から抜け出そうとしていた画家たちにはびっくり、目が仰天。
ゴッホは優に400枚のこの類の絵を収集していたそうだ。
そしてパリを中心に一挙にジャポニズム旋風が巻き起こったのだ。

(注*1)この類の絵は災難除けの言い伝えがあり甲冑の入れ物にも忍ばせていたそうだ、また戦時中には軍服に縫い付けていたものもいるそうだ。
いろいろな利用法があるものです。
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by hanaha09 | 2012-11-25 20:31 | 田舎暮らし | Comments(0)

りんご収穫祭

今年最後のりんご「サンフジ」の収穫、またまた三水村まで。
本日は例年のとおりふたごつれ。
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今年の「サンフジ」は上出来、玉は大きいし、とても甘い。
またまた登場のヨメさんに逃げられたりんご園のおじさん...「樹が疲れるんでね、来年の出来が心配なんだよねぇ。それにお客さんはこれが当たり前になってね、毎年より良いりんごになるよういろいろ考えていかないと...」
「それに今年はちょっと冷え込みが遅いので蜜が入らないんだよね、収穫時期が難しいんだよ、蜜が入っても甘さには関係ないし味も一緒なんだけどねぇ」
「うちは色づけ用のアルミのシート(お日さんの反射を利用してりんごの下の部分の色付けを促進する)を引かないんだ、あれは見てくれだけで完熟の証拠じゃないんだよね」
世界で栽培されているりんごで一番生産量の多い品種がこの「フジ」、こんなきめ細かい心がけをするのはやはり日本の匠の世界だ。
FTAでもTPPでも何でも来い、というおじさんでありました。
帰りには豊野温泉「りんごの湯」へ。
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最近は盗撮で捕まるそうなのでネットの写真を流用、本当にこんなりんごが源泉かけ流しの湯船にいっぱいに浮かんでました。
やはり、ここも日本でした。
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by hanaha09 | 2012-11-24 10:38 | 田舎暮らし | Comments(0)

勤労感謝の日

昔から1年で一番好きな日であった。
荒波の中で勤めてきた自らを自らでいたわることができる日だった。
飲めや歌えやそれはもっとも解放された一日でした。
今は毎日が日曜日なのでいたわりも慰めも感謝もない。
でも、自分なりに慰めることにしたのだ。
1年ぶりに燻製を作った。
以前作っておいた自家製燻製器はなかなかの優れもの。
P&Gの石鹸用の段ボール箱でできてます、もちろん材料費はゼロ。
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いまだ健在で無事にできました。
材料はスーパーで特売の鶏肉、に4個99円のチーズ。
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ベランダで一人、パック酒に焼酎と一緒に頂きました。
さびしい歳になりましたね。
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by hanaha09 | 2012-11-23 17:18 | 田舎暮らし | Comments(0)

大江戸銭湯物語

江戸の町には銭湯ができた。
1町に2軒ほどはあったらしい。
この銭湯、湯屋と呼ばれていた、この銭湯には貧富にかかわらず諸国よりの出身者、諸職、諸層入り混じって裸の付き合いをしていたのである。
町奉行所の与力・同心も銭湯にやってきた。
もっぱら、朝の女湯に入り込んでいたらしい。
早朝の女湯には客がいなかった、隣りの男湯の世間話を聞きながら町のニュース、事件の裏情報を探っていたのだ。
風が吹けば休業、風呂銭は八文とか十文、二八そばが十六文だったから今でいうと3-5百円見当。
当初は男女混浴であったがそのうち混浴は禁止、覗き見も禁止。
男湯、女湯の区別ができ、女の人もこぞって町湯へ繰り出したそうだ。
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"大声も無(ない)女湯のやかましさ(大声でもないのに誰もが話をするからとてもにぎやかになる様子がうまく詠まれています)"、川柳から。
狭い長屋に住む人々にとっては行楽に行くにも暇も金もなく、銭湯へ行くのが日々の楽しみであったに違いない。
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by hanaha09 | 2012-11-22 16:41 | 田舎暮らし | Comments(0)

夢の島

またまた大江戸物語の本をひもといた。
東京都江東区の夢の島付近、縁があって十数年毎日通った近辺だ。
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そもそも江戸とは家1軒ない草原の地であった。
徳川家康がやってきて天下の総城下町として作られた巨大都市だ。
人口は忽ち膨れ上がり、慶安期(1600年半ば)にはもう莫大なごみ処理の問題が持ち上がっていた。
お触書によりゴミは町住民が共同で処理することとなった。
町民はまたここで考えた。
ゴミを多く出すと川は汚れ、川の泥をさらわねばならなかった。
ゴミを搬出するのにもお金と人手がかかった。
で、町民はこぞってゴミの減量化を図った。
コメのとぎ汁は生活排水として流すより植木にかけるなど細かいところまで気を配った。
川水を汲んで暮らす人もいたし、川で漁をした魚を食べていたのである。
自然をやたらと汚染すれば自らの安全にかかわることを知っていたのである。
それでもゴミは零にはならない、江戸前に埋め立てることにした。
最初にできたゴミによる埋め立て地が永代島だそうだ。
そのうちゴミの埋め立て専門業者が現れ、石川又四郎屋敷の際にゴミを埋め立てることになり、こうしてできた島が石川島、造船所で有名な地だ。
また、榊原越中守屋敷際に捨てることになってできていったのが越中島。
江戸時代から夢の島は延々と築きあげられてきたのである。
いまはこんな南仏を思わせるようなヨットハーバーも出来上がっているそうだ。
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こんな話しを知っていればこの辺の毎日がもっと楽しかったかもわかりません。
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by hanaha09 | 2012-11-21 23:00 | 田舎暮らし | Comments(0)