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あるちゅはいま日記

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幕末の外交

「太平の 眠りを覚ます 上喜撰 たったしはいで 夜も眠れず」
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嘉永6年(1853年)アメリカ合衆国のペリーが2隻の蒸気船を含む4隻の軍艦を伴い浦賀にやってきた。
宇治の高級茶葉の銘柄「上喜撰」を蒸気船、「しはい(4杯)」を4隻と掛けて当時の幕府の狼狽ぶりを表わした川柳だ。
この砲艦外交に始まり、不平等条約と言われる「日米通商条約」引き続き「日英通商条約」が安政5年(1858年)に結ばれた。
ペリー等は軍艦の全砲門を開けたまま入港したり、空砲を発砲するなどの威嚇外交を展開した。
これに対し幕府は「無念いわんかたなし」「無念の歯かみなしたるのみ」と言いながら「穏便すべし」との指示を出した。
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なぜか...当時幕府の所有する大砲は鉄の玉を打ち出すだけのもの、それに対しアメリカの大砲は着弾する際に爆発する炸裂弾であった。
圧倒的に有利な武力の下にイギリスが清国を打ち負かした天保11年(1840年)の阿片戦争の情報を詳しく分析していたのだ。
幕府は天保13年(1842年)、それまでの「異国船打ち払い令」を撤廃し、外国船に対する「薪水給与令」まで発布している。
そして、幕府は当時制定されていた国際法「万国公法」を入手、翻訳の上熟知していた、つまり米国はこの国際法に著しく反する行為はできないということを頭に入れていた。
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また、仙台藩士大槻平次は「補給線を持たないアメリカには戦争はできっこない」と幕府に説いていた。
かくして、「幕府は日本海岸に接近し、遭難した外国船に大砲を打ち込む、この方針を変えない限り戦争に訴える覚悟である」と、のたまうペリーに相対した幕府の林大学頭は「ことと次第では戦争もやむを得ない、日本は人命を一番としてきた、その証拠に300年間も平和が続いている」と切り返した。
「日米通商条約」では治外法権・関税の自主権放棄(関税は決められていた)を認めたものの、アメリカ人には開港地の限られた範囲内での居留という条件を付けた、これは外国商人の日本全国での活動を制限し国内産業の保護に大いに役立った。
そして、日米通商条約には「阿片の輸入厳禁たり もし亜米利加商船三斤以上を持ち渡らは日本役人是を取り上へし」と、阿片に毒され衰退していった清国国民のような苦痛は日本にはやってこなかった。
続いて結ばれた「日英通商条約」税則にも同様の条項が盛り込まれている。
「...夜も寝られず」との幕府の重鎮・交渉役たちは狼狽どころか用意周到、柔軟かつ巧みでしたたかな交渉をこなしていたことになる。
現在のなんだかへんてこなアメリカにしっぽを振りに行く外交、一度締結された合意を実行されなくても何もしない外交、20年たっても国家犯罪の犠牲者が帰ってこれない外交...
どうなるんでしょうかねぇ。
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by hanaha09 | 2017-03-28 19:18 | 田舎暮らし | Comments(0)
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