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あるちゅはいま日記

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江戸の庶民生活

天明3年(1783年)の浅間山噴火によって発生した「浅間泥押し」。
この災害で鎌原村に埋もれた一軒の家が発掘されたのが昭和54年(1979年)。
鎌原観音堂の近く、村のはずれの雨が降ると十日も水が引かぬ、といわれていた「十日の窪」だ。
発掘されたのはごく普通の民家、そこから多数の出土品が出てきた。
二百十四年も前の江戸の庶民生活の様子がよみがえった。
鍋、茶釜、陶器、伊万里焼とみられる磁器、糸印、硯、びーどろ鏡に鼈甲のかんざし等々。
百姓の家庭には似合わない品々も発掘された。
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(資料館内の展示物は撮影ができないのでちょっとお借りした)
江戸時代の百姓は「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほどいずる物也」(享保期の勘定奉行神尾春央の言葉)などと、粟やヒエしか口にすることのできない抑圧された封建時代の百姓像が浮かびあがってくる。
しかし、不屈の百姓たちは新田開発、農業生産効率が向上するとともに余裕のできた時間を彼ら自身の副業にあてたのだ。
江戸の百姓は米以外にもちゃんと収入源を持つ、「百姓は百の職業を持つ兼業農家」だったのだ。
立松和平の小説には天明時代の鎌原村では蚕のための桑の栽培が始まっていた、との記述もある。
鎌原村は当時宿場機能を持っていた。
街道筋にはお茶屋、旅館、問屋等が存在したとみられている。
そして、馬が200頭もいた。
大笹街道をやってくる荷物の中継運搬で駄賃稼ぎをしていた。
また、この馬のほとんどが雌馬だったそうだ、荷物運びに便利だったこともあるが繁殖用としての稼ぎ目的もあったようだ。
入会地には多くの良材があり、これは炭の生産、万座方面には硫黄採掘にも出かけたようだ。
かくして、自然災害による農業リスクを分散させた「兼業農家」たちは、暇を見つけては江戸の多彩な文化生活を謳歌していたようだ。
浅間山麓の標高900メートルに達す僻地にも、江戸や上方の都市文化が荷物、商人とともに伝わり、鎌原村の一般庶民・百姓の間に草莽(そうもう:草の生い茂った所、転じて民間とか在野)の文化が開花していたのである。
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by hanaha09 | 2016-01-22 21:33 | 田舎暮らし | Comments(0)
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