ブログトップ

あるちゅはいま日記

hanaha09.exblog.jp

北前船(きたまえぶね)

江戸時代、1600年代後半には日本海を沿岸をめぐる海道、北前船が誕生した。
b0126549_20484192.jpg

北前船とは大阪から蝦夷地まで下関、瀬戸内、日本海沿岸各地の港に寄航しながら往来した、買積み廻船のことをいう。
買積み廻船とは、運賃をもらってただ商品を運送する廻船ではなく、船主自体が、積荷商品を買い積み、それを売買することで利益をあげる廻船システムをいう。
春に大阪を出発し、瀬戸内海や日本海の寄港地で雑貨、食料品を商売をしながら北上、5月下旬頃に蝦夷地に到着する。
そして、蝦夷地ではニシンの〆粕や昆布などを仕入れ、8~10月の間に寄港地で商売をしながら、11月上旬頃には大阪に到着する。
航海が終わると船を大阪で陸揚げし、北陸地方からやってきた船乗りたちは徒歩で地元に帰って正月を迎え、春先にまた徒歩で大阪に戻った。
一枚帆の北前船の船足は遅く、また冬の日本海の荒波には耐えがたく、年に一往復の航海だった。
当初は近江商人の雇われ船頭を勤めていた北陸の船頭たち、やがて自らの裁量で産物を仕入れ、売り捌く北前船の船主になっていった。
蝦夷地で仕入れた昆布は大阪、京都へ運ばれ、日本の昆布文化を作り上げた。
b0126549_2113596.jpg

一部は九州、琉球を経て中国にもたらされ、現代では世界の「UMAMI」文化の重要な食材にもなった。
日本海沿岸の各地に運ばれた昆布は「おぼろ昆布」などにも加工が施され、各地での食品加工産業の勃興にもつながった。
秋田の能代港からは「阿仁銅山」の銅が積み込まれ、大坂、そして長崎まで運ばれた。
長崎から先の流通を担ったのは、西洋の国で唯一日本と国交のあったオランダ。
その量は、当時、国際通貨として流通していた銅の三分の一とも半分ともいわれている。
今でもベトナム通貨の単位である「ドン」、日本語の銅から派生したものだ。
b0126549_21104880.jpg

「世界経済を動かした阿仁の銅」を担った北前船だった。
ニシンの〆粕は西日本各地で栽培が盛んになっていた綿花の肥料となった。
特に阿波で盛んであった「藍」栽培にも大量にさばかれた。
収穫量が増えた綿花、染料は、着心地、色も多彩な木綿衣料となり江戸時代の庶民たちの衣服に大変革をもたらすこととなった。
そして、蝦夷地には西日本各地で採れた米、味噌、醤油、砂糖、酒、衣類などのあらゆる生活物資を送り届けた。
それらと一緒にもたらしたのが、蝦夷を代表する「江刺追分」、このルーツは新潟の「佐渡おけさ」と言われている。
この「佐渡おけさ」はもともと信州小諸近辺で歌われていた「信濃追分」馬子唄が北国街道を渡っていたもの。
この一航海で得られた利益はおよそ一億円にも上った。
海の物流大動脈としての買積み廻船 「北前船」、江戸時代の「海を往く総合商社」に間違いはない。
[PR]
by hanaha09 | 2017-04-20 21:42 | 田舎暮らし | Comments(0)
<< かもしかに出会った Chonmage >>