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あるちゅはいま日記

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サムライが見たアメリカ

幕府は、1860(万延元)年、使節をアメリカに派遣し、日米修好通商条約の条約批准書を交換させることにした。
2月13日、総勢77人の遣米使節団正使が、アメリカから差し向けられた軍艦ポーハタン号に乗り込み、横浜を出港した。
この時の使節の随行艦として、咸臨丸を派遣することにした。
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遣米使節団先立つ2月4日には、「咸臨丸」が品川沖を出帆した、正使一行の護衛もさることながら、もし事故があったときの「身代わり」だったのだ。
咸臨丸の責任者は木村喜毅、勝海舟が艦長、福沢諭吉をはじめ通訳のジョン万次郎、瀬戸内海・塩飽諸島の水夫ら総勢96人だ。
この年の太平洋は大荒れ、勝海舟も福沢諭吉も船酔いで何もせずに閉じこもり、船の中では誰の指示もなく、操縦も大荒れだったらしい。
3月18日、使節団正史一行より一足早く、無事にサンフランシスコに入港、勝も福沢も途端に元気になったとか。
マストに翻った「日の丸」が、初の太平洋横断航海成功の壮挙をたたえているようだった、と。
後に福沢諭吉は咸臨丸による単独航海の決断と勇気と技量は、「日本国の名誉として世界に誇るに足る」と称賛しているのだが...
同船したアメリカの海軍士官は「日本人が無能で帆を十分にあげることができない」などと、その操船ぶりを手厳しく批判、船酔いの指揮官を嘆いていたようだ。
使節団正史はその後ワシントンまで、当時のブキャナン大統領と批准書の交換。
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咸臨丸は修理などの後、日本に引き返した。
ワシントンでの国務長官主催の舞踏会では、「こま鼠ねずみの廻まわるが如く、女のすそには風をふくみ、いよいよひろがりてめぐるさま、いとおかし」。
大統領が商人と同じ服装で何の飾りもないのを見て、「こちらは盛装できたのに」と愚痴をこぼしたり。
亜米利加人たちの「口吸い」(キス)には開いた口も塞がらない。
毎日が野牛とか豚とか四つ足ばかり、小刀とか突き刺すフォークとか言う「野蛮な箸」での食事はとまどうばかり。
「豚の仔の丸煮」が出てきたときには、これは「安達ヶ原」(伝説の鬼婆)と吃驚した。
まずい生暖かい白い汁をわざわざ皿に入れて匙ですくって飲まなければならないのか、椀に入れればよい。
イリコや昆布、鰹節で出汁をとってない、旨くないのも当然だ。
春なのに、シャンパンのコップに氷が浮いていた、思わず吐き出したり、かじって食べたり...
初めての馬車に乗れば、奇妙な箱に乗り込むと突然動きだしびっくりした。
部屋に入ると絨毯が敷き詰められていた、アメリカ人はその上を土足で歩き回るのだ。
サムライたちの見た西洋社会だった。b0126549_12424951.jpg
咸臨丸は1860年の6月23日に相模湾に帰ってきた。
目の前の富士山に向かって一同は「やっぱり日本が一番じゃ」、と。
勝海舟は「今日からが日本丸の航海の始まりじゃ...日本は欧米に負けぬほどの実力をつけねば...」
日本の歴史がグーッと動く瞬間であったようだ。
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by hanaha09 | 2017-03-29 12:45 | 田舎暮らし | Comments(0)
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