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あるちゅはいま日記

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高井鴻山と葛飾北斎

なんで晩年の北斎の肉筆画が小布施に現存するのか?
今日はちょっと補足をしておこう。
高井鴻山は小布施村の豪農商、高井家十代目の四男として誕生。
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高井家は当時、綿糸や菜種油の生産を手掛けた小布施商人の一人で、その商売は信州を手始めに江戸、京阪北陸、瀬戸内まで商圏を広げていた。
天明の飢饉の際には自ら倉を開放して、その巨万の富を困窮者の救済に当てた、という。
その功績により幕府より高井家の苗字及び帯刀を許された一家だ。
文政3年(1820年)、鴻山15歳のとき京都へ遊学、絵画、浮世絵、国学、儒学、漢詩を学んだ。
結婚後には江戸へ移住、朱子学を学び蘭学にも研鑽を積んだ。
天保11年(1840年)、父熊太郎が病死し鴻山が当主となったが、経営・理財は全く不得手であった。
勉学の傍ら、花柳界で金持ちよ御曹司よと乱痴気騒ぎをし、自ら「放蕩宗」と称した。
このころに、北斎が出入りをしていた江戸日本橋の呉服問屋、十八屋でこの二人が遭遇したようだ、十八屋の亭主も小布施出身の豪商だった。
そして、北斎83歳のとき小布施の鴻山(時に37歳)のもとを訪れた。
このとき鴻山は北斎の卓越した画才を見抜き、自宅に碧漪軒というアトリエを建てて厚遇し、北斎に入門した。
北斎は「旦那様」、鴻山は「先生」と互いに呼び合う間柄となっていった。
高井鴻山と葛飾北斎_b0126549_18530675.jpg
かくして四度にわたり晩年の北斎は小布施を訪問、鴻山の依頼で高井家の菩提寺である岩松院の天井画「八方睨み鳳凰図」に取り掛かることになるのだ。
この天井画に要した絵の具代が150両、天井の素材は桐材、貼られた金箔は4,400枚。
とてつもない費用は高井家の金子から出て行ったものに間違いない。
明治になり高井家は破産、鴻山は明治16年(1883年)78歳で死去した。
なぜか、墓所は小布施の祥雲寺にあるそうだ。






by hanaha09 | 2017-11-19 19:02 | 田舎暮らし | Comments(0)
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