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あるちゅはいま日記

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カテゴリ:田舎暮らし( 1848 )

風船おじさん

「風船おじさん」って覚えてるだろうか?
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25年も前の話だ、音楽家であり冒険家でもあった一人の中年の男性が風船を背にアメリカ大陸に向かって飛び立ったんだが...
3日目にして連絡が途切れ、いまだかって行方不明のままだ。
1992年11月23日の午後、琵琶湖河畔から「いってきます」と言ってアメリカのネバダ州を目指して飛び立った。
もちろん飛行許可も出ぬまま、集まったテレビ局、関係者の制止を振り切ったままの暴挙だった。
翌朝までは持参の携帯電話で連絡があったが、以降携帯電話はつながらず、よく24日深夜SOS信号を受信。
25日には海上保安庁の捜索機が宮城県金華山沖の東約800kmの海上、高度2,500m、70km/hほどの速度で北東に飛行中の「おじさん」を発見。
その後3時間ほど追跡をしたがSOS信号が消え、高度も上昇、飛行継続の意思と判断で追跡を中止した、これが最後...
「風船おじさん」の装備を見てみよう。
風船は、直径6mの塩化ビニール製の風船を4個、直径3mの補助風船を若干個装備、これにヘリウムガスを充填。
アメリカネバダ州までの距離はおよそ7,700km、高度10,000mのジェット気流(速度は200km/h近い速度になる)に乗って40時間の飛行時間を計画していたそうだ。
高度10,000mの気圧はおよそ0.34気圧だ。
1気圧の地上で充填したヘリウムガスは10,000m上空では単純な計算で2.5倍近くに膨らむことになる。
まず、塩化ビニールの低温脆化温度はおよそ-20℃、ジェット気流の吹く高度10,000m以上の気温は理論上-35℃だ。
もはや弾性は無く少しの力でバラバラに砕けることになる。
高度10,000mでは酸素吸入による呼吸が必要だ、ほぼ6l/minほどの吸入量が必要だ。
酸素ボンベを8本積んだ(小型ボンベとすると1本1.5m3で計12m3)、この量で計算すると33時間ほどだ、とても苦しいことになる。
そして、連絡手段には携帯電話、無線免許がないので無線機は無かった。
1週間分の食料はスナック菓子。
予定の揚力は800kg、直径6mの風船6個に補助風船26個の予定だった。
揚力不足か、上昇時にはおもりの焼酎瓶を切って落としてやっとこさ浮上した。
無謀すぎる計画も彼には無謀とはちっとも思わなかったと思われる。
彼のゴンドラをくっつけた風船は「ファンタジー号」と名付けられていた。
まさに一攫千金の冒険家としての幻想曲オーケストラ指揮者であったに違いない。
その後、奥さんとその娘さんたちは、「音楽家には故郷は無い」と世界の空に羽ばたくクラッシック音楽グループとして活躍した。
その奥さんは本年病魔で無くなられたそうだ。



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by hanaha09 | 2017-11-24 20:37 | 田舎暮らし

新嘗祭

本日は日本全国お休みの日、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」と決められた勤労感謝の日だ。
毎日が日曜日になる以前にはこの日が一番好きだった。
大手を振って、酒を飲んでぐうたら出来る日だった。
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しかし、これは戦後のこと。
それ以前には天皇が日本国民を代表し五穀豊穣、そして命の糧を授けて頂いたことに対する神への感謝を捧げるための祭り、新嘗祭であった。

その起源は遡り、天照大御神が行ったのが初であると古事記にある。

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当時は日本国民のほとんどが農家、その年に収穫される新米・穀類が収穫できるかどうかは生死に関わることだった。

国民全員が秋の実りを神に感謝する、日本国にとって非常に大切な一日なのだ。

しかし乱世の室町時代に新嘗祭は中断されたものの、江戸時代には復活、現世まで歴代天皇のみで受け継がれてきた。

一子相伝の秘儀、どのような作法をもって、どのように執り行われるのかを知るのは、天皇の他に誰一人としていない。

「新嘗祭が終わるまでは新米を食べるべきではない」という方もおられる。

いろんな考え方の方も居ようが、毎年の収穫に対して自然の力、そして自らの努力に感謝するという日であれば良い。




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by hanaha09 | 2017-11-23 11:47 | 田舎暮らし | Comments(0)

岩松院と福島正則

まだひつこく小布施の岩松院。
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織田信長が敗れた本能寺の変の後、天正11年(1583年4月賤ヶ岳付近で羽柴秀吉柴田勝家の戦いが起きた。
この戦に勝利した豊臣秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩となった。
そしてこの戦で世に喧伝されたのが、秀吉の家臣である7人の若手の武将である「賤ヶ岳の七本槍」といった人々だった。
その一人に福島正則がいた。
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その功により福島正則は、伊予・今治10万石、後に尾張・清洲で24万石と大身の大名となった。
そして、関ヶ原の戦いがやってくる。
正則は徳川家康を総大将とする東軍につき、その勝利に一番の貢献をした福島正則は、論功行賞により安芸・広島と備後の鞆、49万8200石の大封を得た。
新たな領地では、検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収するなど、領民の負担を少なくする善政を行った。
また領内の寺社の保護にも務め、厳島神社の平家納経を修復した。
しかし、大阪冬の陣、大阪夏の陣ともに江戸留守居役を命じられ事実上軟禁される恰好になった。
幕府にとっては、豊臣恩顧であり、勇猛果敢な福島正則は危険かつ邪魔な存在となっていたのだ。
家康も亡くなってすぐの1619年、福島正則は幕府から、城の修復の件で武家諸法度違反に問われることになる。
台風による水害のために壊れた城の修復を行った際、幕府に届けを出さなかったというもの。
一応、「本丸以外の修復部分を破壊すること」ことで一件落着かと思えたが、正則は本丸の修復部分だけを破壊するにとどまった。
おまけに、人質として江戸に送るはずだった息子、忠勝の出発が遅れたことも重なり、時の将軍徳川秀忠により、安芸・広島・備後50万石を没収され減封・転封される事態となった。
紆余曲折の後、正則は越後国魚沼郡の2万5千石と信濃国高井郡の2万石の合わせて4万5千石に転封となった。
信濃国高井郡こそ今の小布施だった。
その後、越後2万5千石は家督を譲った息子、忠勝が逝去のため幕府に返上。
信濃国にやってきて5年、悲運を嘆きつつ64歳で亡くなった。
しかも、幕府側の検死役が到着する前に正則の遺体を火葬してしまい、幕府の咎により残りの領地信濃高井郡2万石も没収されてしまう事となる。
正則が自ら定めた菩提寺の岩松院に正則の霊廟が建立された。
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遺骨の埋葬された五輪の塔がこの霊廟内にあるそうだ。





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by hanaha09 | 2017-11-22 18:27 | 田舎暮らし | Comments(0)

岩松院と一茶

またまた小布施の岩松院。
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正面の本堂の裏に池がある。
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お寺の桜の花見時、この小さな池に大人の手のひらほどのヒキガエルがいづこともなく集まってくる。
雌が産卵するのを雄が手伝うのだが、雌が少ないために、奪い合いとなって合戦となる。
およそ5日間。昼夜の別なく、カエルが入れ代わり立ち代わり、くくみ声を挙げての戦いとなる。
小林一茶は文化13年(1816年)にこの池を訪れた。
カエルたちの合戦を見て、
「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」
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と詠んだ。
一茶は1763年、信州信濃町の農家の長男として生まれた。

3歳の時に生みの母を亡くし、8歳から継母に育てられるのだが、継母や異母弟に馴染めずに15歳で江戸へ奉公に出ることとなる。

江戸でも最貧の生活を強いられた。

俳諧師として知られたのちも、兄弟との間で遺産相続の長い争いがあった。

やっと妻をめとったのが信濃町へ帰った52歳の時。

3男1女を授かるも、子どもたちは皆幼くして亡くしてしまう、妻の菊も37歳の若さでこの世を去った。

一茶は晩年までは多くの門人に庇護されながら、子どもや動植物など、小さな生命への慈愛に満ちた2万句もの俳句を詠んだ。

病弱の長男千太郎への声援と共に、合戦に敗れた蛙たち、弱者をいとおしむ心が伝わってくる句だ。










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by hanaha09 | 2017-11-21 17:37 | 田舎暮らし | Comments(0)

平核無柿

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ひらたねかき、平=形が平たくて四角形、核=種が、無=ない、柿=柿だ。
信州三水で買ってきた。
干し柿にした、ちなみに青い籠の中は干しリンゴ。
この平核無柿、新潟県原産で、現在でも新津市古田地区に樹齢320年の原木が残っているのだそうだ。
種なし柿は、受粉しなくても実がなる。
受精しても途中で種(胚)の発育が停止する。
そういえば、種ではないが種のような平べったいのが入っていることがある。
気の毒な柿だ、子孫を残すことができないにもかかわらず一生懸命結実する。
平核無柿は渋柿だが、糖度は甘柿より高い。
甘がきの「富有柿」は種子形成力が強い、受粉することで実がつき、種子ができやすい。
と、思うと種の無い甘柿、富有柿が世界で初めて誕生したのだそうだ。
その名は「秋王」、「富有柿」に「太秋」の花粉を交配し、得られた不完全種子を胚培養することで育成したものだそうだ。
お値段の相場は1kgが10万円とか、公益社団法人農林水産・食品技術振興協会によれば、栽培は許諾契約を結んだ福岡県内生産者に限る、現在は市販されていない、とある。
気の毒な子無しの平核無柿、干し柿が最高においしい。
「和生菓子の甘さは干し柿をもって最上とする」、実に羊羹とほぼ同じ甘さになる。
和菓子の甘さの基準、最もおいしい甘さなのだ。
年末の干し柿完成が楽しみだ。















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by hanaha09 | 2017-11-20 21:03 | 田舎暮らし | Comments(0)

高井鴻山と葛飾北斎

なんで晩年の北斎の肉筆画が小布施に現存するのか?
今日はちょっと補足をしておこう。
高井鴻山は小布施村の豪農商、高井家十代目の四男として誕生。
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高井家は当時、綿糸や菜種油の生産を手掛けた小布施商人の一人で、その商売は信州を手始めに江戸、京阪北陸、瀬戸内まで商圏を広げていた。
天明の飢饉の際には自ら倉を開放して、その巨万の富を困窮者の救済に当てた、という。
その功績により幕府より高井家の苗字及び帯刀を許された一家だ。
文政3年(1820年)、鴻山15歳のとき京都へ遊学、絵画、浮世絵、国学、儒学、漢詩を学んだ。
結婚後には江戸へ移住、朱子学を学び蘭学にも研鑽を積んだ。
天保11年(1840年)、父熊太郎が病死し鴻山が当主となったが、経営・理財は全く不得手であった。
勉学の傍ら、花柳界で金持ちよ御曹司よと乱痴気騒ぎをし、自ら「放蕩宗」と称した。
このころに、北斎が出入りをしていた江戸日本橋の呉服問屋、十八屋でこの二人が遭遇したようだ、十八屋の亭主も小布施出身の豪商だった。
そして、北斎83歳のとき小布施の鴻山(時に37歳)のもとを訪れた。
このとき鴻山は北斎の卓越した画才を見抜き、自宅に碧漪軒というアトリエを建てて厚遇し、北斎に入門した。
北斎は「旦那様」、鴻山は「先生」と互いに呼び合う間柄となっていった。
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かくして四度にわたり晩年の北斎は小布施を訪問、鴻山の依頼で高井家の菩提寺である岩松院の天井画「八方睨み鳳凰図」に取り掛かることになるのだ。
この天井画に要した絵の具代が150両、天井の素材は桐材、貼られた金箔は4,400枚。
とてつもない費用は高井家の金子から出て行ったものに間違いない。
明治になり高井家は破産、鴻山は明治16年(1883年)78歳で死去した。
なぜか、墓所は小布施の祥雲寺にあるそうだ。






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by hanaha09 | 2017-11-19 19:02 | 田舎暮らし | Comments(0)

八方睨み鳳凰図

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前々から寄ってみたかった小布施の岩松院。
本堂天井に描かれた21畳の大きさの「八方睨み鳳凰図」、写真撮影禁止でパンフレットを写真で写したものだ。
どうも色合いはほど遠い。
鳳凰の白目、翅の縁取りは真っ白、橙色の翅はもっと鮮やかな橙色、翅の青色は深みのある藍色...
描かれたのは160年以上たつ1848年、塗り替えは一度も行っていないというそのまんま。
朱、鉛丹、石黄、岩緑青、花紺青、藍、そしてベロ藍(ドイツベルリンで生まれたベルレンブラウ、北斎はこのベロ藍と日本の藍色とで透き通った空と水を描いた)。
これらの顔料を膠水で溶いて彩色した。
鳳凰の周りには胡粉、下地に白土を塗り重ね金粉を蒔いたもの、きらびやかに光る。
自然光の中に浮かぶ上がる鮮やかな肉筆画だ。
作者と言われる葛飾北斎は当時89歳、4度目の小布施、スポンサーでもあり弟子でもある小布施高井鴻山家滞在時に1年を費やした渾身の一作で、翌年江戸に戻り亡くなったと言われている。
しかし、北斎がこの年に江戸にいたという事実、89歳の老体をもって小布施を訪れ直接描いたとするには無理があるのでは?
そこで出て来るのが、娘の葛飾応為説。
この豪快なタッチ、眼を欺くような色使い、応為の作風とよく似ている、彩色・仕上げを担当したのでは?
八方睨みの図からは「画狂老人卍」にふさわしい画の執念が感じられる。
そして、北斎の死と共に「仙人になる」と言い残し、消息を絶ってしまった応為。
北斎は、
「人魂で行く気散(きさん)じや 夏野原」
(人魂になって、夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか)
との辞世の句を残している。








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by hanaha09 | 2017-11-18 18:34 | 田舎暮らし | Comments(0)

ボージョレーヌーボー

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昨日が日本の解禁日だったそうだ。
残念ながら山の中まで新酒は届かない。
で、ボージョレーヌーボーは単なる新酒ではないのだ。
普通の葡萄酒とは醸造方法が違う。
「マセラシオン・カルボニック」という醸造方法で、日本語に訳すと「炭酸ガス浸潤法」という急速発酵法。
収穫した葡萄をつぶさずにタンクの上からどんどん入れていく。
葡萄の重さでタンクの下の葡萄はつぶされ発酵していく。
その時発生する炭酸ガスがタンクの中に充満する(最近では強制的に炭酸ガスやら窒素ガスを吹き込んだりするらしい)。
その中ではつぶれていないぶどうの細胞内部で酵素の働きによってリンゴ酸が分解され、アルコール、アミノ酸、コハク酸などが生成され、ぶどうの皮からも成分が浸出する。
この方法で造ったワインはタンニンが少ないわりには色が濃く、渋みや苦味が通常のワインより少なくなる。
リンゴ酸も分解されるので、味わいもまろやかになり、炭酸ガスによって酸化が防止されるのでワインがフレッシュに仕上がるのだそうだ。
そもそも、大量にワインを買い付ける業者にとって、このヌーボーは“試飲酒”。
その年のワインをどのくらい購入するかの指標になるのだ。
このヌーボー、取って置いておいても熟成することは無い、2-3か月もたてば料理酒にしか使い道がない。
この季節、フランスの料理屋に行けば常に「ボジョレーヌーボー、シルブープレ!」
とにかく値段が安いのでぼったくられることはない。
ワイン通でもなんでもない素人日本人の安全牌の選択肢なのだ。











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by hanaha09 | 2017-11-17 17:47 | 田舎暮らし | Comments(0)

初雪が降った

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「浅間山に3回雪が降ると里にも雪が降るだんべ。」
と、村では言われている。
一昨日から昨日に掛けて浅間山が白くなった。
ちょうど、埼玉から嬬恋村資料館にやってきた団体さんに話した。
「今日は浅間山で今冬3度目の雪化粧なんですよね、昔からの言い伝えでもうそろそろ里にも雪が降る頃なんですよ。」
今朝はその通りの初雪、庭の景色がうっすらと白。
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そして、出かけようとした車の窓も雪。
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冬がやってきた。





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by hanaha09 | 2017-11-16 16:54 | 田舎暮らし | Comments(0)

「七五三」が凄い

今日11月15日は「七五三」の日。
最近の「七五三」がすごいことになってるのだそうだ。
子供には着物もドレスも着せたい、写真撮影、そして神社への参拝、家族の食事会と盛りだくさんのスケジュールとなる。
中には、ホテルなどで記念撮影や食事を楽しむ“七五三披露宴”も、全国で急増しているのだそうだ。
司会者を立て、入場からお祝いの言葉、乾杯、余興、謝辞、閉会が一般的。
お色直しやケーキ入刀、キャンドルサービス、余興、産まれてからの写真をスライドで紹介なども。
七五三披露宴に呼ばれるとご祝儀も必要。
「引き出物」なんかもちゃんとあり、もう完全に結婚披露宴状態とか。
江戸時代中頃から民間で広まったと言われるこの行事、3つの行事である「髪置(髪を伸ばし始める)の儀」「袴(初めて袴をつける)儀」「帯解(帯を使い始める)の儀」の事。
当時は乳幼児が成人するまでの生存率が低く、成人する子どもは幸運とされていた。
子供の無事と感謝を祈る行事だ。
着物を着て、有名神社にお参りをする風習は江戸の呉服屋と神社が仕掛けた営業作戦が始まりのようだ。
現代は写真屋と着物レンタル屋とホテルの結託したもの?




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by hanaha09 | 2017-11-15 18:30 | 田舎暮らし | Comments(0)