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あるちゅはいま日記

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江戸にやってきた象

享保13年(1728年)に広南(いまのベトナム)から、中国人貿易商の手によって2頭の象が長崎にやってきた。
江戸の将軍徳川吉宗に献上されることになっていた。
雌の1頭は長旅のせいか、気候のせいか上陸後3か月ほどで死亡した。
そして翌年春には、長崎奉行所から江戸までの道中を象のご一行様が巡り歩いた。
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途中の京の都では中御門天皇の御上覧があった。
この時象には『広南従四位白象』という官位まで与えられた。
道中多くの人々がこの珍獣を眺めては熱狂した。
日本中、象フィーバーが巻き起こった。
静岡の大井川をわたる際には、大勢の人足が上流に肩を組んで並び、流れを和らげたその下流を象がおもむろに渡った。
難所の箱根ではやはりお疲れか、1泊の予定が4泊にもなってしまった。
六郷川の渡しでは、30数隻の船を並べ、その上に板を敷き、要所に杭を打ち、船を固定して3トンもの体重の象がわたっても大丈夫な仮設道路を作った。
三百五十里、2か月余りも要した長旅の末到着した江戸で、一行は涙涙の感激に浸った。
江戸城では迎えた吉宗が大広間からのお目通りをした、鼻の長い大きな体に目を見張ったそうだ。
象はしばらく浜離宮で飼育されたが、何しろ年間の飼料代200両、食料の調達に世話の人手、番人を殺すなどの事件もあったため、民間に払い下げられた。
餌を運んでいた中野村の源助が引き取り見世物にした。
江戸の町には一目この象を見ようと見物人が押し掛けた。
源助は象の糞を疱瘡の特効薬として売り出したり、土産用の三色饅頭も飛ぶように売れた。
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そのうち評判だった象も、日がたつにつれて見物人も来なくなり、1742年(寛保2年)寒さの押し寄せる12月1日、異国の地で寂しく死んでいった。
象の皮は幕府におさめられ、頭の骨と、二本の牙と、鼻の皮は中野坂上にある宝仙寺の住職が供養をしたうえで寺の宝物にしようと預かった。
時が過ぎ、太平洋戦争の終焉を迎える前の昭和25年五5月25日のこと、米軍の空襲により焼夷弾が中野の宝仙寺のあたりにも雨のように降ってきた。
翌朝、本堂の焼け跡から大きな炭のようなものが見つかった。
それはあの象の牙だった。
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by hanaha09 | 2016-03-13 12:35 | 田舎暮らし | Comments(0)
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