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あるちゅはいま日記

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ポルトガルと鉄砲と日本

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ポルトガル人が日本に初めて到来したのも大航海時代だった。
1543年室町時代、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し、鉄砲(火縄銃)の技術が日本に伝わった。
その鉄砲がその後、日本の歴史に大きな影響を与えることになった。b0126549_12573289.jpg
その6年後には,ポルトガル国王の命でキリスト教の海外布教活動を行っていたイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えた。b0126549_135307.png
室町・安土桃山時代から江戸時代に至るまで、ポルトガルは南蛮渡来の貿易品だけでなく実に様々なものを日本に伝えた。
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豊臣秀吉はきらびやかな刺繍を施した深紅のビロードのマントやカッパなどの南蛮ファッションを好んで着用した。
京都では,ポルトガル人が着ていた袴(カルサン)や下着(じゅばん)などが,庶民の間で大流行した。
今でも日常的に使われるボタン(botão),パン(pão),タバコ(tabaco),てんぷら(tempero),こんぺいとう(confeito)などは,ポルトガル語が転じたものだ。
まさにポルトガルブームだった。
その間、今までにない鉄砲の威力に戦国大名たちは飛びついた。
鉄砲はなんとか自前で作ることができるようになったが火薬が無い、特に原料の一つの硝石は国内で調達ができなかった。
キリスト教宣教師たちは、これら大名達をキリスト教へ入信させるのが得策と考え、大名達に接触した。
高山右近に代表される封建領主たちには宣教師に布教許可を得る見返りに、交易による武器・弾薬の提供を約束したのだ。
ここに大名、宣教師、商人の三者の思惑が合致し、利権のトライアングルが完成した。
ポルトガル商人は日本人の足元を見て、インド産の硝石を原価の何倍かの金額を吹っかけて売りつけようとした。
大名たちは硝石は欲しいがさりとて、無尽蔵に代金を支払えない。
そこに奴隷が取引商品として浮上してくる、つまり硝石の必要性が日本人奴隷を生んでしまった。
日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。
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1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。
秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は大坂城へポルトガル人宣教師ガスパール・コエリョを呼び、日本人奴隷の売買を止め海外のすべての日本人を帰国させることなどを命じた。
徳川幕府に入ってもこの政策は引き継がれ、鎖国制度に発展していった。
日本人にとっての悲劇が最小限に抑えられた天下の沙汰だった。
しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。
その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあったと言われている。
大航海時代よりいかに奴隷貿易が利益を上げられる手段の一つであるということがうかがえる。
なんという時代だったんだろう...
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by hanaha09 | 2017-04-06 13:11 | 田舎暮らし | Comments(0)
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