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あるちゅはいま日記

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幕府金庫の破綻

豊臣時代から江戸時代初期にかけては金の算出がピークとなった。
大和の国のゴールドラッシュ、黄金のジパングそのものだった。
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時は5代将軍綱吉の時代、華やかな町人文化が咲き誇っていた頃、幕府の財政は赤字続きで破綻寸前だった。
佐渡の金山も産出量が減っていった頃、大判小判をどんどん増産することもできなかった。
幕府には勘定組頭荻原重秀という男が居た。
慶長小判の金含有量を減らし、通貨を拡大することを考えた。
つまり小判10枚を回収して改鋳、15枚として江戸の町中にもどさせる。
新しい元禄小判は混ぜ物で金含有量は56%になった。
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続いて銀貨も改鋳された、銀貨の銀含有量は20%までになってしまった。
この改鋳で幕府には500万両もの稼ぎが転がり込んだ、と推算されている。
もう一つの効果があった、通貨流通量拡大による景気刺激策が実った。
なんだか今もテレビで叫ばれている「ア〇ノミクス」みたいだ。
ただ、銀相場は大幅に下落、銀取引が中心であった上方商人にとっては大打撃だった。
「慶長小判を改鋳するは、邪なるわざ」という反論に対し荻原重秀は「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり。」と言い放った。
「幕府の信用に裏付けられた貨幣」、それは「金本位制」ではなく現代にも通じる「管理通貨制度」なのだ。
世界に先駆けた通貨管理の考えも後に幕府体制を脅かす思わぬ影響を及ぼした。
1853年(嘉永6年)にペリーが浦賀沖にやってきた、アメリカ艦隊に供給した食糧等の必需物資の代金として受け取った約350ドルの金銀銅貨が問題の始まりだった。
1854年(安政元年)に再びペリーが来訪し、翌年アメリカの通貨であるメキシコドル銀貨と日本の通貨である1分銀と、1対1の交換比率にすると決めた。
2年後の1856年(安政3年)に、やってきて日本総領事に任命されたタウンゼント・ハリスがペリーが結んだ条約の通貨交換比率を改訂要求をつきつけた。
その交換比率とは、1ドル銀貨1枚と1分銀3枚で交換する、というものだった。
これにはなんとなく説得力があった、1ドル銀貨と一分銀3枚分の銀含有量がほぼ同じとなるからだ。
そのとき、日本では1両=1分銀4枚という交換比率がきまっていた。
例えば、ハリスが1ドル銀貨4枚を日本に持ち込む。
これを日本で1分銀と交換すると、12枚の1分銀が手に入る。
この12枚の1分銀は日本で3両の金貨に交換できる。
この金貨を上海とか香港に持ち出し、そこでの相場で交換すると11ドルになる。
元手の4ドルが3倍近くになる、まさに濡れ手に粟とはこのことだ。
かくして、幕府発行の金貨が諸外国に大量に流出し、幕府の小判は底をついてしうことになった。
なぜこうなったか?
幕府の信用において一分銀の価値は銀の含有量よりもはるかに高い価値を持っていたことにある。
アメリカにいたっては政府の通貨に対する信用はなく、はるかに低い交換レートが決められていたのである。
諸外国に先んじた江戸経済のガラパゴス化悲劇だった。
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by hanaha09 | 2016-01-17 21:53 | 田舎暮らし | Comments(0)
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