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あるちゅはいま日記

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上杉謙信は女だった

戦国時代、吾妻路は武田、上杉2大勢力の攻防戦が繰り返されていた。
上越に拠点を置く上杉謙信、関東管領職は代々上杉家が担っていた。
吾妻路は重要な交通拠点となっていた。
一方甲州から信州に勢力を伸ばしていた武田信玄は関東にその手を伸ばしたかった。
鎌倉、小田原あたりは北条氏の警備厳しく易々と兵を通すことはむつかしかった。
目を付けたのがこの吾妻路だった。
この地方の領主たち鎌原氏、羽尾氏の領地争いに乗じて戦いの火ぶたが切って下ろされた。
今日でもよく見られる2大勢力による代理戦争みたいなものだった。
結局、頭脳明晰で、戦略を立てて戦うと負け知らずの上杉勢は武田・真田勢の謀略にこの吾妻路を敗退することとなった。
49歳という若さで突如亡くなった謙信は、生涯独身を通して子供もいなかった。
「生涯不犯(夫婦以外と交わってはならない)」を守り通したためとも言われている。
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肖像画は、珍しいヒゲ面、いかにも無骨で強そうに描かれているが、あまりにも強調しすぎているような感じだ。越後のごぜ唄には「・・・とらどしとらずきとらの日に、生まれたまいしまんとらさまは、城山さまのおんために、赤槍たててご出陣。男もおよばぬ大力無双」とある。
まんとらさまとは謙信の事、男も及ばぬ...まさに女をにおわせている。
まんとらさまとは政=まん、お政の方さま(おまんのかたさま)のこと。
資料には「越後景虎四十九歳歿、大虫という」とある、大虫とは「しゃくの虫、婦人の血の道を起こす」の事で、今で言えば更年期障害・婦人病に当たるらしい。
毎月10日前後になると、合戦中にもかかわらず、兵を引いて城に引き篭もっていたそうだ。
戦国時代では多くいたという女性城主も江戸時代になると認められなくなった。
女であったことがばれてしまうと、遡ってお家断絶になってしまう。
上杉謙信の言葉に「大将たる者は仁義礼智信の五を規とし、慈愛をもって衆人を憐れみ…」とある。
五規すなわち五常の徳、戦国武将とは思えない優しさだ。
謙信女性説、ほんとうのような気がしてきた。
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by hanaha09 | 2016-02-28 18:30 | 田舎暮らし | Comments(0)
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