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あるちゅはいま日記

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享禄の経筒

仏教における末法思想の危機感から、仏教経典を弥勒出世の期まで伝え残すことを目的として、書写した経典を土中に埋納した遺跡を経塚と言う。
鎌倉末期以降には、本来の目的からは逸脱し、現世利益の祈願や追善供養のための埋納に変わっていったとも言われている。
そして、経筒(きょうづつ)とは、経典を納めるために用いる筒形の容器のこと。
陶製や石製のほか、金銅製や鉄製など金属製のものがある。
紙本経は残存しにくいが、経筒の銘文は経塚造営時の事情を示す貴重な歴史資料なのだ。
明治44年、嬬恋村三原の黒岩繁太郎氏は、同所上ノ山の畑地で、浅間石で作られた高さ約30センチの筒形の保護容器に収められた経筒を発見した。
芦生田から北軽井沢方面に向かった県道沿いにある鎌原氏によって開基されたといわれる常林寺。
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この経筒が常林寺に「嬬恋村指定重要文化財」として大切に保管されている。
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この仏壇に浅間石で造られた容器が鎮座する。
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容器の中には銅板製渡金の円筒形の経筒、底は平底、蓋は無紐の被蓋式盛蓋で、総高は10.5センチ、口径4.5センチ。
筒には、
「十羅刹女 越前州平泉寺
 奉納大乗妙典六十六部聖
 三十番神 享禄三天今月日
 弘朝之」
との銘文がある。
享禄3年(1530)越前国(福井県)の弘朝とされる聖(布教者)が、法華経(大乗妙典)六十六部を書写して奉納した、と書いてあるそうなのだ。
発見された当初には、経筒には経巻の痕跡が残っていたとも伝えられている。
はるか487年前、三原の上ノ山に書写された法華経が、修験道者の手で経筒に入れられ納められた。
誰が?何の意図?で埋納されたのかは定かではない。
天仁元年の浅間山噴火による災害後、武器、刀を捨てさり、修験道の教えによって開拓が進められ、また統治が行われてきた嬬恋の地。
武士が台頭し、治安の乱れも激しく、民衆の不安も増大しつつあったこの地に平穏が来るようにとの願いがあったに違いない。
by hanaha09 | 2017-02-23 14:21 | 田舎暮らし | Comments(0)
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