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あるちゅはいま日記

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マイペンライの「天使の都」

ニュースでは連日チャオプラヤ川からあふれた洪水風景の報道が続いています。
タイ王国の首都「天使の都バンコク」が大変なことになっていますが...
もともとは「東洋のベニス」、水の都なんです。
昔から街には運河がめぐらされ、移動・運搬手段はもっぱら舟。
水上マーケットが今でも名残を残しているわけです。
よって、ちょっと大雨が降ればこんなことに。
4年前に住んでたスクムビット通りのコンドからの眺めです。
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どこへも出かけることはできませんので水が引くまで数時間をじっと家の中で待ち続けるわけです。
タイ人の方たちは半ズボン、サンダル履きですので水の中も平気で出かけます(このサンダル非常に便利、お葬式にも皆さん色とりどりのサンダル履きです)。
雨季には毎度のお話で、これぞ「マイペンライ、マイペンライ」。
で、今回の洪水にもこういう風景になるわけです。
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これはどうも行き過ぎの感がしないでもありません。
座り込んでまでタバコを吸う理由が理解できませんね。
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でも、気をつけなければいけないのが感染症。
バンコクのほとんどの地区には下水道というものがありません。
処理設備は砂を入れたタンクが地中に埋めてあるだけ。
これが紙を流せない理由、もっぱら使用済みの紙はチリ箱に捨てなければいけないわけであります。
つい最近までは左手が役立ったんで水で洗い流せばおしまい、理想的な処理法だったんですけど。
渡航前には成田空港で予防注射を数ヶ月にわたって打ってゆきました。
保険は効きませんので数万円の支払いだったことを覚えてます。
どこに住むにも何らかのリスクが付きまといます。
生きた地球に生きる人類はいつまでも天災、また人災と戦わなければならないわけです。
熱帯気候と建国以来どこからも支配されることなく、多くの国との往来により育まれてきたおおらかな「微笑みの国」気質、学ぶところもありそうなんですがなかなか...
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by hanaha09 | 2011-10-31 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

昨日の一日

朝起きると天気が良かったので烏帽子岳に登ることにした。
一年ぶりに窓ガラス拭きをしたので余計に青空がきれいに見えた。
8時に家を出てキャベツの取り入れもすっかり済んだキャベツロードを走って地蔵峠までやってきた。
すでに駐車場は車でいっぱい、夜中に来てる気配も、思い起こせば10月の最後の土曜日。
まずは湯の丸山を目指して出発です。
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途中で富士山が見えた。
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ほぼ平坦な道をとことこ行くとやっと烏帽子岳が見えてきた。
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急な山道にさしかかるとおりしも霜柱が融けて道がぬかるみ、するっと滑ってしまった。
尾根道に出ると後ろには浅間山。煙が出てないのでよくわからないが一番左手後ろ。
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南方向には八ヶ岳、左の方の小さなボッチは富士山。
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西方向はるか向こうには北アルプス、北には四阿山・根子岳。
最後はこんな坂を登って2,065mの頂上を極めた。
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山の頂では安売り100円の鍋煮込みうどんを食べた。
安物のチリワインもカップで飲んだ、うまい。
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山を降り、奥軽井沢温泉の無料招待券をもらってたのでどっぷり浸かってルンルンで家に帰ってきた。
ポストには法務省からの郵便が入ってた。
中身は「桜散る...また来年」、と。
あーあ、これで山のも含めて5回もすーべった、くしゅん。
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by hanaha09 | 2011-10-30 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

降霜

10月24日は二十四節季で言うところの降霜の日だったそうだ。
露が冷気によって霜になって降り注ぐ候、秋から冬への移ろいの節目です。
昨日の早朝の気温は氷点下。
ちょっと遅めなんでしょうか、初霜が見られました。
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東京においては明治時代には10月の終わりから11月にかけて初霜の観測の記録が。
大正時代には11月に。
昭和に入ると12月、平成に入るとこれが1月になってしまった。
ずいぶんと暖かくなったものです。

冬のジャケットを取り出し、湯タンポの準備に、薪ストーブの煙突掃除...
と、あわただしく過ごしてますとうっすらと汗が。
まだまだ太陽は暖かく、陽が上がるにつれ霜もどんどん融けていきました。
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それにしても秋はあっという間に過ぎてしまいました。
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by hanaha09 | 2011-10-29 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

佐久の草笛

少し冷え込んだが秋空は天高く...
佐久に手打ち蕎麦屋がある、「佐久の草笛」。
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いつも満員、入り口を入ると手馴れたそばの手打ち作業が見える。
地産地消の地元そば粉がうまい、それにざるそばは山盛り(大盛りは注文しないほうがよい)、厚い掻き揚げがおいしい、そば焼酎もある。
そば切りを通じて領民たちとのコミュニケーションを図ったといわれる小諸城主仙石秀久公。
その子孫から伝統のそば切りを古文書から受け継いだという経営者。
「吾唯知足(われ、ただ足ることを知る)」、水戸光圀公が竜安寺の茶席に寄進したといわれるつくばい。
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「知足(分に安んじてむさぼらない)の者は、たとえ貧しいといえども富めり、不知足の者は富めりといえども貧し」という精神を元に蕎麦屋をはじめたそうだ。
蕎麦屋ののれんにはこのつくばいの模様が描かれている。

小諸といえば、島崎藤村が青春を過ごしその作風に大きな影響を与えた。
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千曲川旅情の歌には
「小諸なる古城のほとり...暮行けば浅間も見えず  歌哀し佐久の草笛(歌哀し)...」
とある。
藤村碑のある小諸城跡の懐古園では昭和33年より実に22年間も説教の変わりに草笛をかなで続けたという草笛禅師、横山祖道。
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「雲水の草笛かなし千曲川」
禅師、詩人、俳人、歌人、草笛奏者であるばかりではなく、作曲家でもあられたそうだ。

佐久、小諸の「草笛」、大分理解ができてきました。
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by hanaha09 | 2011-10-28 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

ポンペイ第四話

ベスビオ火山の噴火で一瞬にして埋没したポンペイはローマ時代をそのままに瞬間凍結、「生きている博物館」といわせたのは13人の避難者の発掘・保存にたずさわったマイウリ教授。
悲しみと恐怖と苦痛に耐える勇気が必要だったとも述べている。
ポンペイから10kmほど離れた郊外別荘地ヘルクラネムも日を同じくして埋没してしまった。
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ここからも大変な数の遺骨が発見された。
ここの人骨を分析した研究者が発表したのは鉛中毒を起こすに充分なほどの多量の鉛成分を含んでいたことだ。
ポンペイに引かれた水道には鉛管が使われていた。
ローマ時代にはぶどう酒にグレープシロップを混ぜ合わせていた。
このシロップは鉛びきの鍋でグレープジュースを濃い液体になるまで煮詰められた、生じた錯酸鉛が防腐剤の役目もした。
また、寒い冬にはこのぶどう酒を同じく鉛びきの鍋で温めて飲んだ。
しかも上流階級のぶどう酒消費量は毎日2リットルにも及んでいた。
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壁画に使われたポンペイレッドの塗料、これも鉛化合物。
古代ローマ人、それも支配者階級には慢性的な鉛中毒が蔓延していたようだ。
鉛中毒は関節の痛み・変形、頭痛、不眠症、精神的障害を伴う、また女性にとっては不妊症の原因ともなる。
古代ローマ皇帝の多くが大食漢で大酒のみ、いくつかの鉛中毒症状があらわれていたと見られている。
鉛中毒による為政者の狂気、文化の退廃、上流階級の子孫の根絶が古代ローマ帝国の衰退につながった、という説もおろそかにすることができなくなる。
ただ、中流、下層階級ではぶどう酒の消費量も鉛毒に接する機会も少なく健全に過ごすことができたということだ。
これらの階層が古代ローマ帝国での技術発展を支えていたというのも間違いなさそうだ。

ポンペイもローマも華やかな繁栄と栄華を崩してしまう予期せぬ伏兵の数々。
昔も今も、長生きするには貧乏で自然とうまくお付き合いするのが一番、というところでしょうか...
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by hanaha09 | 2011-10-27 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

ポンペイ第3話

ポンペイに住む多くの市民はベスビオ火山にはどうも無頓着であった。
せいぜいのところ酒神バッカスの住む緑の山としか思っていなかった。
温暖な気候の中、山の頂まで野ぶどうが茂りその香りに満ち溢れんばかりであったようだ。
といって、ベスビオを好んで壁画のテーマにすることもなかった。
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紀元79年、このベスビオは市民の信望を裏切り家もろとも2000年に渡り埋没させてしまったのだ。
その被災の程度は手の施しようがなく、再建はおろか放棄せざるを得なかった。
忘れ去られていたポンペイが光を浴びたのが18世紀になってから。
枯れた井戸を掘り下げようとした農民がなにやら古い時代の美しい白大理石の柱を見つけたことに始まる。
宝石、金貨などを目当てにした盗掘、離宮建築用の石材を求めた侵略者の発掘などなど不幸な時代を経て本格的な調査発掘が始められたのが19世紀も終わり。
現在までにポンペイのおよそ8割が発掘され、古代ローマ時代のあふれるばかりににぎやかな溌剌とした市民の生活が垣間見られることとなった。

ポンペイはその城砦内の狭い範囲にあらゆる栄華の縮図があった。
「輝く商店、宮殿、浴場、市場、劇場や闘技場...市民の活動、腐敗、精美、悪徳に古代ローマ帝国の一大モデルが見られるのである」、とエドワード・リットン(ポンペイ最後の日を書いた小説家)が述べている。
ポンペイ市の人口は円形闘技場の収容能力から2万人程度といわれている。
選挙で選ばれた公職者は無報酬で街の運営、整備に参画し市民の生活をいかに快適に、楽しくするかに腐心していた。
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上下水道、石畳の舗装路そして一段と高くなった歩道、公共広場、外科医に肉屋パン屋に居酒屋、金銀細工師、ガラス細工師...このとき日本は弥生時代であった。
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その中でも大衆によって大事にされたのが公衆浴場。
温浴、冷浴、サウナ、休憩室を設け、午前中に仕事を終えた午後にはポンペイ市民は集い、語り、くつろいでいた。
そして一番の人気が円形闘技場といわれている。
剣闘士同士や人間対猛獣の残虐な死闘が繰り広げられていたようだ。
野外劇場での演劇には熱意がうかがわれず公演があったかどうかもあやしそうだ。
ポンペイ式住居は道路に面して貸し店舗、台所、使用人の部屋、そして中心部に広い吹き抜けの中庭、居間、寝室。
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中庭にはギリシャ風の彫像、壁には神話をモチーフにした大壁画が鮮やかなポンペイレッドで描かれた。
食事は中庭に面した居間で寝そべって食べた。
富裕階級ではその欲望はとどまることはなくインド、紅海へと上等な飲食物を求めた。
地下室にはぶどう酒をいっぱいつめたアンフォラ(陶器製のぶどう酒容器)が積みかねられていた。
ポンペイ市の繁栄の理由は...
緑のベスビオ山山腹でのぶどう栽培によるぶどう酒の輸出。
ローマ帝国の拡張とともに販路は絶え間なく広がった。
当時のワインの消費量は一日一人当たり1から5リットルとも推測されている。
それに海で取れる魚の魚醤、秋田のしょっつる汁。
さまざまな交易品の中継点、国際都市貿易港でもあった。
多くの商人、船乗り、富豪が集まり、またローマ時代のおおらかな性風土もありポンペイはまさに快楽都市でもあった。
娼婦館にも一般家庭にも多くの鮮やかな男女の交わりの壁画が残されている。
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足ることを知らぬ欲望の限りを求めた贖罪が天変地異を招いたのかもわからない、という人々もいる。

なんとも好奇心をくすぐる廃墟のようであります。
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by hanaha09 | 2011-10-26 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

鎌原村探索の続き

「天明3年8月5日、浅間山の噴火は頂点を迎えつつあった。
真夜中の八つ時(午前0時)からは土蔵が壊れるばかりの揺れが続いた。
土蔵の中に逃げ込んだ村人たちは恐怖に震えながら一心に念仏を唱えていた。
すでに二晩も一睡もできずにみんなくたくたに疲れきっていた。
長い長い夜の明けた青空の下、おそるおそる蔵の外へ出るとあたり一面焼け石がごろごろしていた。
村の中心を流れる用水路が土砂で埋まり泥水があふれ出ていた。
浅間山を眺めてみると火の玉の混じった黒煙を噴き上げる勢いは衰えず、てっぺんからはなにやら黒いものが流れ出してきているのが見えた。
若衆を中心に総出で用水さらいが始まった。
半時ほどで用水は以前の清水によみがえり、女衆は朝餉の支度を始めたのであった。
そんな中、真田からの荷物が続々と到着し、馬方たちは握り飯をほうばった後、あわただしく浅間山を避けて狩宿方面に馬を進めていった。
女衆、年寄りを中心に村人たちは小高い丘の上の観音堂に集まりひたすら祈祷を続けていた。
そんな中昼四つ時(午前10時)、浅間山から吹き飛ばされるような熱風が吹いてきた、着物も焼け焦げるような熱さであった。
その後、耳をつんざくような大音響とともにお山が大爆発を起こした。
砂や石が振ってきた、そして今まで聞いたこともないような異様な音が聞こえてきた。
「ヒッシオワチワチ、ヒッシオヒッシオワチワチ」、見ると浅間山が見えない、ただただ天にも届くような黒い大きな塊がこちらへやってくる。
「てーへんだあ、逃げろ!逃げろ!」と村中は大混乱。
しばらくして、観音堂に逃げ込んだ若衆の一人が堂に通じる石段を指差していた。
そこには信じられないものがあった。
50段ほどあった石段が15段しかない。
向こう一面は土砂、焼け石、木の幹や枝で埋め尽くされ鎌原村は消えてなくなっていた。」

残された93名の村人たちは代官所、村の有力者の援助の下、3ヵ月後には生存者の中から再婚縁組を行い復興への基盤とした。
生活基盤としては宿場町再生のために中央に南北に走る用水路をつくりその両側に道路、道路に面して各間口10間(約18メートル)ずつ平等に区割りした各戸を配置した。
そして、この敷地に5間×2間半の家を南向きに建てたのである。
各宅地の裏手は10間の幅で自家用の畑として開墾していったという。
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鎌原神社から街道方面を眺めると10間(およそ18m)間口の畑が今もうかがえます。
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そして畑には220年たった今も除ききれないたくさんの石ころ、天明の土石なだれの遺物です。
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復興はとてつもなく大変であったことがうかがわれます。
明治にはいるまで村の家屋、人口の増加が記録されてないそうです。
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by hanaha09 | 2011-10-25 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

鎌原村探索

ちょっと無理をいって鎌原村の歴史ガイド研修講座に紛れ込ませていただきました。
今まで何回も散策したことがありましたが今日は再発見の連続でした。
ハイライトは鎌原神社境内にある「郷蔵」。
天明3年の浅間やけのせいかその後は飢饉が続いた。
領主たちは農民を保護するために「備荒貯穀」の制度を施行した。
収穫時期には穀物を供出、貯蔵をしておいた。
これを飢饉・災害時に放出し、困窮した農民を救うものであった。
その貯蔵倉庫が「郷蔵」と呼ばれていた。
ここ鎌原村には天明8年から利用された「郷蔵」が現存する。
当時の建造物が現存するのは県内でも希少なものとなっているそうだ。
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今日は特別に蔵の中へ入ることができた。
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間口2間、奥行き1間半の小さい蔵なんですが...
蔵の中はちょっとひんやり、驚くことにじめじめしてない、乾燥してるんです。
穀物の長期貯蔵にはぴったり、という感じ。
木造の床、壁、屋根に土壁を外から塗った。
土壁は何重にも塗り重ねられている、中に入れ込む藁の切り方、量が少しずつ違う。
荒縄が鉄筋と同じように塗りこめられている。
団子状にした赤土を投げつけて板壁に十分になじませるそうだ。
藁は年月をかけて十分に枯れたものを使わなければならないそうだ。
板壁にはくさびが打たれ200余年の年月にも土壁がくずれないようになっている。
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蔵の天井にも土壁、その上にかやぶきの屋根が乗っかる。
味噌蔵と同じ構造、風の通過で熱がこもらない、山から降りて来る強風にも屋根が飛ばされることもない。
当時の知恵が満載、驚くばかりです。

天明8年といえば鎌原村を埋めつくした土石なだれからわずか5年、作物もわずかな収穫のみではなかったかと思われる。
村人たちはここに危急の際として一戸当たり稗3升を蓄えたそうだ。
200年を経た今も畑に残る火山礫を見れば宝石にも値する収穫であったに違いない。

ついでにこんなこともあった。
1980年ころと思われます。
フーテンの寅さん25作目の冒頭シーン、この「郷蔵」がロケ地でもありました。
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by hanaha09 | 2011-10-24 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

ポンペイ第二話

第一話からずいぶん時間がたってしまいました。
ポンペイの歴史は日本の戦国時代のようにややこしい。
おまけにカタカナの地名、国名、人名が次から次へと出てくるので頭の中は混乱、わけがわからなくなる。
ということで、この辺はざっと、ということで。

イタリア半島の南にあるポンペイは紀元前800年前ころ交易の拠点として街が作られた。
日本では縄文時代。
紀元前525年にはギリシャに支配された。
その後山岳民族、その他との戦乱を経て紀元前310年には古代ローマ帝国の殖民都市となった。
東西1km、南北に800mの街は城砦で囲まれ、貿易港として、農業、漁業、商業地として賑わいを見せていた。
また、風光明媚気候温暖な土地柄、ローマ人たちの別荘地ともなっていた。
そして紀元79年8月24日正午過ぎすぐ北方にあるベスビオ山が突如火を噴き上げた。
松の樹の姿格好をした噴煙が高く舞い上がり見る間に空を暗くしていった。
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それまでポンペイ市民のほとんどはベスビオ山が恐ろしい火の山ということなど知る由もなかった。
ニンフたちが戯れる平和な、魅惑的な緑の山としてしか映らなかったのだ。
夜になると絶え間なく降り続いた火山灰、火山礫(軽石)が2mにも達し家々の屋根を壊し始めた。
ただならぬ様相に住民たちは金銀宝石、財産、一切合財を身につけ港へと逃げ出した。
そのころには海は荒れ、地震による津波で足止めを余儀無くされた。
次の日の明け方8時前、火口より最大の火砕流が流れ下ってきた。
時速100kmといわれる火山灰、火山ガスを含んだサージ(熱雲)がポンペイの街々、住民たちに襲いかかった。
2000年にわたり火山灰の下にすべてが眠ることとなってしまった。
そして、今人型としてよみがえることになった、一瞬の出来事がそのままに発掘された。
奴隷に守られるように固まった主人、鎖につながれたままままの飼い犬、パン屋には焼きたてのパンがそのまんま。
ポンペイ市民2万人の内1割ほどが犠牲になったことになっている。
しかし、生き延びた人々がどこに逃れたのか、どうなったのか記録はない。
裕福な人々は自慢の家屋敷が安全だと信じ逃げ出すことはなかったようだ。
ほとんどの市民が犠牲になったのではという説もある。
ポンペイの街は二度とよみがえることはなかった。

日本では天明3年(1783)に浅間山が爆発を起こした。
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噴火のクライマックスとして8月5日の午前10時過ぎ灼熱の溶岩を含んだ時速100kmを超えるといわれる大土石なだれが鎌原村を襲った。
村人たちは引き続く浅間の噴火にもかかわらず朝ごはんを済ませくつろいでいた。
土石流を目のあたりにして、あるものは下流をめがけて一目散に逃げていった。
土石なだれの勢いには勝てず村人のほとんどが飲み込まれて犠牲になった。
助かったのは小高い丘にあった観音堂へ逃げ込んだ93名だけ。
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観音堂に通じる50段の石段の途中で発掘された女性二人。
生死を分けた石段の数は30数段、背負われたと見られる女性の頭には綿入れの帽子であろう綿花が確認された。
きっと空から振ってくる軽石を防ぐためにかぶせてあげたに違いない。
この二人の絆が思い浮かべられます。
まさに日本のポンペイ。
ポンペイとの大きな違いは鎌原村ではあちらこちらの援助で村の復興がなされたこと。
幾多の困難を踏まえ今、豊穣の土地によみがえっています。
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by hanaha09 | 2011-10-23 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

今年のきのこ

昨年は「ハナイグチ」が食べきれないほど採れた。
湯でこぼしをして冷凍しておいた。
おかげさまでつい最近までおいしいきのこそばをいただいていたんですが...
今年は天候のせいか、それともヨウ素、セシウムのせいか野生きのこが大不作。
「ハナイグチ」が採れたのは1回だけ、寂しい限りでありました。
その代わりですが、3年前からがんばってきたきのこ原木栽培がやっとのことで日の目が見られてきた。
いままでおくさまからはさんざん言われてたんですよね、いつになったらきのこが食べられるのって。
まずは「なめこ」、もうぬめぬめ。
スーパーで売ってるなめこはこんな感じだが、このあたりではカサが開いたものを食べる。
そのほうがより、香り、風味があっておいしいんだ。この前は芋煮会でとん汁に入れた、皆さんには大好評。
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時期を同じくして「くりたけ」が出てきた。
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これはバター炒めにした。
しゃきしゃきしてこれぞきのこという味わい。
お皿山盛りあったが見る間になくなった。
「しいたけ」も出た。
この「しいたけ」は数が少ししか出てこない、がとっても厚みのあるでかいのがで出てきた。
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炭火で焼いて松茸のつもりで「すだち」をかけて食べた。
おいしくておいしくて、おくさま食べ過ぎてお腹をこわしてしまった。
しばらくはきのこを見たくないそうだ。
が、この後これだけ採れた。
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by hanaha09 | 2011-10-22 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)