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あるちゅはいま日記

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今日は長崎

ポルトガル船マードレ・デ・デウス号が当時のカピタンモール(マカオ臨時総督の権限も持っていた)、アンドレ・ペッソアを乗せてやってきたのが一六〇九年六月のこと。
時は徳川家康の時代、なんとも複雑で、よくわからない事件が起こった。
今の長崎県庁の地はその真下まで海に迫った小高い岬だった。
そこには、イエズス会の教会がそびえていた。
集まったのは長崎奉行長谷川左兵衛藤広、長崎地方地方支配代官村山等安アントニオ、そして肥前有馬日野江の城主ジョアン・プロタシオ有馬晴信。
長崎奉行と代官は、かねてより一方的であったマカオと長崎間貿易の主導権を、ぜひ彼らの手に握りたいと考えていた。
有馬晴信はキリシタン大名の一人、徳川家康の遠縁にもあたる。
地味に乏しい雲仙岳山麓を抱え、御朱印の元、広く南蛮貿易に手を広げ利益を上げていた。
嵐を避けて立ち寄ったマカオで、彼の御朱印船乗組員が騒動を起こして殺され、その上積み荷の家康所望の香木の伽羅まで没収されてしまった。
晴信は怒り狂う家康からデウス号捕獲の許可を取り付けていたのである。
大航海時代以降、世界をまたにかけて覇権を拡大していたマカオの総督はそう簡単に日本の役人たちの言いなりになるわけはない。
まさに戦の火ぶたが切って落とされようとなった時、マカオ総督ベッソは逃走をはかった。
が、晴信の手配した6隻の軍船と30数隻の小舟、千七百の兵でもって激しい戦闘の結果、3日後にマードレ・デ・デウス号は自爆、33尋の海底に真っ二つになって沈んでいった。
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デウス号の大砲。
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この事件、一体何だったんだろう?
生糸などの輸入品を一手に取り扱ったポルトガル商人たちの権益保持・拡大、そして南蛮貿易の利益と引き換えのキリスト教布教の常套化、その果てには植民地化の考えがポルトガル人の頭にあった。
徳川幕府にとってはキリスト教布教による弊害を改めて防御、それにポルトガル商人、布教者、キリシタン大名による人身売買の悲惨さも目のあたりにしたようだ。
彼らの世界地図で見るとファーイーストのちっぽけな国日本、大国に対してもいうことは言う、やることはやる。
今の日本人も彼らのルーツが受け継がれてるはずだ。
by hanaha09 | 2017-08-09 11:35 | 田舎暮らし | Comments(0)
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