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あるちゅはいま日記

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2017年 11月 22日 ( 1 )

岩松院と福島正則

まだひつこく小布施の岩松院。
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織田信長が敗れた本能寺の変の後、天正11年(1583年4月賤ヶ岳付近で羽柴秀吉柴田勝家の戦いが起きた。
この戦に勝利した豊臣秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩となった。
そしてこの戦で世に喧伝されたのが、秀吉の家臣である7人の若手の武将である「賤ヶ岳の七本槍」といった人々だった。
その一人に福島正則がいた。
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その功により福島正則は、伊予・今治10万石、後に尾張・清洲で24万石と大身の大名となった。
そして、関ヶ原の戦いがやってくる。
正則は徳川家康を総大将とする東軍につき、その勝利に一番の貢献をした福島正則は、論功行賞により安芸・広島と備後の鞆、49万8200石の大封を得た。
新たな領地では、検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収するなど、領民の負担を少なくする善政を行った。
また領内の寺社の保護にも務め、厳島神社の平家納経を修復した。
しかし、大阪冬の陣、大阪夏の陣ともに江戸留守居役を命じられ事実上軟禁される恰好になった。
幕府にとっては、豊臣恩顧であり、勇猛果敢な福島正則は危険かつ邪魔な存在となっていたのだ。
家康も亡くなってすぐの1619年、福島正則は幕府から、城の修復の件で武家諸法度違反に問われることになる。
台風による水害のために壊れた城の修復を行った際、幕府に届けを出さなかったというもの。
一応、「本丸以外の修復部分を破壊すること」ことで一件落着かと思えたが、正則は本丸の修復部分だけを破壊するにとどまった。
おまけに、人質として江戸に送るはずだった息子、忠勝の出発が遅れたことも重なり、時の将軍徳川秀忠により、安芸・広島・備後50万石を没収され減封・転封される事態となった。
紆余曲折の後、正則は越後国魚沼郡の2万5千石と信濃国高井郡の2万石の合わせて4万5千石に転封となった。
信濃国高井郡こそ今の小布施だった。
その後、越後2万5千石は家督を譲った息子、忠勝が逝去のため幕府に返上。
信濃国にやってきて5年、悲運を嘆きつつ64歳で亡くなった。
しかも、幕府側の検死役が到着する前に正則の遺体を火葬してしまい、幕府の咎により残りの領地信濃高井郡2万石も没収されてしまう事となる。
正則が自ら定めた菩提寺の岩松院に正則の霊廟が建立された。
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遺骨の埋葬された五輪の塔がこの霊廟内にあるそうだ。





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by hanaha09 | 2017-11-22 18:27 | 田舎暮らし | Comments(0)