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あるちゅはいま日記

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家康の東遷事業

嬬恋村の鳥居峠を源流とする吾妻川は上州を東へと流れ下り、渋川で利根川と合流する。
古来、利根川は太平洋ではなく、江戸湾(現在の東京湾)に注いでいた。
江戸時代第一代将軍であった徳川家康は、江戸湾に流れていた利根川の流れを銚子の太平洋に流そうとする、東遷事業に取り掛かった。
家康は東郡代に関東郡代に伊奈備前守忠次(ただつぐ)を任命、利根川東遷事業を行わせた。
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事業は文禄3年(1594年)から60年の歳月をかけて、忠次から忠政、忠治と受け継がれ、承応3年(1654年)に完了。
60年の歳月をかけた世紀の大事業でもあった。
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栗橋近傍と関宿近傍を中心に、赤堀川などの河川掘削や、拡幅、掘り下げや、締切りなどの工事が行われ、本流の海への出口は、隅田川から江戸川、そして銚子へと変えていった。
その目的は、利根川による洪水、ひいては江戸防災のための治水工事だったとされた。
ところが、近年、その通説が覆されてきた、治水は最大目的ではなく、いってみれば3番目の目的。
2番目の目的は新田開発であり、最大の目的が、実は、急成長の消費地、江戸を支える物流ルートとしての水路の確保だったとされる。
家康が入った当時の江戸は、城下に茅葺の民家が100戸ほどあるだけだった。
その後の江戸城下町建設は、すざまじい勢いで行われ人口は急増、江戸中期には60万~100万人の人口に膨れ上がった。
米はもちろん、食料などの生活物資の調達、輸送システムの確立がきわめて重要な案件であった。
幕府は酒田など日本海側及び福島などから江戸に米を輸送するために津軽海峡、三陸沖を通る東周り航路を開拓した。b0126549_20341668.jpg
この東廻り航路は、犬吠崎を回る航海で危険度が高かった。
また一気に房総半島先端を回って東京湾に入ることが難しく、下田まで行って風待ちをしてから改めて江戸に向かったという。
この東遷事業により、銚子経由で川を遡るルートが中心となった。
銚子から関宿に上って、江戸川で行徳に出て、小名木川経由で日本橋に着くまでの内川廻しだ。
距離にしておよそ200キロメートル、約50時間かかったらしい。
田沼意次の時代にも、印旛沼開拓事業に取り掛かった。
新田開発との触れ込みであったが、蝦夷地開発並びにロシアとの交易を狙った銚子方面から江戸への直通運河開拓が本当の狙いであったと言われている。
「すべての道はローマに通じる」同じように家康は「すべての水運は江戸に通じる!!」と叫んだんだ。
この、利根川、江戸川を天明3年の天明泥流が1400人もの名もなき庶民の命を押し流していった。
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by hanaha09 | 2017-04-22 20:36 | 田舎暮らし | Comments(0)
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