ブログトップ

あるちゅはいま日記

hanaha09.exblog.jp

天明の打ちこわし

江戸時代も半ばを過ぎたころ、田沼意次の重商主義政策により、農民が都市部へ流出、冷害・多雨と重なり飢饉が起こった。
更に1783年(天明3年)に入ると、3月12日(旧暦)には岩木山が更に7月6日(旧暦)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。
b0126549_2225395.jpg

東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定で約2万人)が餓死したと、杉田玄白の著書『後見草』が伝える。
そして、1787年(天明7年)5月、江戸・大坂で米屋の打ち壊し事件が起こり、その後全国各地へ打ち壊しが広がる。
b0126549_22233245.jpg

大飢饉で多くの国民が貧困の最中にあったにもかかわらず、一部の商人たちが米相場の上昇を見込んで米を買い占め、江戸では大変な食糧危機になっていた。
困った江戸町民たちは深川の彦四郎など7人を代表にたてて、米商人たちに安く米を分けてもらえるよう交渉した。
しかしぼろ儲けの見込める米を安く放出する米商人などあるはずがなく、当然交渉は決裂。
怒った町人たちは、米問屋に上がりこむと、抗議のため米屋の家財や建物を叩き壊した。
町人たちは確かに米問屋を襲撃はしたのだが、店の者に暴力を振るうこともなく、しかも金品はおろか米粒ひとつ略奪しなかった。
深川で始まった打ち壊しは翌日には江戸全土に広まり、わずか4日間の間に5000人以上に膨れ上がった。
最終的に北は千住から南は品川に至る四方4里の米商人や富豪宅などがことごとく打ち壊され、その被害は米屋だけでも980軒にも及んだが、なんとこの騒動で死者、けが人ともゼロ。
また暴動にありがちな火災もゼロ。
帰るときにはちゃんと米代を払って米を持ち出したりしたらしい。
鎮圧のために出動した先手組(警察)はその様子を見て「誠に丁寧礼儀正しく狼藉つかまつり候」と呆れたという。
一帯なんだったのだろう?
反老中田沼意次派によって意図的に行われたものであった。
いわば政治マニフェスタシオン。
権勢を誇った老中田沼意次は、城下の治安を守れなかった責任を問われて失脚。
政敵松平定信にその地位を譲ることになったのだ。
現代でも反大統領派と大統領擁護派が激しく殴り合うなどの様相を見せるどこかの国とはまるで大違い。
日本人に生まれててよかった。
[PR]
by hanaha09 | 2017-03-25 22:27 | 田舎暮らし | Comments(0)
<< ローテクジャパン 佐渡の金銀は嬬恋村を通って江戸... >>