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あるちゅはいま日記

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印旛沼

印旛沼の近くに住んでたことがある。
水質汚染、カミツキカメの台頭するころだ。
けれども休日に訪れる湖畔は気持ちが和む風景が広がっていた。
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この印旛沼、縄文、弥生時代には銚子あたりから内陸につながる内湾「古鬼怒湾(こきぬわん)」だったそうだ。
印旛沼が決定的に湖沼化の道をたどることになるのが徳川家康の「利根川東遷事業」。
江戸に流れ込んでいた利根川による水害を避けるために流れを銚子方向に切り替えてしまったのだ。
この大事業は江戸を洪水から守る役割を果たしたが、利根川上流からの多量の土砂等が下流に運ばれ、堆積し、その結果として印旛沼付近は陸地化、そして湖水は淡水化することとなった。
徳川家康は百姓に七公三民、生活に必要な3割を百姓の手に残し7割もの年貢を取り立てた。
しかし、新しい江戸幕府体制のための城、その他の普請役の給金としてこの多くを百姓に還元した。
これが一段落すると三公七民、百姓は食つなぐのに必要な3割を残し4割の可処分所得を得るようになった。
これが江戸経済の発展を支えた。
しかし、新田開発の適地も減少、耕作面積は増えず、幕府の収入は減少するのみであった。
まず徳川吉宗がこの印旛沼に目を付けた。
都市部の商人に印旛沼の干拓工事を募集したのだ、今でいう民活だ。
これに応じた千葉県平戸村の染谷源右衛門は幕府の補助金を得て、新田開発に取り組んだが予想以上の難工事でとん挫してしまった。
そして、時の老中田沼意次の命により1782年(天明2年)大阪の天王寺屋藤五郎、江戸浅草の長谷川新五郎の2人を金主とし、再び印旛沼干拓事業が再開された。
天明3年の8月に浅間山の大噴火が起こった。
熔岩の流出により発生した土砂なだれは多くの村人たちの家、田畑、家族を押し流し、利根川を下り、大量の土砂を河口付近の底に残していった。
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その後、利根川は大雨のごとに氾濫、逆流をして印旛沼を襲った。
最大のダメージは1786年(天明6年)の江戸も襲った大洪水、3分の2まで進んでいた干拓工事はあえなく失敗に終わった。
一方、そのとき田沼意次は北の蝦夷地の開拓ももくろんでいた。
蝦夷地で生活の基盤を持っていたアイヌとともに開拓を進め、この地に産する金銀・物産を管理、ロシアとの交易を図ろうと画策していたのだ。
この交易ルートとして印旛沼を通り江戸へと続く運河により蝦夷と江戸を結ぶ安全な航路を築き上げようとしたのだ。
この1786年(天明6年)に田沼意次は浅間山噴出した大量の火山灰が原因とされる天明の飢饉、百姓一揆に続く政争で失脚した。
広大な印旛沼新田開発事業、蝦夷からロシアに続く交易ルートは夢のままに幕を閉じた。
江戸時代の一つの転機を閉ざしたのもこの浅間山だったのだ。
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by hanaha09 | 2016-01-16 11:43 | 田舎暮らし | Comments(0)
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