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あるちゅはいま日記

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<   2011年 04月 ( 30 )   > この月の画像一覧

下屋家「棄城庵」

嬬恋村の昔々、吾妻川岸の村々は信濃国の一部とも考えられていたほど関係が深かった。
平安時代の終わりに一人の修験者が今の三原に流れてきた。
信濃の国司として赴任した清和天皇の皇子、滋野一族の跡目である海野幸房であった。
領地での争いが続く中、戦争に嫌気がさし、修験者となって人も住まぬ荒地の嬬恋村にやって来たそうだ。
1108年の天仁の噴火の後、嬬恋村は壊滅的な状態であった。
幸房は吾妻川岸の段丘に粗末な小屋を建て「棄城庵(城を棄てて作った小屋)」と名づけ武具甲冑を埋めてしまった。
幸房は下屋将監と改名し、子孫たちと共に修験道信仰をよりどころとして開墾を行い、噴火で壊滅した嬬恋村を見事に再生させます。
吾妻川に沿って開かれた地はそれぞれ子孫たちに分家分国し、下屋本家が一族を統治した。
「棄城庵」と修験道の神社があったのは例の阿弥陀堂前の畑地だったそうだ。
今も武具、甲冑が埋まっているかもわかりません。
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修験道に励む下屋本家は西吾妻地方一帯の荘園領主として平和国家を維持していた。
しかし、防御のすべも無いものたちに外敵が狙いを定めるのはもっともなこと、将監の孫に当たる鎌原氏が武器を持って荘園の維持を図ると共にその力をどんどん増していった。
群雄割拠の西吾妻一帯は戦乱が引き続き、争う術の無い下屋本家はあっという間に廃れていった。
その後の下屋本家は宗教的な修験院として最近まで引き継がれてきている。
「棄城庵」のあったところよりほど遠くないところにある下屋本家、「棄城庵山荘」なる門がありました。
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蔵には貴重な古文書がたくさん保存されているそうで、誰にも公開せずに日干しをするのが慣例だそうです。
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向かいには「kijyoan別邸」まで。
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少し旧真田街道を下るとケヤキの大木の下、下屋将監の碑が在ります、墓地ということらしいんですが。
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よそ者が信州からやってき、粗末な小屋から始まって村を統治してきたこと、武器を棄て信仰をよりどころに開拓を進めてきたこと、中世の嬬恋村の歴史は非常に特異なものといえるそうです。
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by hanaha09 | 2011-04-30 16:00 | 田舎暮らし | Comments(0)

4月29日という日

本日は3月の大地震から49日目。
安政の大江戸大地震の49日後に富士山が大爆発を起こした。
ちょっと浅間のお山が煙を吐いてるようで心配でしたけど...
これ、実は浅間山の南麓から吹き上がってくる雲がまるで火口の煙のように見えてしまうのです。
とりあえずの安心でございます。
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また本日は昔の「みどりの日」、軽井沢町役場まで出掛けなければなりません。
緑化木の配布会が毎年開催されます。
お隣村のご縁でこれで3回目のご厄介になります。
「どうだんつつじ」と「ブルーベリー」の苗木がいただけます。
町長さんに助役さんが手渡ししてくれます。
税金は払ってませんけど、いつもいつもありがとうございます。
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ついでに軽井沢から中山道沿いに御代田町の「雪窓(せっそう)公園」まで足を伸ばしてみました。
本日は標高840m、信州浅間山ろくにさくら前線が春の陽射しとともにやってきました。
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標高が1200mの我が家近辺の桜は「うわみずさくら」「みやまさくら」など。
葉がでて花が咲く、とても清楚なさくらの花、それに花の時期はまだまだ先。
お花見といえばやはり「そめいよしの」ですね。
花見といえば豪華花見弁当にコップ酒なんですが...
ちょっと似合わぬ我が家の花見料理。
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あたり一面、てんぷらうどんのにおいが漂うことになってしまいました。

いつの間にか「昭和の日」になった連休初日の本日。
その趣旨は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」となっておりました。
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by hanaha09 | 2011-04-29 20:44 | 田舎暮らし | Comments(0)

またまた座禅草

草津まで座禅草を見に行った。
北関東一を誇る座禅草公園、なんとも微妙な表現です。
南関東にはもっと大きな座禅草公園がありそうだ。
草津町前口区、草津温泉のちょっと手前にあたります。
木道もよく整備されてて管理が行き届いています。
地元の人々の思いがこもっているようです。
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座禅草はサトイモ科の植物、そういえば葉っぱがなんとなく芋。
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 「ひとめみて こころゆたかな ざぜん草」
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 「座禅草 よりそうすがた めおとかな」
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「ごりやくを さずかりたるは 座禅草」

長野原町の皆様方の投稿俳句です。
暗赤色の苞ををそっと触ってみますとやはりほのかに暖かい。
おだやかな季節がめぐることを願ってしまいます。
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by hanaha09 | 2011-04-28 10:20 | 田舎暮らし | Comments(0)

中居屋重兵衛

”め”  「名声高し
         中居屋重兵衛」
嬬恋村文化協会(こんな協会名初めて聞いた)が作成した嬬恋かるたの1枚になっています。
本名黒岩撰之助、あっやっぱり黒岩さん。
生まれは文政3年(1820)、生まれたところは嬬恋村三原、昔は上州中居村と呼ばれていた。
そこの名主の家柄であった。
吾妻川にかかる三原大橋のたもとには黒岩を磨き上げた立派な顕彰碑があります。
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もちろん横っちょには嬬恋かるた”め”の部の看板も立てられています。
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安政6年(1859)開国の年に横浜に店舗を築き貿易業に進出、特に生糸の外国への輸出の半分にあたる量を取り扱った。
屋号を故郷の名をとり中居屋重兵衛と名乗った、撰之助39歳のときであった。
間口30間、銅板ふきの豪華なお店はその輝きから「あかがね御殿」とも呼ばれた。
中居屋重兵衛は各藩、各商人からあまたの引き合いを受け、取引仲介で莫大な利益をあげていった。
なぜここまで重兵衛は急速に商売を拡大できたか?
やはり嬬恋村に端を発していることとなる。
幼少の頃、草津の温泉宿の経営を任されていた教養人の父親により学問、農業、狩、火薬の製造とありとあらゆる教えを受けていた。
中でも影響を受けたのが信州松本からやってきた若い武士に銃の構造、射撃を習ったことであった。
その武士とは磁石に錘を付けて地震予知機を発明したあの佐久間象山であった。
それから撰之助は草津白根山から採ってきた硫黄をもとに家伝書を傍らに独学で火薬製造の秘法を会得したのである。
そして19歳の頃、旅芝居の勧進元で儲けた金を持って嬬恋村を出奔した。
向かった先は大江戸、本屋の商売人をしながら再会したのが佐久間象山。
象山に見込まれた撰之助は火薬製造の研究を重ね、故郷中居村をはじめとする上州各地で火薬製造に乗り出した。
撰之助は長年にわたる火薬研究の成果を安政2年(1855)35歳にして「集要砲薬新書」にまとめなんと諸国大名諸侯に献上したのであった。
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当時は多くの流派毎に秘伝として伝えられた和薬としての火薬は存在していた、が外国製のものと比べればまだまだ劣悪なものでしかなかった。
喉から手が出るほど欲しかった優秀な火薬を手にいれた諸国大名たちに重兵衛は一躍有名となり、各藩からも招きを受けることが多くなった。
各藩、大名とのこういった関係が生糸取引に大成功を収めた所以であった。

話が長くなったのでちょっとこの辺で一休み。
中居屋重兵衛の生家とされる三原にある旧家、ガラス戸には中居屋旅館と書かれている。
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重兵衛の生家は明治初年に火災に会い、文書類が消失したとの記録があり、また群馬県製糸工業試験場の資料では1868年建造となっているのでこの生家なるものは再建後のものと思われる。
すこし旧真田街道をゆくと中居屋重兵衛の墓がある。
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墓石名の中居撰之助の左、黒岩みや子とあるのは19歳で嬬恋村出奔前にめとり、故郷に放り出しておいた妻である。
重兵衛の遺髪がぎやまんの容器に納められて埋葬されているそうだ。

さてさて、中居屋重兵衛は開国へと舵を切った当時の大老井伊直弼のおかげで財産をなしえたわけではあるが...
実は火薬取引で水戸藩とは太いつながりを持っており、また井伊大老による安政の大獄に始まる開国反対派の弾圧、悪逆非道ぶりに大きな義憤を感じていた。
これが水戸藩の志士たちの井伊大老を倒す密謀に加担することとなる。
桜田門外の変で倒れた井伊直弼の遺骸検死報告書には太股に貫通銃創があったと記録されている。
この銃は重兵衛が水戸藩氏に手渡した10丁の短銃の一つであるとされている。
文久元年(1861)晩春、咎めにもかかわらず続けていた生糸の直取引も幕府による統制が厳しくなり、おまけに井伊大老襲撃事件の嫌疑までかけられる様になった。
幕吏の追っ手から逃れるように重兵衛は横浜で娶った妻「その」をも離縁し、小船で房州に遁走した。
逃避行の後、再び江戸に潜入、芝の隠れ家で”はしか”にかかって急死したとされる。
(他説では伝馬町の牢獄で詠んだ辞世の句が残されているともされる)
重兵衛41歳であった。
遺体は神楽坂の日蓮宗善国寺の住職分承が預かり荼毘にふされたとされるが、重兵衛の全身には吹き出物があったとのことで毒殺説も色濃い。

横浜に「あかがね御殿」を築き、生糸取引で隆盛を極めわずか2年ほど、間口30間の大店も火災で跡かたも無くなったとか。
生糸貿易の影響で生糸価格の暴騰を招き中小零細の機屋を閉業に追い込んだこと、幕府の禁制を破って直取引、貿易仲介で富を築いたこと、当時の政局を大混乱におとしめた事...どうもこれらが重兵衛の不慮の死につながったようである。

横浜の本町2丁目、関内桜通りには中居屋跡の記念碑があるそうだ。
貿易都市横浜の発展の礎を築いたとされている。
嬬恋村三原には割烹中居屋が今も繁盛している。
重兵衛の嬬恋の妻みや子の兄弟黒岩清七(重兵衛のいとこにあたる)が中居屋(黒岩)家を引き継いだ傍系の子孫であると思われる。
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中居屋重兵衛は国学、蘭学、医術、砲術、剣術、科学の習得にも励んでおり、驚くべきことに中居屋(黒岩家)伝来の事業とされるらい病の特効薬を作り上げたとの話もある。
これも強酸性の湯を持つ草津温泉に闘病に訪れたらい病患者と父が経営を任されていた温泉宿での接点があったのではと想像される。
まさに幕末を駆け抜けた謎の商人であった。
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by hanaha09 | 2011-04-28 02:32 | 田舎暮らし | Comments(0)

熊野神社のさかさ杉

嬬恋村西窪発電所を万座川に沿いどんどん北へ上っていきますと門貝(かどかい)集落に行き着きます。
”かど”は出入り口の意味、”かい”はカイト(垣内)小集落を意味するらしい。
両方あわせると門貝とは出入り口にあたる小集落ということになる。
上州側から万座川をさかのぼり、毛無峠を経て信州にいたる毛無道が14世紀の書物にも「奥の大道」として記述されている。
門貝はこの毛無道の上州側の最初の集落として役目を果たしていたものと見られる。
毛無峠とは嬬恋村と長野県高山村を結ぶ、名のごとくはげ山のつづく標高1823mの険しい峠、冬になると一番に白くなる。
この集落のはずれに熊野神社がある。
この地をを訪れた弘法大師が持っていた杖を地面にさすと、杖から根が生え逆さにそだったと伝えられるサカサスギがある。
幹の周囲およそ9メートル、高さおよそ36メートルの大木、まるで天を仰ぐ様は威厳深いものがあります。
裏日本の杉は下の枝が垂れ下がって根を張ることがあるそうだ、これがサカサスギの秘密。
熊野神社創建とされる大同元年(806)から数えると樹齢1千百年以上と推定される。
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石段をあがった杉木立の中に本殿が静かにたたずんでいます。
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お賽銭箱の前には鈴に鈴緒、何でこんなにたくさんついてるんだろう?
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横っちょにはなんとお神酒が置いてある。
いただこうと思い1升瓶を持つとほこりっぽい、中身がなんだか黄色っぽい。
手を合わせ本日は遠慮させていただきたくお願いいたしました。
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毛無道の道筋にあたるこの地は、四阿山や白根山など深山幽谷の霊地を控えていた。
山伏の修業の拠点となりやがて、熊野神社が分社されたのであろう。
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80mほど登ったところには山伏がこもって修行を行ったとされる梵字が刻まれた岩窟があるそうです。
急坂を見るとなぜか元気が出なかった、またの機会にしたいと思います。

水洗も咲いてすっかり春です。
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by hanaha09 | 2011-04-26 18:09 | 田舎暮らし | Comments(0)

縄文の家

嬬恋村三原から草津方面へ少し行ったところの今井地区。
「百姓の打つ10割手打ち蕎麦 笹見平」なんて看板が出てまして...
冬場は休業だと思うんですが、ひょっとしたらずっとお店が開かないような感じもしてきます。
ここに、突如縄文集落が出現します。
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浅間山の噴火観測用の櫓まであった?
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この地区で発見された縄文遺跡にちなんでボランティアによって作られた観光用だそうです。
体験宿泊が出来るそうです、ただし蚊取り線香の持参が必要とか。
皆さん、竪穴式住居でBBQパーティを楽しむことが出来ます。
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さてさて山の中で縄文の人たちいったい何を食べてたのでしょうか?
こんな具合だったようです。
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遺跡から一番多く発掘されるのはまずイノシシにシカの骨、皮は衣服に、角や牙は釣り針や銛に。
そして、愛しい女性のためには見事なアクセサリーを作りあげた。
肉は蒸し焼き、煮込み、そして燻製、塩漬け...
定住地にはすでに畑も作られ粟、ひえ、サトイモ、エゴマ、蕎麦に稲まで作られていたそうだ。
湯がいたり、焼いたり、粉にして団子に。
緑豆も出てきたそうでひょっとしたら縄文もやしを食べてたかもわかりません。
エゴマは種から油をとって明かりをともしたとも。
山に入れば栗にくるみにどんぐり、さるなし等々、ニワトコの実で酒まで造っていた。
毎日がなんともぜいたくで楽しそうなBBQの様子です。

しかし、今日のような春の雪が降る日は寒かろう、と思ってしまうんですが...
4,000年ほど前の縄文時代は年間平均気温が2-3℃ほど高かったようだ。
2-3℃とは東京が沖縄くらいの気候になってしまうことになるそうだ。
なるほどとうなづけます。
そして、地球全体が暖かかったので海面の高さは今から4-5mは高かったと想像されます。

津波の被災地の方々にはぜひ縄文遺跡のある場所を探してみてください...1万年も続いた縄文人の知恵ですから。
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by hanaha09 | 2011-04-25 14:08 | 田舎暮らし | Comments(0)

嬬恋村の円通殿

嬬恋村立干俣小学校の校庭の前を通りかかりました。
お昼前の体操の時間でしょうか、授業を始めようとする児童、15、6名です。
広い運動場には過疎の文字が書かれているみたいです。
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昔々、この小学校のすぐ横に常林寺の住職であった禅師旭邦本輝(きょくほうほんき)が閑居した庵が在ったとされる。
その庵の仏殿として18世紀中ごろに建立されたされるのが円通殿、小学校校舎の真裏に当たります。
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正面3間、側面変則3間の方形造りの小型寺社建築。
唐風の向拝、二層の屋根、えびのように曲がった虹梁、彩色された木鼻、禅宗様といわれる建築様式です。
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お堂内部には3分割された須弥壇(しゅみだん)が設置されており、それぞれに禅宗様の特徴である花頭窓状(かとうまどじょう)の枠に仏様が安置されています。
本尊は薬師如来とされている。
華やかで重みのある見事なお堂です。
法話をとく和尚さんと共に一所懸命に手を合わせる村人たちの背中が見えてくるようです。
今はちょっと天井の蛍光灯がお粗末ですね。
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お地蔵さんの後ろには樹齢およそ300年とされる株立ちのイチイの大木。
イチイは従一位であった聖徳太子の持つおしゃもじの材料、このお堂にふさわしい樹木です。
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日本のチベットとまで言われたこの山里に禅宗文化が見事に開いた寺社建築物です。
災害で苦しめられた村人たちの信仰と文化の拠点としてのよりどころになっていたと思われます。
天明3年の浅間やけ土石なだれで着の身着のまま生き延びた鎌原集落の村人に救いの手をさしのべたのがこの干俣の人々であった。
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by hanaha09 | 2011-04-24 22:17 | 田舎暮らし | Comments(0)

上信鉱山の足跡

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嬬恋村大前から北へおよそ6km、静かな物音ひとつ聞こえてこない干俣にある仁田沢集落です。
昭和15年、嬬恋村の干川石造さんがこの集落から分け入った山中に炭焼き窯を作ろうとしたところたまたまロウ石の鉱脈を発見した。
この山はロウ石山と呼ばれて10人ほどの村人たちでほそぼそと採掘が開始された。
ちょうど時代は太平洋戦争真っ只中、ロウ石に含有されていた酸化アルミに目を付けたのが当時の軍部。
この鉱石から金属アルミニウムを製造しようとしたのである。
アルミ資源の乏しい日本においてはおそらく藁をも掴む思いであったに違いない。
昭和18年には軍需産業に指定され大阪窯業、日窒工業、昭和電工3社で上信鉱山が設立され国家政策の一環として採掘が始まった。
昭和19年には250人ほどが動員され、鉱石は策道でふもとの仁田沢集落まで降ろされ、トラックで芦生田の草軽電鉄嬬恋駅、トロッコのような貨車で信越線軽井沢駅まで運ばれた。
その算出量は年間15000トンにも達したと言われている。
一方、群馬鉄山の鉄鉱石輸送に施設された太子-長野原-渋川にいたる貨物線に接続する鉄路も建設が進められた。
この国家をあげた大事業もすべての設備が完成を迎えないまま終戦と共にあえなく終わりを告げた。

戦後満州から一人の窯業技術者が引き上げてきた。
大阪窯業東京工場の片隅に放置されていた上信鉱山の鉱石の山を見てさまざまな分析を試みた。
ロウ石といわれていたものは実は加水ハロイサイト(Al2Si2O5(OH)4・2H2O)ということが分かった。
そのままでは耐火物原料としては不向き、焼成をしないと使えないことが分かった。
しかし、試験的に製造された耐火材料は1750℃以上にも耐えうる非常に優秀なものであることが分かったのだ、そして上信鉱山の視察も経て粘土質鉱山として開発する価値は充分と判断した。

これからが話は長くなる。
大阪窯業東京工場のこの技術者を訪れた二人の男が居た。
一人は吾妻郡中之条町の実業家で衆議院議員小渕光平、もう一人が光山電化工業社長の小渕浪次の兄弟だった。
小渕光平の次男は元総理大臣の小渕恵三。現衆議院議員の小渕優子は孫にあたる。
昭和29年に光山電化工業-上信鉱業所が開設され専ら耐火原料としての採掘の再興計画がスタートしたのである。
昭和31年にはハロイサイト鉱石の焼成炉の工事が始まった。そして翌年には高さ14m、直径4mのシャフトキルン、縦型焼成炉1号炉が操業を開始した。
焼成炉は稼動を開始したものの製品の売り先が決まらない。
焼成炉建設のための多額の借金に追い討ちをかけるように兄小渕光平が議員活動中に急死した。
悲嘆にくれていた小渕浪次の下に待ちに待った1枚の注文書が届いたのだ。
時はすでに昭和33年の10月、日本鋼管炉材部からのものであった。
2基目の焼成炉も完成間近、上信鉱山所は一挙に三交代勤務の焼成作業にこぎつけたのである。
鉱石として優秀であった上信ハロイサイトの需要はあっという間に広がり、生産も追いつかなくなってしまった。
山に捨て去っていた鉱石を振るった後の残渣まで処理され、ますます儲かる構造となった。
しかし、昭和38年(1963)に火災により鉱山事務所、宿舎を消失してしまった。
たまたま鉱脈も尽きかけていてこれを機に、上信鉱山所の閉鎖、光山電化工業は休眠扱いとなった。
最盛期わずか4年の活動であったがその間に挙げることのできた高収益は奇跡的なものとして語られています。

地図を見ながら3度も道を間違った。
雪融けで水かさの増した沢にずっぽり浸かってしまった。
背の高さほどの熊笹に行く手をさえぎられ難航、こんなときに熊が出たらお手上げ。
崖をつるにつかまりよじ登ったり、またすべりおちたり。
くじけそうになりましたが大麦でできた飲み物で何とか元気をつけ、やっとのことで行き着くことができました。
久しぶりに思わず何かがこみ上げてくるような感動を覚えましたね。
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左が1号炉、右が2号炉。
設計はくだんの窯業技術者、施工は高崎市の家族経営の築炉業者、じいちゃんとお孫さんの合作だそうだ。
機能はさることながら息を吹き込まれたようなこの造形美、すばらしい。
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燃焼用空気を送り込む羽口と思われます、炉の周囲に穴がありますので。
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鉱滓口には操業終了時の残りスラグがそのまま残っています。
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炉の開口部にはシリカのようなものがくっついています。
結構高温になってたのかなと想像されます。
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やはり年月の経過がまざまざと見せ付けられてしまいます。
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帰りの山道で見つけた鉱石です。
褐色に色のついた部分が加水ハロイサイト、おばちゃんたちが総出で選り分けたそうです。
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鉱山開発を夢見て昭和を生きた男たちのロマンの物語。
この成功がなければ「平成」の元号発表の写真も撮られなかったかも分かりませんし、2千円札もきっと発行されなかったことでしょう。
こんな山の中からも日本を動かした原動力があったんです。
歳月には逆らえず、自然はつわものどもの夢の跡をも元のように覆いつくしています。
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by hanaha09 | 2011-04-23 09:09 | 田舎暮らし | Comments(0)

座禅草

♪♪もうすぐはーるですね~
   ちょっと気取ってみませんか~♪♪
残念ですね、団塊じいちゃんのアイドル、スーちゃんがおっぱいがんでいっちゃった。

春が来たので座禅草が咲きました。
本当にかわゆい、といいたい春を呼ぶ花なんです。
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花を囲む苞が袈裟を着て座禅を組む僧侶の姿を想像されることからこの名前がついたそうだ。
また、達磨太師の座禅する姿と見立てて達磨草とも呼ばれる。
英名がSkunk Cabbage(スカンクキャベツ)。
驚くべき事実を勉強させていただきましました。
真ん中の棍棒状のものはおよそ100個の花の集合体、これを肉穂花序(にくすいかじょ)と呼ぶそうだ。
なぜスカンクか?
花が臭い、これは花粉の媒介を図る虫たちをおびき寄せるために匂いを放つ。
南の国のラフレシアなんてのもよく知られています。
まだまだある。
この肉穂花序は花を持つときに発熱する、測定すると20℃にもなるらしい。
暗赤色の苞は輻射熱も発生する。
そっと苞の中に手を入れてみればほのかに暖かい。
理由はよく解明されていないが、雪をも融かし春一番の虫たちを誘う、熱で臭いを発散させるなどが可能性として考えられるそうだ。
花に鼻を引っ付けてかいでみたが残念ながら臭いは無かった。
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水芭蕉も一緒に咲きました。
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元気の出る春なんですが、いろいろありますね。
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by hanaha09 | 2011-04-22 12:24 | 田舎暮らし | Comments(0)

薬用きのこってできるかな

昨年はヤマハンノキの枯れ木があったのでこれにひらたけ菌を植え付けておいた。
秋には原木ひらたけが少しでしたが収穫できた。
これが結構美味しかったのである。
お澄ましの具に、スパゲッティの上にソテーをしたものを乗せたり、バターいためであったり。
山の住人は欲が出てくるものでもっと原木を増やそうと考えた。
本年はバッコヤナギの木を切り倒した。
もみじの木に多いかぶさるように茂ってきていた名の分からぬ木もついでに切った。
せっかくなので、幹を90cmの長さに玉切り、いつものホームセンターで買ってきたひらたけ菌の種こまを穴を開けて植えつけた。
ここのホームセンターの種菌はきのこが出てこないということで評判なんですが...
村では唯一のホームセンター、ガソリンも高くて遠出も出来ず。
美味しいきのこが出てくると信じることにしましたね。
手前の4本がバッコヤナギ、奥の3本が名の無い木。
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ひとまずはこれでよしよしと思ってましたら...
たまたま樹木博士の実地教育を受けてましたところこの名の無い木は間違い無く「キハダ」。
切り口を見てください、コルク質の内側の樹皮がまっ黄色。
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樹木博士は一言「なんと言うことをしてくれるのだ...」とため息を漏らされました。

「キハダ」のこの黄色の部分は重要な生薬で黄柏(おうはく)と呼ばれる、別名医者要らず。黄柏にはベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用を持つといわれる。チフス、コレラ、赤痢などの病原菌に対して効能がある。主に健胃整腸剤として用いられ、陀羅尼助、百草などの薬に配合されている。また強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられたといわれている、また黄連解毒湯、加味解毒湯などの漢方方剤に含まれる。日本薬局方においては、本種と同属植物を黄柏の基原植物としている。
また、色鮮やかな紅花染めの下染めに無くてはならない染料でもある。
木の葉はカラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハの幼虫が食べる重要な食草ともなるそうだ。

もっと早く教えてくれててたら...こんなことはしなかった。
実は昨年来、図鑑で同定を試みていたのですが、何しろ素人にはトンとわからなかった。
黄柏のお値段は400gが2,500円、これでお安くした値段だそうです。
もうあとは菌が薬用成分をたっぷり吸った薬用ひらたけの出現を期待するしかありません。
これは昨年のひらたけです。
今年は黄色のひらたけが生えてくればこれは特許出願をしなければなりません。
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こんなことで自然を壊していくのは残念です。
今年一番の失策になりました。
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by hanaha09 | 2011-04-21 18:13 | 田舎暮らし | Comments(0)