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あるちゅはいま日記

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横浜開港と生糸貿易

松平 忠固(まつだいら ただかた)幕末の老中、そして信濃上田藩の第6代藩主。
嘉永7年(1854年)の日米和親条約調印時に老中を務めた。
忠優(ただますと改名)は、老中主席阿部正弘と穏便・開国論を主張し、鎖国・攘夷論の徳川斉昭と対立していた。
幕府の開国論を牽引した。
安政元年(1854年)に再びペリーが来航し、日米和親条約が結ばれた、急を要したのも次から次へとアジア地区を植民地化していったイギリスの脅威もあったようだ。
このため、不満をもった斉昭は、幕府の参与を辞任し、忠優を老中から解任させた。
安政4年(1857年)には忠優は産物会所を国元と江戸に設置し、上田藩の特産品であった生糸を江戸へ出荷する体制を作り上げ、生糸輸出を準備させていたのだ。
忠優は横浜でいち早く外国との貿易を行うように上田藩の商人たち(伊藤林之助、町田吉五郎など)に指示し、上州(嬬恋村)出身の謎の商人中居屋重兵衞に託して、横浜開港と同時に生糸貿易を開始したのだった。
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伊藤林之助の残した日記には次のようにある。
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安政6年(1859年)6月2日の開港と同じくして横浜にやってきた林之助。
6月19日、中居屋重兵衛のあかがね御殿の開業、祝儀を運ぶ。
6月20日、イギリス女人上陸、女余程美人也。
幕府が新し発行した「新二朱銀」の交換レートが外人に受け居られず6月23日以降この通用を停止した。此れを境に生糸取引が活発となったようだ。
7月2日、横浜にてアメリカ通し彦蔵(ジョン万次郎)殿と種々噺合致す。
7月23日、早朝、英吉利バアベル参り、白糸計七千斤(4200kg)引き合い、8月中に相渡候約定書取為替、一斤二両に定める。
昨日、波松へ売り渡し候白糸・黄糸都合四十六筐相渡、右代金の内一分銀五百両、ドル五千枚受け取り候。白糸・黄糸四十六筐で二千五百八十斤、代金は四千八百三拾七両二分也、ドルにして六千四百五拾枚也。
7月25日、中居屋十兵衛殿江糸売剝代金五分受取置候に付...ドル弐百八十六枚、弐分弐朱、弐百九十五文、中居口銭渡。
7月27日、大船にて江戸へ参り候、荷物は金子四筐。夕飯後、茅町御屋敷(上田藩邸)へ持参いたし候。夜五つ時頃吉原に参る、さの槌へ参る、真砂と申す女郎買。
8月8日、手透き二候ハ 舟にて一盃仕候間被招候...茶屋新玉川と申し候へ休足、それより豊倉と申す女郎屋に参り、小雪と申す女買。大遊山。
開港わずか数か月で大量の生糸商売をかなえたことがうかがえる書付だ。
中居屋重兵衛のもとにも口銭がたんまりと転がり込んだ。
大遊山の光景が目に浮かんできますね。
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by hanaha09 | 2016-01-29 23:19 | 田舎暮らし | Comments(0)
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