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あるちゅはいま日記

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関所抜け

江戸時代も後期になると、長期の太平の世の中で庶民の生活にもゆとりができた。
信仰を名目とする旅行が一大ブームとなった。
このブームの一翼を担ったのは、1802年(享和2年)に出版された十返舎一九の『東海道中膝栗毛』だ。
1820年(文政3年)には嬬恋村を通る大笹街道を巡った『上州草津温泉道中続膝栗毛十編』も発行された。
大笹街道は商用の利用が多かったが、江戸から善光寺に至る近道。
善光寺参りの善男善女も多く行き交った。
大笹宿の西端には大笹関所が設けられていた。
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「入り鉄砲の出女」を取り締まる関所の通過には、代官や名主などの発行する“関所手形”が必要であった。
手形を持たない者は抜け道を利用したのだが、それは「関所破り」、磔の刑。
大笹関所ではこの抜け道を“女道”と呼んだ。
この女道の路傍に、嘉永5年(1852)一基の石碑が建てられた。
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「 揚雲雀見聞てこゝに体ふて右を仏の道と志るべし 正道」。
仏の道とは、善光寺道のことであり、抜け道の「道しるべ」だ。
この道しるべ、関所からおよそ1kmほどのところに建っている。
関所番が知らぬわけはない。
江戸時代の庶民たちは実に易々と関所破りをしながらの旅を楽しんでいたのである。
そして、庶民の女性は関所手形を持たないで旅をするのが常識だったようだ。
全国五十三カ所の関所でも、似たようなことが繰り返されていたようだ。
要するに、捕まえると幕府から「お前の関所の警備はなっておらんじゃないか」と怒られるから、ということでもあったそうだ。
なんともファジーな行政手法だ。
「日本人は何によってモラルを保っているのか。それは武士道なんですね」
「武士は身分でいうとトップにある支配者ですが何も生産しない。だから身を清くして品格を高めよ。いざという時には死ぬ覚悟を持て、というモラルが求められたのです。」
と、いう説がある。
どこかの政策経費流用の号泣元県議の裁判経過を見ていると悲しくなってきますね。
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by hanaha09 | 2016-02-27 18:17 | 田舎暮らし | Comments(0)
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