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あるちゅはいま日記

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謎の浮世絵師(つづき)

「東洲斎写楽」には謎が多かった。謎の浮世絵師(つづき)_b0126549_2250525.jpg
生没年ばかりか氏素性もよく分からなかった。
10か月ほどの精力的な制作活動の後、忽然と姿を消した訳は...
いままでにその正体を明かそうと、さまざまな説が出されてきた。
その多くは別人説である。
別人の候補としては浮世絵師の歌川豊国、葛飾北斎、喜夛川歌麿、山東京伝、その他に歌舞伎役者の中村此蔵、作家の十返舎一九などなど。
そして、1844年に斎藤月岑が編集した『増補浮世絵類考』にこうあった。
「写楽 天明寛政中ノ人 
 俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す  
 阿波侯の能役者なり 号 東洲斎」
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最近、埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳に「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良兵衛」が1820年(文政3年)に58歳で亡くなったという記録があることが発見された。
また、1818年(文政元年)に歌舞伎役者の瀬川富三郎が作成した江戸の文化人名簿である『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に、浮世絵師を示す記号の入った「写楽斎 地蔵橋」とあることが分かった。
阿波蜂須賀公お抱えの能役者斉藤十郎兵衛は「写楽斎」と名乗る「写楽」と同住所に住んでいたことになり、浮世絵師「写楽」は藩士であり能役者である「斉藤十郎兵衛」と同一人物であることは間違いない。
「東洲斎」は(とう しゅう さい)、「斉藤十・・・」は読み順をいれかえると(とう じゅう さい)。
そして、地蔵橋に住所を構えた絵師「写楽斎」は(しゃらくさい)、当時の江戸によく見られる酔狂だ。
斎藤十郎兵衛は、宝生座(ほうしょうざ:大和猿楽四座のひとつ)の一員で、宝生座は、寅5月から卯4月まで一年間非番であった。
「写楽」が浮世絵を描いたのは、寛政6年(甲寅)5月から寛政7年(乙卯)1月までで、宝生座が非番(休み)であった時期の中にすっぽり納まる、大量の浮世絵描画に専念することができた。
なぜ素性を明かせなかったか...
当時、歌舞伎役者は「かわらもの」と呼ばれ卑しい職業、斎藤十郎兵衛は下級武士とはいえ紛れも無い阿波藩士、歌舞伎役者の浮世絵を描くといった卑しい仕事に手を染めることは許されない、ということだったのだろうか。
彼にはやるべき能役者としての務めがあった、10か月ほどで絵筆を放り出したのもなんとなくわかる。
もう一つは有名版元の蔦屋重三郎が素人浮世絵画家と思われる一介の能役者に大金を投じたのか...
蔦屋重三郎は自ら売れっ子絵師に育て上げた喜多川歌麿に逃げられた。
才能ある絵師を探し、育て上げる必要に迫られていた。
そして、素人「写楽」に白羽の矢を立てた、「写楽」には歌麿のときと同様の雲母摺(きらずり)の大判大首絵を大量に描かせたことからそのことが窺われる。
かくして、蔦屋重三郎の思惑は失敗に終わった。
大量の版権を京都の版元に売り払ったのもこの後の事だ。
しかし浮世絵プロデューサー蔦屋重三郎の大失敗は日本の美術界にとてつもない偉大な貢献を果たすこととなった。
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by hanaha09 | 2016-02-25 20:22 | 田舎暮らし | Comments(0)
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