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あるちゅはいま日記

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2017年 09月 19日 ( 1 )

満蒙開拓団

9月18日は満州事変の勃発した日だ。
日露戦争講和により日本が経営の権利を得た満州鉄道が柳条湖付近で爆破されたのだ。
当時満州で張学良が率いていた中国軍の犯行と発表された。
満鉄の警備を担っていた関東軍は日本帝国の権益を犯したとのことで一挙に満鉄近辺はおろか満州一帯に軍事展開、難なく制圧した。
実はこの事件、関東軍の自作自演、満州占領の口実として利用したというのが戦後の一貫した説だ。
この事件をきっかけとして、満州帝国の建国、激戦の太平洋戦争そして、日本の敗戦という歴史をたどることとなる。
「五族協和と王道楽土」を建国の理念に掲げた満州帝国には1932年の第一陣をはじめとして1945年までに14次にわたり日本各地より満蒙開拓団が送り込まれた。
その数は32万人と言われている。
この満蒙開拓団には当時、1930年から2年にわたって続いた大凶作と、昭和恐慌に伴う蚕繭の大暴落で疲弊した農民たち、とくに在郷軍人に白羽の矢があてられた。
政府中枢にとっては満州一帯の国境防衛、匪賊からの防衛をもになった屯田兵だったのだ。
「一家に二十町歩(20ヘクタール)、20年間肥料の要らない畑が無償でもらえる」こんな話で到着した満州の地にはすでに耕作されていた畑も家もあった。
その地は長年にわたって中国人たちが開拓してきた土地、満州政府により二束三文の対価で強制的に買い上げられたものだった。
開拓団の人々は気候風土の違い、民情・言語違い、中国人から反日の眼、匪賊からの度重なる襲撃、辺境の地で辛酸をなめつつ田畑を耕す日々だったそうだ。
そして迎えたのが1945年8月9日のソ連軍の満州への侵攻だった。
国境防衛にあたった関東軍は全滅、残された満蒙開拓団には召集により老人、女性、子供だけ。
敗戦後、帰国の途に着いた開拓者らの旅路は険しく困難を極め、食糧事情や衛生面から帰国に到らなかった者や祖国の土を踏むことなく力尽きた者も多数いる。
ようやく着のみ着のままで日本の土地を踏みしめた開拓団員にとって、一度捨てた故郷で再び生活を営む余地はすでに無くなっていた。
やむなく内地再入植の道をたどらざるを得なかった。
もともと開拓できる土地などは無い、わずかに残ってた土地が北海道、富士山のすそ野の上九一色村、そして浅間山山麓の軽井沢、北軽井沢。
再入植者が語る、「自分の人生で一番苦しかったのは軽井沢だ。この土地では本当の開拓が求められた。」この地は火山灰、火山礫のゴロゴロする、なんにもできない放っておかれた土地なのだ。
北軽井沢を国道沿いに少し北へ下った所にあるバス停「甘楽(かんら)」。
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その向かいにいくつか建てられている満蒙開拓碑。
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この北軽井沢の土地に名付けられた「甘楽」は群馬県甘楽郡からとられた地名だ。
甘楽郡から満州に送りだされた満蒙開拓団の人々がこの地に再入植した。
今ではこの高原には青々とした白菜、キャベツ畑が広がり牧草地の向こうにはのどかな牛舎が見える。
この碑の裏には、辛酸を極めた開拓団の経緯と団結力によって乗り切った強い意志、犠牲者の追悼、そして「五族協和と王道楽土」には程遠かった悔しさと恒久平和を祈念することばが力いっぱいに刻み込まれている。
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by hanaha09 | 2017-09-19 19:53 | 田舎暮らし | Comments(0)